唾、および口唇細胞の考察。のち、沈黙
「唾ってさ…」
突然の男の言葉に、女は顔をしかめる。
「は?ツバ?」
「そう、唾。」
「ツバって…あのツバ?唾液の?」
「そう、その唾。」
怪訝な顔のまま、女は男の言葉の真意をつかめず、何度も聞き返す。
無理もない。
目の前の40インチのテレビは、2時間弱の映画が終わったあと、Netflixのホーム画面をもう10分ほど映し続けていて、その男女は沈黙の中、延々とその画面を見ていたのだ。
その沈黙を破る言葉が「唾」だとすれば、怪訝な顔にもなろう。
「唾って…清らかだよね。」
「はぁ?」
女の返答は、怪訝を通り越して、若干の怒気を含みつつあった。
当然だ。
10分間の沈黙を破った言葉が、ついさっきまで一緒に見ていた映画の感想でもなく、二人の間に流れたほのかな雰囲気を察した台詞でもなく、「唾」だったのだから。
「いやさ、大ムカデの話。知らない?俵藤太。」
「……」
目線も合わせず唾の話を続ける男にもはや女は返答すらしなかった。
どちらかといえば好ましい、しゅっとしたあごのラインや整って清潔感のある髪が形作るその男の横顔も、意味不明な言葉が発せられていると思うとただただ憎らしく思えてくる。
「昔、琵琶湖の近くの国で大ムカデに困っている大蛇がいてね。その大蛇が俵藤太っていう武士にムカデ退治をお願いしたわけ。俵藤太は矢でムカデを射るんだけど、ムカデの固い殻にはじかれてしまってさ。」
「……」
「で、どうしたかっていうと、三本目の矢に唾を付けた。で、再び射ると、見事大ムカデに突き刺さり無事に退治できたって話。」
男は沈黙に耐えかねるように一気に語ると、テーブルから飲みかけの缶ビールをつかみ、ぐびりと喉を鳴らす。
「それが…なんで清らか、になるのよ」
女もチューハイの缶をとると男と同じように喉を鳴らし、どこかあきらめたように言葉を投げる。
「うん。唾にはね、悪いものを浄化する力があるということみたいなんだよね。いやなことがあると唾を吐くって描写はよくあるでしょ?あれも塩をまくみたいなことなんじゃないかなぁってさ。」
男はくっと顔を女のほうに向ける。
「ふーん…」
が、だからなに?という女の視線に耐え切れず、目線をつい外してしまう。
図らずも部屋の中で薄着になっていた女の肉感的なTシャツの張りに目がいってしまい、慌ててまた正面を向く。
「まあ、その…つまり、清らかってのは言い過ぎかもしれないけど、汚いものではないのかもね、とか思ったわけ。」
「…ふーん。」
女はいまだに男の真意がわからず、生返事をする。
しかし、心の中では、確かに「唾」という言葉で連想していたのは「痰」のほうで、痰は汚い気がするが唾はそうでもないのかもしれない、と思ったりしていた。
とうに深夜の0時を過ぎた時計が再び沈黙の時を刻む。
テレビはまだホーム画面のままだ。
幾度目かの缶ビールと缶チューハイを飲む音がぐびりぐびりと聞こえた後、ふいに男が口を開く。
「唇ってさ…」
「唇…」
その言葉に何とはなしに女が唇をすぼませる。
「唇って内臓なんだって。」
「内臓?」
女はすぼませた唇を戻して、触ってみる。
内臓…?
触ってみてもよくはわからなかった。
「正確には内臓というか、内臓と同じ細胞でできているってことらしいんだけどね。内臓が外に出てると思うとちょっと不思議だよね。」
「へぇ…」
それは知らなかった。
思わず純粋に感心の言葉が出てしまう。
「だからその…」
左手に温かく湿度のある手が乗せられる。
女は思わず驚いて、男を見る。
「その…キスって、お互いの内臓細胞を接触させて、唾が交換される…神聖な行為なのかなぁとか、思ったり…してました…」
左手に乗せられた手の温度がさらに上がったような気がした。
ああ、そういうことだったのか。
女はようやくこの長い問答の意味を理解した。
ふふと思わず笑って、左手を返し熱い右手をきゅっと握り返し、
「つまり?」
と、いたずら気に男を見る。
「つまり…アレです…」
と、意を決したように、男が顔を寄せる。
女は目を閉じた。
内臓細胞でできたそれがほんのりと唾を交換したようだった。
目を開ける。
男の顔が高揚しているのがわかる。
おそらく自分もそうだろう。
一瞬見つめ合った後、男が口を開こうとする。
が、それより早く女が言う。
「唾とか内臓とか、よくわかんないけど、キスの効果は私にもわかったかも。」
今度は男が不思議そうな顔をする番だった。
「え、どんな…?」
もう一度左手をきゅっと握り、目を閉じる。
「よくわからない長い話をやめさせられること。」