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ストレンジ体験記  作者: 藤阪つづみ
第7章 夢と、現実と
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31 空っぽの帰宅

 家の様子は、でかける前と何も変わっていなかった。間取りも家具も、置いてある細かい品々に至るまで、あかりの記憶と完全に一致していた。ただ、それまで同じ部屋にいたはずの存在がなく、そこにあったはずの声が聞こえない。ほんの少し前まで、もうひとつの声が、ぱたぱたという足音が、時折あかりを呼ぶ高い声が、たしかにあったはずなのに。今はもう何もない。

「少し休んだほうがいいわ。今は疲れているでしょうから」

 千草はストラの居場所については一切質問をしなかった。きっと、彼女はすべてを察しているのだろう。ふたりを二階に案内し、軽食と飲み物を置くと、すぐに下に降りていってしまった。

 ルリは畳に座布団を数枚敷くと、気を失うようにどさりとその上に倒れ伏し、そのまま目を閉じて動かなくなった。充分に回復できぬまま出発したせいで、相当消耗していたのだろう。それまで疲労を感じていなかったあかりも、無事に帰りついたことで安心したのか、突然両足が動かなくなり、ぐったりと座りこんでしまった。喉がからからに乾いていたが、目の前に置かれたグラスを手にとる気力もなかった。

 グラスの横には小さなかごがあり、小分け包装が施された同じ形のクッキーが盛られていた。それを見ていると、あるストラの言葉がふと頭をよぎった。

 ──じゃあ、一緒だね。ぼく見えないし、「食べる」もできないけど、あかりと同じだね。

 「一緒」。「同じ」。そういえば、ストラはずっと「同じ」という言葉を使っていたような気がする。彼はあかりに何を伝えたかったのだろう?

 あかりは目を閉じ、虹の国でストラとかわした会話を思いおこした。

 ──でも、ぼくはあかりとは違う。ほかの人には見えない。食べることもできない。あかりを困らせてばかりだった。

 「あかりとは違う」。それが、最後に彼が導きだした結論だった。彼は周囲の人間と自分が異なることを認識していた。しかし、彼はそうは言わなかった。ルリでもなく、千草でもなく、「あかりとは違う」と言ったのだ。これは、彼なりの言葉の()()なのだろうか。それとも、何か別の意味がこめられていたのだろうか。今となってはもう知りようがない。なぜ真剣に彼の言葉を理解しようとしなかったのか。今さら後悔したところで、どうにもならない。

 あかりは意を決して壁に手をつき、よろよろと立ちあがった。ストラとの記憶が薄れてしまう前に、どうしても見ておきたい景色があった。



 真夏の午後二時は暑かった。簡素な古いベランダには少し傾いた熱い陽が照りつけ、錆びかけの柵や物干し竿をこれでもかと焼きつくしていた。

 顔の熱さも肌へのダメージも省みず、あかりはガラス戸を引いてベランダに立った。あれほどあった洗濯物はいつの間にか取りこまれており、太陽の熱を遮ってくれるものは何もなかったが、あかりはかまわず顔をあげ、全身に八月の熱線を浴びた。

 いっそ、この全身を炙る灼熱が、不誠実な自分への罰になればいいのに。それで自分の罪が消えるのなら、このまま焼死体になったって構わない。苦しんだ末に自ら消滅を選んでしまった、あの子の魂への償いになればいい。

 ベランダからは、規則正しく並んだ住宅の、瓦でできた切妻屋根がよく見えた。ごくまれに新築のカラフルな片流れ屋根や、シンプルな白い陸屋根の家もある。間に走る道は色あせたアスファルトで固められ、時折自転車や人が往来している。右手にはさっきまで滞在していた佑雲山(ゆくもさん)が、左手にはかつてストラと通ってきた田んぼが見える。前方には緩くカーブした鉄道が敷かれ、電車のごとごとという音が風にのって、微かに聞こえてくる。

 あの子はなぜ、この景色を見ていたのだろう。この景色を見て、何を思ったのだろう。なぜ、自分はあのとき、ストラにそのことを聞かなかったのだろう。なぜ、関心を持たなかったのだろう。

 何をどれだけ考えても、明確な答えはだせなかった。通りゆく人々が無言でベランダに立つあかりを怪訝そうに見あげることはあっても、あの好奇心をたたえた大きな薄緑の目がこちらを見あげてくれることはなかった。

 こんな行為には、なんの意味もない。あかりは諦め、ベランダをおりて屋内へと戻った。ルリのいる部屋にはどうしても戻る気になれなかったので、彼女に気づかれないよう、そろそろと階段を降りて一階へとむかった。

 一階の台所には誰もいなかった。千草は店のカウンターにいるらしく、さっきからごそごそと物音が聞こえる。あかりはなんの気なしに、台所の調理台の前へと歩いた。すると、足先に何かがあたる感覚がした。目をさげて足のほうを見ると、調理台の下のくぼんだ隙間に、ミニトマトが挟まっていた。きっと、見えないところに転がりこんだせいで、掃除されずに放置されていたのだろう。あかりはトマトを拾いあげた。残念だが、この季節に床に放置されていたトマトを食べるというのは不可能に近い。しかたがないので生ゴミ用のゴミ箱を開け、トマトを捨てようとした。ところが、ゴミ箱の中には異様な光景が広がっていた。

 ニンジンの切れ端、かじりかけのパン、一部分だけがくりぬかれたナスに、まっぷたつに折れたキュウリ。明らかにまだ食べられそうな食材たちが、ほとんどまるごと捨てられていたのだ。あの千草がこんなに食材を捨てるなんて、いったい何があったのだろう。

「あら、どうしたの。ゴミ箱に何かあった?」

 はっと顔をあげると、千草が部屋の入り口で靴を脱ぎながらこちらを見つめていた。あかりはミニトマトを見せてゴミ箱を開けた理由を伝え、この捨てられた食材たちの由来について質問した。すると、返ってきたのはあまりにも意外な答えだった。

「それはね……ストラちゃんが『食べようとした』のよ」

 それははじめて聞かされた、衝撃的な事実だった。あかりが理解できずに混乱していると、千草は「言うつもりはなかったんだけどね」と前置きして、今朝おこったできごとについて話してくれた。

「あれはまだ夜明け前だったわ。妙な足音で目が覚めてね。行ってみたら、ストラちゃんが半狂乱になって私にすがりついてきたの。あかりちゃんが全然起きないから、永遠に眠ったままなんじゃないかって心配していたみたい。だから、ストラちゃんを一階に連れていって、生きている人は毎日長く眠るものだと教えてあげたの。そうしたら、生きている人と虹の住人の違いを知りたがってね……ひととおりのことは説明したと思うわ。そのうち、夜が明けてきたから、洗濯をするためにストラちゃんから一旦離れたの。一段落して台所へ戻ってみて、びっくりしたわ。あの子、冷蔵庫に入っているものを片っ端から口に含んでいたの。でも、ひとくち齧るのには成功しても、そのまま身体をすりぬけて床に落ちてしまっていた。それでようやく『自分は食べられない』ってことを理解したみたい」

 そこで千草は言葉を切り、目を丸くしてあかりの顔を覗きこんだ。たしかに、千草からしてみれば不思議でしかないだろう。今の話に、泣く要素など何ひとつないのだから。話の途中で突然、顔を覆って嗚咽を漏らしはじめたあかりに驚くのも、無理はない。

 困惑する千草に、あかりは夢空間でのできごとを話し、これまでのすべてをうちあけた。うわべの優しさで誤魔化していただけで、実際はストラを邪魔者扱いしていたこと。彼の話に耳を傾けず、勝手に彼の心を決めつけて判断していたこと。最後の最後になって心変わりして、彼を困らせてしまったこと。そして、彼があかりと人間社会に絶望して消えてしまったことを。

「それは違うと思うわ」

 あかりが懺悔の言葉を吐きだしきったあと、千草はあかりの肩をさすりながら、子守唄を歌うかのような柔らかい声で語った。

「ストラちゃんがものを食べようとしていた理由、わかる? あかりちゃんと同じになりたかったからよ。あの子は、あなたに好かれたかったの。同じ存在になって迷惑をかけなくなれば、もっといろんな場所にでかけられる。同じ視点で話ができる。あの子はただ、あなたと仲良くなりたかっただけ。そして、それが叶わないことを悟ったからこそ、女王様を選んだのよ」

 そして、ハンカチであかりの涙を拭い、にっこりと微笑んだ。

「あなたはちっとも不親切じゃないわ。あの子のために私を説得してまで夢空間へ行ったでしょう。私、本当に驚いたのよ。あかりちゃんみたいな慎重な子が、ここまで熱意をもって何かを成し遂げようとすることがあるんだって。心の底からストラちゃんのことを想っているんだって。きっと、ストラちゃんも同じことを思っていたはずよ」

 千草の言葉は、あかりの心を軽くしてくれた。しかし、ストラがいなくなった事実は変わらない。こんなに急に、いなくなってしまうなんて。あの子がいないと、こんなに寂しいなんて。はじめからそうだとわかっていたら。もっとたくさん、できたことはあったはずなのに。

 無事に帰ってこれた安堵と、ストラに会えない悲しみと、至らない自分への怒りで、あかりの心はぐちゃぐちゃだった。もらったハンカチが水分を含んで重くなっても、まだ涙はとまらなかった。あかりは台所の前にうずくまったまま、声が枯れるまで泣きつづけた。その間、千草は何も言わず、右手で背中をさすってくれた。それはとても優しく、あたたかい右手だった。

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