刃物を握ると手から血が出ませんか?
水琴はあたしの前で、身体をぎゅっと硬くして、顔を汗まみれにしていた。
ふふ、いつもふわふわでぽわぽわな貴女でもそんなに硬くなっちゃうのね。凄いわ、刃物って。凄い凄い。
「何?」
冗談でしょ? みたいな笑いをひきつらせてあたしの顔を見る。
「何なの、これ? 揚羽?」
「見ての通りだよ?」
あたしは薄笑いを浮かべて答えた。
「今からこれを、あんたの胸にブスッと刺すの」
水琴が再び自分に突きつけられているそれに目を落とす。
刃渡り20cmぐらいの包丁があたしの手に握られ、彼女を狙っている。刃渡りって意味はよくわからないけど、たぶん20cmぐらいだ。黒光りとギンギラ光りを同時にしながら、サメみたいな鋭さで、それを持つあたしをまるで強くなったみたいに偉そうにしてくれている。
汗がぼっとんぼっとんと音を立てて彼女の足元に落ちる。ふふ、怖がってる、恐怖してる。
あんたなんかが怜くんに好かれるのが悪いのよ。大人しく引っ込み思案キメときゃこんな目には遭わないものを。
まぁ、安心しなさい。本当に刺す気はないから。あんたのこと脅して楽しんでるだけだから。
あんたがこれで怜くんに近づかなくなれば、あたしももうこんなことはしないから、ね?
「友達……だよね?」
水琴は涙とハナミズも零しはじめながら、いつもの優しくて弱そうな笑顔をあたしに作って見せた。
「ふざけてるんだよね? あたし達、友達だもんね?」
「友達だからこそ許せないんだよ」
あたしは圧倒的優位に立っている自分に酔いしれながら、言った。刃物って本当に凄い。
「抜けがけはしないようにってお互い言ったのに、あんたが泥棒猫みたいな真似するから……」
あたしは刃物を『ほれっ!』と動かして見せた。水琴が追い詰められた猫みたいに伸び上がる。
ふふ、そろそろいいかな。
刃物をしまって、嘘だよってばらして、頭ナデナデしてやって、でもあんたが怜くんとベタベタするなら本当にやっちゃうよってことだけ匂わせて、仲直りしよう。
そう思ってたら、水琴が手を前に出して、あたしの突きつけてる刃物を両側から掴もうとするような格好をした。
いや、こんなもの掴んだらあんた、手がザクザクになるよ? やめとき。
水琴は勇気を振り絞ってるみたいな顔をして、唇を歪めて結び、固い動作と震える手で、包丁を握りに来る。
あたしは包丁を引っ込めなかった。どうなるんだろう、これ? と興味をそそられてしまったのか、握ろうとする彼女のしたいように、彼女が握りやすいように、じっとそれを見守っていた。
「ぽえっ!」みたいな声を出しながら、水琴が包丁の刃の部分を、思いっきり握った。
まっさか本当に握るとは思わなかった。というのは言い訳で、凄い! コイツ本当に握りやがった! 人間、追い詰められるとこんなこと出来るんだ! でもあああ本当にやっちゃった! って、感動と後悔をあたしは同時にしてた。
「ふふふ……ふはははは」
水琴が笑い出した。
「と……、取ったどー……!」
「ちょっとあんた! 何してんの!?」
ようやくあたしは心配して叫んだ。
「離しなさい! 怪我するよ! 離して!」
そう言いながらあたしは包丁を引いた。
しまった。包丁って、握っただけでもそりゃ切れるけど、切り落とそうと思ったら引かなきゃいけないんじゃん! 浅い傷を深くしてやろうと思ったわけじゃなかった。ただ、彼女の手から包丁を抜こうとして……
しかし、引いたあたしの手は、包丁を、持っていなかった。
水琴を見ると、しっかりと包丁の刃の部分を握りしめていた。あたしは力負けして包丁を離してしまったのだ。
「あは……あはははは、取ったどー……」
水琴が気が触れたようにまだ笑っている。
その手はさぞかし血まみれ……と思ったら真っ白だ。一滴の血も流れてない。
「みっ……、水琴……? あんたそれ、大丈夫なの?」
「なーにがー?」
「手よ、手! 怪我してるんじゃないの?」
あたしがツッコむと、ようやく彼女は包丁の刃から左手だけを離し、見た。うっとりとしたような目でさんざんそれを眺め回してから、あたしのほうに手のひらを向けた。無傷だ。まったく、一筋の切れ目すら入ってない。
どういうこと? もしかしてあたし、間違えてオモチャの包丁持って来ちゃった? いいえ、確かにあれは自分の家から持って来た、自分のキッチンの、いつもカボチャとか丸鶏をスパンスパンのダンダンダンと斬っている、いつでも砥石で切れ味抜群に保ってる、あたしの包丁だ。
「あたし、願ったの」
水琴が笑顔で言った。怖い。
「どうか私の手が、包丁に打ち克ちますようにって、願ったの」
あたしは思わず言った。
「ぽえ?」
「願えば叶うものね」
水琴は右手で包丁の刃を強くにぎにぎしながら、言った。
「揚羽も、やってみる?」
「いやいやいや! 普通、刃物を握ると手から血が出ませんか!?」
そう言ってあたしは強く拒否した。
「私にやらせといて? 自分は拒否るの?」
「う……」
「やりなさい。それでおあいこにしてあげる」
「ひ……」
立場が逆転した。刃物を持った人間はやはり強くなるのだ。水琴なんて、いつもはメソメソしてるばっかりの弱虫のくせに。
「願いなさい」
水琴が包丁の刃から手を離し、柄に持ち替えながら、言った。それをあたしに突きつける。
「願えば叶うの。そういうものなの。無敵になれるわ」
「え、えーと……」
あたしは願った、神様に。あたしの目の前にいる、水琴という名の神様に。
「お、お願いです。やめてください。あたしが悪かったです。どうか……」
「キエエーー!!!」
絶叫を上げながら、水琴があたしに突っ込んで来た。包丁を前に構えながら、その切っ先は、あたしの胸をまっすぐに狙っていた。
「ふぐ!」
あたしはドン!という音を聞いた。
あたしの胸に、水琴の持つ包丁が、突き立っていた。
「ひゃうぅぅ……」
泣きながら、あたしの全身から力が抜けて行く。こんな……こんな最期って……
あれ?
血が一滴も出てない……。
あはははははと水琴が笑い出した。
「ど……、どういうこと?」
あたしが呆然としながら聞くと、水琴が言った。
「わかんないよ!」
「どうやら気づいてしまったようだね」
背後からそんな優しいイケボが聞こえたので、振り向くと怜くんが階段を降りて来ながら残念そうに笑っていた。
でも、おかしかった。ここは地下道の中なのに、怜くんが降りて来たのは地下道の階段じゃなくて、カンカンと甲高い音の鳴るスチール製の小さな階段だ。水琴はラクガキだらけのコンクリートの壁を背にしていたはずなのに、いつの間にかキラキラ光る鉄格子を背にしている。
「どういうこと!?」
そう叫んだあたしの横を通り過ぎると、あたしの心を通り抜け、怜くんは水琴の唇にキスをしながら、その首を引っこ抜いた。
「僕が、神なんだよ」
そんな意味のわからないことを言うと、怜くんは、あたしのスイッチを切った。
なんだ、あたし達……
自分達のこと、血の通ってる人間だとばかり。