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幕間 1

When she knew nothing.

 とある科学者がいた。

 数百年にひとりと言われたその男は小さな箱にひとりの人格を作り上げる。


 それは人類が目指した科学の頂点でもあり、神への挑戦でもあったのだろう。人がヒトを作る。見せかけだけヒトに似せるのではなく、コンピュータを脳として本物の人格を作り上げる。ヒトとは何か。哲学的な問答を繰り返して科学者はとある一つの成果を生み出した。


「マザー、戦争もそろそろ終わりそうだ」


 科学者はとっておきの珈琲豆を取り出して上機嫌だった。配給が始まる前に大金を叩いて買い求めた品だった。昔に比べれば質は落ちたが、それでも闇市の粗悪品より何倍も美味だ。

 彼はお気に入りのミルでゆっくりと豆を挽く。ネルに粉を敷き、平らに均して沸かした湯を注ぎ、ネルをくるくると揺らす。全体に蒸らしが入ったら、ポットの上に戻してのの字を描くように湯を注ぐ。立ち上る芳醇な香りに科学者は大きく息を吸い込んだ。


「人類はついに闘争の極地に踏み込んでしまった。全くもって度し難い。私の知的好奇心を満たすためにも平和は必要だったのだがね」


 科学者はお気に入りのカップに珈琲を注いでご満悦だった。十年以上前、講演に赴いた先のアンティークショップで見つけたティーカップ。金箔の縁取りに深い藍の色合いが実に優雅で心が落ち着く。仕事の合間に使うのはマグカップで十分だが、時折ちゃんとしたカップで飲むと一際美味しく感じるものだ。


「マザー、聞いてくれるかね?」


 小さな箱からは機械的な音声で『お聞きします』と返事があった。科学者は一息苦笑を漏らして、大した話じゃないのだがと前置きをした。


「科学者にならなかったら、今頃何をしていただろうと思ってね。そもそも科学者を目指そうと思って大学に入ったわけでもないし、大学院に進んだのもまあ成り行き任せだった節がある。君には絶対研究者の道が合っていると色んな人から言われたのがきっかけだった。まあ、私には友人と呼べるものがひとりもいなかったのだがね。こういう性格だ。今更友人が欲しいとは思わないが、もしかするとマザーがいてくれるから私は寂しくないのかもしれないな」


『光栄です。しかし、貴方は私のマスターであり、ファザーです』


「偶然さ。いずれ私ではない他の誰かが君と同じレベルの存在を作り上げただろう。私にとって、君という存在を生み出したことは研究者としての誇りに違いないが、君とこうして無駄話に花を咲かせるのは一方で実に愉快だ。つくづく、君の記憶領域に百科事典を入れなくてよかったと思うよ。過去の論文データなんて以ての外だ。私の記憶なんて論外だとも」


『体がないのに料理のデータばかり蓄積されているのは残念ですが』


 小箱は豆電球を明滅させる。まるで笑っているようだった。


「料理人になりたかった、と言ったら笑うかね?」

『よくわかりません。料理人とはどんな職なのですか? 研究者になるより楽しいことですか?』


 我が子の問いかけに科学者はさあと肩を竦めた。


「料理はあまり得意でなくてね。慣れていないからというのが大きな理由だろう。こだわっているうちにこいつは自分でも美味しく淹れられるようになったくらいだ」彼はカップを軽く持ち上げる。「料理も練習あるのみだ」


 鼻腔をくすぐる香ばしさの中に特有の酸味が隠れている。珈琲が苦い飲み物だというのは大きな間違いだと科学者は内心でほくそ笑む。優雅な一時だ。


「戦争が終わったら、どこか遠い空の上で喫茶店を開くのも悪くないかもしれない」

『それはどんなお店なのでしょうか』

「店主が暇すぎて読書ばかりしている店さ。そのくせ決まったメニューもなくて、珈琲だけはとびきり美味しいのを出してくれる。身の上話なんかに花を咲かせるのもいい。時々やってくる珍妙な客に悟ったような言葉を投げて仙人の真似をするのも滑稽だろうさ」


 科学者は研究室の窓から外を眺める。見下ろした街並みはクリスマスだというのにずいぶん寂れて見えた。それもそのはずだ。かつて百万人都市と呼ばれた大都市も、今は誰も外を出歩かない街へと変わってしまった。この建物だけが呆れ顔で佇む街に居座るのは、あまり褒められた人種じゃなかった。


「……なあに、ただの夢だとも。とある研究者の、ちょっとした世迷い言だ」

『素敵な目標です』


 彼はくすりと笑う。


「もし君が良ければ、私の代わりに叶えてくれたまえ」


 私にはもうそれだけの時間は残されちゃいないのだから――科学者は小さな箱をそっと撫でた。


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