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お久しぶりです。忙しくて中々時間と体力が足りません。読んでいただける方々には感謝を。
「今月分だ。納めてくれ」
頭領がテーブルに置いたのは赤子の手のひらほどのカプセル。月に一度、満月の夜にアトランティスの真下に浮かぶそれを、頭領は毎月必ず見つけて魔女のもとへと届ける。潮の流れもない場所だからこそ、海面に浮かぶ小さなカプセルを見つけることができるのだろう。
魔女は柔やかに微笑んでカプセルを手に取りポケットにしまった。
「ありがとう、頭領さん。それで、豆は手に入ったのかしら?」
「もちろん。けど、量が仕入れられなかった。取りあえず十キロは生豆で買い付けておいたぜ」
「それだけあれば十分よ。支払いはいつも通りでいいのかしら?」
頭領は鷹揚に頷いて、熱い珈琲に息を吹きかけて冷まし口をつける。猫舌のせいで幼い仕草が可愛らしく感じられる。魔女はそんな彼女の様子を微笑ましく見ていた。彼女がまだ三つのころから知っている。あのときの無垢な幼児が今では空賊団を率いる頭領になっているのだ。これだから人間は面白い。
思えば、人は成長するものだ。体は二十歳も過ぎれば衰えていく一方だが、心は別だ。心が老いるのは、体が言うことを聞かなくなってから。魔女は何人もそういう老人たちを見てきた。初老はまだ気持ちが追いつこうとする。しかし、五十を過ぎるとそもそも体の自由が利かなくなる。六十ともなれば体のあちこちにガタが来て、若い連中が羨ましくなる。
魔女からしてみれば、むしろ老いていく姿に羨望を抱く。
きっと人間らしい死に方なんてできないのだろう。どうせ紛い物なのだ。
「裏の物置にあるから、勝手に持っていってちょうだいね」
早く持っていってくれないと物置が使えないのよ、と魔女は言う。
先日、馴染みの商人が飛空船で立ち寄ってくれた際に置いていったものだ。小麦ばかり三十袋。アトランティスは穀物が育てられない島である。そもそも浮島はどこも似たようなものだ。せいぜいこぢんまりとした野菜用の畑があるばかりで、穀類を育てるための広さが足りない。気候も良くない。浮島は根本的に農業に向いていない場所だった。
毎月、頭領は魔女にカプセルを渡し、その対価として小麦三十袋を持って帰る。空賊団とその家族を養うためにはそれでも足りない。なんとかやり繰りして皆に行き渡るように工夫しているが、それでも足りない分はどこぞで奪ってくるしか方法がない。
だが、空賊という略奪行為も毎度成功するわけもない。成功するのは三度に一度。危ない橋は渡らない。犠牲が出るようならさっさと退散するのが白鯨空賊団の掟であり、頭領のモットーだった。
それもそのはずで、白鯨空賊団には替えの利く人材などいないのだ。高性能な飛空艦を操るクルーを使えるレベルまで育て上げるのに少なくとも五年以上はかかる。たったひとりの犠牲でさえ、頭領は小麦千袋でも足りねえと言うだろう。
それでも略奪行為なんて無法なことをしていれば、しっぺ返しを喰らうことも度々あるものだ。
数ヶ月から半年に一度。やはり犠牲者は出る。頭領は今もまだ歯がゆい思いを繰り返している。
「導師、今日は他にも土産がある」
頭領は魔女のことを導師と呼ぶ。大仰な呼び方だと思いつつ、けれど魔女はその呼び名が嫌いではなかった。ほんの少しの面映ゆさと微笑ましさと、その影に隠れた申し訳なさとが混ざり合って、どうしたっていつも困った顔で苦笑してしまう。
本物の人間ならばきっと謙遜をしたりふんぞり返ったり、そういう人間らしい態度を取るのかも知れない。けれど、魔女は人から敬われたときにどんな態度を取ればいいのか知らない。生まれてからずっとそうだ。教えてくれる人はもういない。誰かの真似をしてみようと思ったこともある。けれど、その行為は父親の願いを裏切るような気がして憚られた。
「何か珍しいものでもあったのかしら?」
魔女は問う。杓子定規ないつものやり取りに変化があっただけで、シナモンを振ったトーストのように様変わりする。コーヒーは外せないわね。ホイップクリームとメープルシロップがあればもっといいわね――生きるためなら食べなくてもいいけれど、きっと生きることは小さな幸せに気づき続けることだから――いいえ、でもひょっとすると悪い知らせかもしれない。不安が首をもたげる。けれども、頭領がくすりと笑うとそんな曖昧な気持ちは空の下に落ちていった。
「警備員はいらないか?」
振り向かずに親指で差した彼女の後ろには魔女にとって見覚えのある人物がいた。
嗚呼――これは喜びだろうか。それともホッとした安堵の気持ちだろうか。悲しいなんてことはあるはずない。また会えたことが嬉しいのだろうか。
なんだかそれも違う。
久しぶりに見た彼は杖をついていた。ライフルは持っていないけれど、腰には拳銃の入ったホルスターがあった。
ほんの少し、わずかな変化だけれど気難しそうにくっついていた眉間の皺がいささか緩んでいるように見えた。初めて魔女のコーヒーを飲んだ瞬間のホッとした顔に比べれば大した変化ではないけれど。それを自分以外の誰かが担ったのだと思うと、なぜだか少し悔しくもあった。けれども、それ以上に湧き上がる気持ちを単純な言葉にはできそうになかった。微笑む代わりに横髪を耳にかける。
「憑きものが取れたような顔をしているわ」
呟くように言ったその一言に、頭領は軽く頷いた。
「空の見上げ方を思い出したらしい。軍人のくせに中々風流なことを言う」
魔女は軍人との夜を思い出して微笑んだ。存外に哲学かぶれな男だと思った。
軍人は近くまで歩み寄ると魔女の隣の椅子を引いた。どっかりと腰を下ろして小さく息をついた。
「来る者は拒まず去る者は追わず、だったか?」
唐突な問いかけに魔女は面食らった。もっと他に何か言うことがあっただろうに。得意気な軍人の顔を見るとかえって面白くなった。
「今度は鮫に食べられなくてよかったわね」
違う。こんなことを言いたかったわけじゃない。まだ二度目の出会いだけれど、希望も行方もわからぬ巡り合わせだけれど、なぜだか無性に叫びたくなる。紛い物の心の中に何があるのかは自分でもわからない。どうしてだろう。今までだって勝手にやってきて勝手に出ていって、ついぞ帰らなくなった人は大勢いた。中には帰る人もいたけれど、行くときよりもずっと大きな絶望を抱えて戻って来た。どんな言葉をかければいいのかなんて、魔女にはわからなかった。わからないことだらけだった。
――アトランティス。なんてくだらない伝説なのだろう。
あの場所にあるのは語り継がれる言葉ほど幻想に満ちてはいない。残酷な現実が、物質的な循環の理が、あらゆる人の思いを無情に塗り替える絶望があるだけなのに。
それなのに、どうして貴方はそんな顔で笑っていられるの?
「恩を返さずに死ぬのは俺の信条に悖る。いや、まあ、かっこうをつけても始まらないか。ツケを払おうと帰ってきたが、道中思い出したんだ」
何を、と問うよりも先に軍人は肩を竦める。
「俺の財布は今頃馬鹿でかい鯨の腹の中さ」
「……あらまあ」
意外な、魔女にとっては些細なこと。けれど、その言い草があまりにも人間臭くて、彼女は笑わずにいられなかった。
「――ふふっ。それは残念ね。どうするのかしら。あの鯨がいる水底まで潜ってみるかしら」
「六文銭の先払いだ。おかげで金がなくなった」
六文銭が何かは知らないが、魔女は死出の旅費か何かだろうと思った。人間はとかくそういう迷信が好きな生き物なのだから。
「だからあんたに雇ってもらおうと思ってな。どうだ、警備員は?」
雇ってくれと頼んでいるようにはとても見えないが、かえってそれが面白かった。
退屈な毎日が、時折やってくる変化という日常が、少しだけ面白そうな日常になりそうな気がした。もしかしたら何も変わらないのかもしれない。
けれど、警備員なんて必要ないのも事実だ。彼は仕事もないのに何をするのだろう。もしかすると自分が食べたあとの皿洗いや喫茶店の掃除をするかもしれない。強面の元軍人が気難しい顔で皿洗いを?
「いや、正直に言った方がいいか?」
「正直に? 警備員になりたかったのでなくて?」
魔女が首を傾げると頭領が面白そうに笑った。それがまた不思議だった。軍人は頭領と目を見合わせて、彼もまた恥ずかしそうに笑った。
「あんたの飯をまた食いたいと思った。どうせ天涯孤独の放浪者だ。今しばし付き合ってくれ」
「……サンドイッチは」
美味しかった?
そう聞きたかったのに、魔女は困ってしまった。そんな些細なもののために彼はまた戻って来たのだろうか。きっと違う。けれど、もしそうだったなら、それはちょっぴり幸せなことなのかもしれない。
「エスプレッソでいいかしら?」
魔女が尋ねると軍人がげんなりした顔で首を振る。
「勘弁してくれ。あれは苦手なんだ」
その答えに魔女は素っ気なく「あらそう」と呟いた。いつもより少し温かい風が吹いた。