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六
先祖代々の墓には花の一輪すらもなく、苔生した墓石の土台が侘しさを募らせた。
軍人は三年ぶりに祖国の土を踏み、真っ先に妻子の待つ自宅へと急いだ。しかし、自宅があった港町は焼け野原となっており、一縷の望みをかけて田舎の実家へと帰ったのである。
果たして、実家には誰もいなかった。近所の人が言うに、妻子は焼夷弾に焼け出され、姑の住まう里へ身を寄せたが、ほどなくして父と軍人の戦死の知らせが届いたのだという。
久方ぶりに顔を合わせた隣人は「生きていてよかった」と軍人の肩を叩いたが、彼は泣く気力すらも失った。
そうして母と妻子の眠る墓前を訪れたのである。隣人曰く、流行病ということだった。年老いた母と乳飲み子を抱えた妻が寝る間も惜しんで働き、体を壊しても無理を押して仕事にでかけたという。
村の中でも老婆と乳飲み子をそのままにはしておけないと話にはあがったというが、どこの家も自分たちのことで精一杯だった。ようやく引き取り手が見つかり、隣人が訪ねると母は乳飲み子を残して自裁していたという。少しでも他人に迷惑をかけたくないと思ったのか、母は遺産の一部を自分の葬儀にあて、それ以外は孫に残してやって欲しいと遺書を認めていた。
隣人の妻が乳母となって赤子を育てたが、赤子もまた乳を飲まなくなり、医者にかかったがどうすることもできず亡くなった。
「手向けの酒も買えんようになってしまった」
墓前にあぐらをかき、軍人は母が買い置いていた父の煙草を吸った。墓石に触れてもそこに人の温もりなどなかった。骨壺を取り出しても、妻子の骨をつかんでも、かじってみても、心が渇いていくだけで涙など流れることもなかった。
「……一体、俺は何のために戦った」
何のために。何度も自問した。
答えはわかりきっている。家族のためだ。愛すべき祖国のため、郷里のため、銃後のか弱き人々のため、自らの愛して止まない妻と母と、そして我が子のために他ならない。
だが、軍人としての理解がその悲しみをも悟らせてしまう。負けるということが、すなわち全ての不条理を唯々諾々と受け入れるしかないのだと理解してしまう。いっそ胸の裡に滾る思いを叫ぶことができたなら、ずっと楽だったに違いない。
線香を焚いても、経を唱えても、そんなものが死者にどれほどの安らぎを与えるというのか。衆生の苦難を救うと宣うならば、死ぬべきでなかった無辜の民を蘇らせてみろ、俺の家族を生き返らせてくれと何度も思った。呪詛すら吐いた。
全てがどうでもよくなった。何もかも、価値を見出せなかった。
持てるものは何もない。失ったものが多すぎて、何を目標に生きればよいのか軍人には良い考えが浮かばなかった。
三日三晩、男は墓前で呆けていた。
時折、隣人が心配して握り飯とお茶を届けてくれた。
不思議なもので、無気力になっても腹は空いた。人間は生きているだけで飯を食い、糞を垂れ、人に迷惑をかけるのだと知った。
孤独だった。
***
軍人は誰に語るでもなく、物言わぬ石碑に念じる。
――父は今も水底で眠っているのか。
果たして答えがあろうはずもない。
頭領にこの石碑へ案内されてからというものの、一日に一度石碑まで歩き、手を合わせるのが日課となった。
杖をつき、坂道を登る。道中で道端の小さな花を数本手折り、石碑に添えた。毎日続けていると、面白がった頭領が時々付き合った。
「あんたは僧侶にでもなるのか?」
頭領が馬鹿にした様子で尋ねたことがある。軍人はそれもいいかもしれないと思えた。この地で海に死んだものたちの供養をしながら一生を終えるのも悪くないと思えた。しかし、頭領を初めとした白鯨空賊団の面々と付き合っていくうちに、そんな存在は必要ないのだと思い知る。
ある日、ヤブ医者が軍人の義足を調整しながら言った。
「君は空に生きることを何と考える?」
軍人は答えなかった。ヤブ医者は彼の無言に少しの同情を感じつつ続ける。
「私はこの浮島でヤブだが医者をしている。頭領は空賊団を束ね、船員はその歯車だ。彼らひとりひとりにそれぞれの家族がある。田畑を耕すものはみなの食べ物を育て、機織り職人はみなの衣服を作り、大工は住まいを作る。しかし、上も下もみな死ねば同じだ。言葉を話す肉塊が腐敗を待つタンパク質に変わるだけさ」
「身も蓋もない話だ」
軍人が答えるとヤブ医者は悲しそうに笑った。
「どんな人間もそうだ。主義主張が違っても、信じる神が違っても、肌の色が違っても、話す言葉が違っても、生まれ故郷が違っても、男であろうと女であろうと、どんなに異なる人生を歩んでも、最終的に誰もが同じ死を迎える。人生に貴賤があろうとも、死に貴賤はない。医者の私が言うのだから間違いないよ」
「ヤブ医者のくせに講釈のうまいことだ」
「ヤブ医者だから講釈ばかり垂れているのだよ」
軍人が笑うとヤブ医者も笑う。存外に気の良い男だった。
「まだ新米の一兵卒だったころ、思ったことがある」
ヤブ医者は軍人の言葉に軽く頷いて続きを促す。彼は懐かしさとわずかばかりの気恥ずかしさを込めて言った。
「練習艦での初飛行だった。離陸してあっという間に大地が遠のいて、人の姿は点でしか判別できなくなっても、空を仰げばまだ遠く感じた。その時は純粋に空はこんなにも青く広いのかと感動した。しかし、それからしばらくして高高度訓練があった。酸素ボンベなしで活動できない中で空を見上げた。空の青さなんてどこにもなかった。真昼にも関わらず吸い込まれそうな暗闇の空を見たとき、感動は恐怖に変わった」
教本を読んだときは空がどうなっているのかわかったつもりになっていた。成層圏のそのさらに上空は宇宙であると。けれども、青い光さえも留まることのできない空気の薄さはつまり光を観測できず黒く見えるという現実が、無性に恐怖を感じさせた。その場で飛び上がれば真っ逆さまに空へ落ちていくような錯覚さえあった。
「一端の飛空艦乗りになって、余計に空は恐ろしくなった」
「だが、君は軍人だった」
「そうだ。軍人だった。俺は空を正しく恐れた。何気ない操作のひとつひとつに生と死の分岐点があった」
けれども、軍人は今もなお空を愛していた。
「船乗りが荒れ狂う海を乗り越えてなお海を愛するように、俺は空が好きだ」
「死ぬかも知れないのに、かね?」
軍人は笑う。
「飛空船と車のどちらに乗るか選べと言われたら車を選ぶくらいには好きさ」
ヤブ医者はつられてカラカラ笑った。なにせ車は「後進できる」と冗談めかして。存外に気が合う男なのかもしれないと軍人はヤブ医者を好ましく思った。
「さて、調整は終わった。まだ本調子じゃない。関節部分は少しまだ固さを残しておいた。余生は長いぞ。調整の仕方も覚えておいた方がいい」
軍人は礼を言って立つ。リハビリ中は杖のように固くされていたが、少し柔らかくなった。筋力は戻りつつある。いずれ元の柔らかさに戻すのは自分でやれとヤブ医者が言った。
「あんたはヤブ医者だが、少なくとも俺にとっちゃ名医だ」
右手を差し出すとヤブ医者は少し恥ずかしそうに握り返し、どこか罪悪感の滲む声で答える。
「救いたい命を救えない私はヤブ医者さ」
だが、と彼は言う。
君を救えたことは私の誇りに違いない、と。
「無駄にしないでくれたまえ」
何を、とは問わなかった。軍人は彼に敬意を抱いたがために、肯定も否定もせず冗談を投げかける。
「俺を救いたくなかったのか?」
「私は君の生きたいという願いを少しだけ、ほんの少しだけ手伝っただけさ。本気で死にたい人間が大人しく治療を受けるものかね」
軍人は何も答えられなかった。
***
「本当に出ていくのか?」
頭領は思いの外残念そうに問い返す。
軍人がいつものように石碑に祈りを捧げていると、頭領がいつものようにやってきた。その機会に彼はこの島を出ていくことを告げたのである。
「病み上がりで無理する必要もないだろうに」
「心配してもらえるのはありがたいんだが」
言いかけて、軍人は微笑んでみせる。石碑のある場所からは白鯨空賊団の船員家族が住まう街並みがよく見える。まるで古のバイキングだと思えた。
「毎日、祈り続けてなんとなく、そう。とくにこれといった根拠はないんだが、俺はやはり軍人のままだったと思ったのさ」
軍人が肩を竦めると頭領もそれを真似た。何を今更、と言われたような気がした。彼はヤブ医者から快気祝いにもらった煙草を咥える。数ヶ月ぶりに吸った煙が肺を満たし、大きく咳き込んだ。ちょうどいい機会だ。ついでに禁煙してもいい。
頭領は咳き込む軍人を見てケラケラ笑う。
「紙巻き煙草じゃ品がねえよ。親父のパイプがある。それをやろう。煙草は香りを楽しむもんだと親父はよく講釈を垂れたものさ」
餞別だ、と頭領は少し寂しそうに笑った。軍人は礼を言って、懐から一冊のノートを取って頭領に渡した。
「長く世話になった。恩返しは何をすればいいのかわからなかったから、俺の知っていることを書いておいた。昔、半年ほどだが軍学校で飛行科の教官をしたこともある」
中身は祖国の空軍で用いた飛空艦の基本的な艦隊戦術だった。白鯨空賊団は一隻の飛空船を操るだけで艦隊戦術は必要ないように思えるが、逃げるためには知っておいて損はないだろうと思って書いた。
「あんた、空賊に情報を売るなんてろくな軍人じゃねえな」
頭領は嬉しそうだった。
「どうせ祖国はもう存在しない。国体は失われ、身寄りもない。今更守るべき軍法も何もないだろう」
それならば、世話になった白鯨空賊団とその家族のために何かを残そうと思った。それだけのことだ。
「考えていた。自分が助かって、どうして助けられたのかと。知ってるか? 東洋には『袖振り合うも多生の縁』という諺がある。俺が頭領と出会ったのも何かしらの因縁があるということだ」
頭領はくすりと笑って軍人の肩を叩く。
「じゃあ、まず真っ先に魔女に金を払わなくちゃな」
そうしたら今度は自分で考えればいい。頭領はあっけらかんとした様子で満足げだった。自分よりもずっと年若い乙女に諭されるのがどことなく心地よく感じられた。
「なあ、軍人」
頭領は街並みを眺めながら言った。
「わたしらは空賊だが、無法もんじゃない。うちにはうちのルールがある。どこからともなく集まってきたはみ出し者どもをまとめるにはそれなりにきついお仕置きもある。わたしもまだまだ未熟だ。幸い、周りの助けもあってなんとかやっていけてる。あんたには教養もあるし、何より軍人だからな。空の戦いはよく知ってるだろう? できればあんたにはわたしの傍でうちの連中をまとめて欲しかったんだが」
彼女は軍人の顔を見て諦めたように頭を振った。
「――やめとくよ」
頭領は一瞬寂しそうに笑って、峠を下っていく。ふと思い出したかのように振り返って言った。
「軍人! あんたこの島の名前を知ってるか?」
「名前までは知らない」
軍人が少し大きな声で返すと頭領は白い歯を見せる。視線を逸らした先は青い空が広がっていた。
「――アトランティス。伝説の島さ!」
鼻歌を口ずさみながら坂道を跳ねるように降りていく頭領の後ろ姿を、軍人は静かに見送った。言い知れぬ安堵を頬に滲ませて。