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  五



 男には妻がいた。出征前夜、男は妻と静かな夜を過ごした。


 初めて出会ったのは見合いの席だ。両親にお前もそろそろと勧められ、彼女と出会った。先方の両親も乗り気で、縁組はトントン拍子で進み、瞬く間に結婚式まで終わっていた。


「空を飛ぶのはどんな心地なのですか?」


 男の腕の中で妻は問う。物知らずを恥じる女であった。しかし、決して愚かな女ではなかった。正直で、素直で、寂しがり屋だが強がるところが愛おしかった。

勧められて結婚したが、それでも男は妻を娶ってよかったと思った。特段結婚にこだわりがあったわけでなし。妻はお世辞にも美人とは呼べぬ容姿だった。人混みに石を投げれば当たりそうなほど平凡な顔である。けれども、よく笑う明るい女だった。男は妻の笑顔を見ると自然と笑うことができた。


「そうだな。空には厠がないんだ」


「それは私でもわかります」


 妻は少しムッとする。男はくすりと笑った。


「軍用でも小型の飛空船には厠を置く場所がないのだ。なのに数時間飛び続けることもある。そんなときは厠に行くのを我慢し続けなければならん。腹痛のときなんぞは最悪だ」


「あら、まあ」


「任地からの帰路で一度、誰かが腹痛の余り漏らしてしまったことがあった。飛空船の中は密閉性が高い。そのあと五時間も臭い密室に閉じ込められて鼻が馬鹿になった」


 妻はカラカラ笑った。


「また、あなたはご冗談ばかり」


「冗談なものか。本当のことだ」


 男もカラカラ笑った。

 妻があっと声を上げた。


「今、蹴りましたよ?」


 膨らんだお腹を愛おしく撫で、妻は男の手を取って自分の腹に当てた。


「ほらっ、ねえ?」


 嬉しそうな声だった。男は妻を後ろから抱き締めながら、この幸せがずっと続くことを信じて疑わなかった。


 きっと今度の戦争は長引くだろう。父が艦長を務める飛空艦に搭乗することが決まっていた。空軍でも名指揮官と名高い父のもとで働けることは名誉なことだったが、一方で妻の出産に立ち会えないことが申し訳なかった。そんなことを同僚に言えば、帝国軍人のくせに覚悟が足りんと説教を垂れることだろう。国家のために死ねと言われれば死ぬ覚悟はある。だが、それでも家族が心配であることに変わりはなかった。どちらが大事だと割り切れる話ではない。家族が大事だから国のために尽くしているのだから。


「……すまないな」


 妻は小さく息を吐いて言う。


「もう、お止しになってください。私はあなたがいなければ何もできないような弱い女ではありませんよ。きっとひとりでも立派に育ててみせます」


 だから――妻は寝返りを打って男の胸に顔を埋めた。


「絶対に帰ってきてください。手や足がなくなっても、目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、たとえ死んだとしても。絶対に……」


 男は無言で妻を抱き締めた。震える肩を抱き、湿り気を帯びた胸元に妻の熱を感じた。

 しばらくして、妻は静かに寝息を立て始める。男は彼女の額に唇を落とした。起きていたならきっと恥ずかしくてできなかっただろう。


「待っていてくれよ。絶対に、俺は君のもとへ帰るから」


 男は確かに妻を愛していた。






「ようやく起きたか。気分はどうだい?」


 男は風に揺れるカーテンを見た。柔らかな日差しが波を打つ。ちらちらと覗き見えた窓の外は緑に溢れていた。


「……ここは?」


 男は声の主を探して問いかける。


「さて。それは哲学的な問いかけかね? それとも厳密に座標を述べるべきかね?」


 窓の反対側で、彼は小難しそうな本を片手にして微笑んだ。


「座標が知りたいならば他を当たってくれたまえ。私はしがない医者に過ぎなくてね。航空士ではないのだよ。まあ、この島ではヤブ医者と呼ばれている。生憎、ここは注射針一本にも苦労する。ろくな医療品がない。どんな名医も三日でヤブ医者になれる素晴らしい場所だとも。元々研究畑で患者の治療は苦手だったから、ヤブ医者と呼ばれても間違いはないのだがね」


 ヤブ医者は自嘲しながらもどこか面白そうだった。口元は愉快だと言わんばかりに歪んでいる。男は息を吐いた。顔を動かすのも億劫で視線だけで見回すと腕に点滴を打たれているのがわかった。それ以外は額縁のひとつもない、設備の乏しい病室である。


「あなたが俺を助けてくれたのか?」


 ガラガラと喉が貼り付いたような声で尋ねる。しかし、ヤブ医者は否定した。


「違う。君を助けたのは私ではない。すぐにわかるさ」


「……そうか」


 ヤブ医者はくすくす笑った。


「無愛想なのもいいが、せめて彼女には礼のひとつでも言ってやってくれたまえよ。姦しいが面倒見のいい人物だ。ヤブ医者の私がここにいるのも彼女のおかげでね。若いがよくやっている」


 彼女というのが誰かはわからないが、どうやらその若い女性こそ自分を助けた張本人なのだろう。男は曖昧に頷いた。


「ところで、君は軍人かね?」


 不意な質問に男は訝しむ。


「……元、軍人だ。今はどこの紐付きでもない」


 ヤブ医者は満足げに頷いた。


「結構。大いに結構だ」


「なぜ俺を軍人だと?」


「簡単な話だとも。今どきパワーボートを改造して一人乗りの飛空船にしようだなんて物好きがライフルを持っていたら、そいつは大抵軍人か、元軍人に違いないからね。そうでなければ、よほど金を持て余した暇人だ」


「名推理だな」


「なあに、当てずっぽうだとも。それだけ痩せ細っているのに体格はまだがっしりしている。日頃から鍛えていたのがよくわかる。それに、一人乗りの飛空船に乗るのはやはり君のような元軍人が多いのも事実だ」


 ヤブ医者は自慢げに笑って本を閉じる。


「ひとりで空を旅して挙げ句に遭難かね?」


「似たようなものだ」


「あの場所に何日いたんだい?」


「……一ヶ月ぐらい、と思う」


「よく生きていたものだ」


「乾パンがあった。ちょうど、三週間分」


「水はどうしたんだい?」


「海水を汲んで蓋をして、蓋の裏についた水滴を舐めた」


「さすがは元軍人だね。生き残る術を知っている。自殺は試みなかったのかね?」


「……不発だった。二度目は、考えなかったな」


「やればよかったのに」


「迷惑だったか?」


「二発目も不発弾だったよ。元軍人にしてはお粗末だね。次からは買う店を選んだ方がいい」


 さて、とヤブ医者は立ち上がり男を見下ろした。


「最初の質問に答えてもらおうか」


 ――気分はどうだい?


 男はヤブ医者から視線を逸らして揺れるカーテンを眺める。


「鮫に食われるよりかはマシな気分だ」


 ヤブ医者はくつくつ笑った。


「結構、大いに結構」


 男は水を所望した。一言言葉を発するだけで喉が痛くなるほど渇いていた。


「ついでに美味い飯が食いたい」


 ヤブ医者は困ったように笑う。


「残念だが、しばらくは死んだ方がよかったと思えるような飯だとも」


「具体的には?」


「安心してくれたまえ。二日酔いの朝に吐いたゲロよりも臭わない」


 それはなんとまあ救いがない――男はすっかり衰えた表情筋をひくつかせた。




  *



 恩人は中々現れなかった。

 しかし、二、三日おきにサイドテーブルの花瓶に入れられた花が変わっている。どれも小さな花弁をたくさんつけている。見たことがない花だった。色合いも淡く派手さに欠けるが、生命力に満ちた力強さを感じた。ヤブ医者は恩人のことを「本質的には年相応の女さ」と庇うように言った。


 一週間ほど経って、男は午睡の微睡みから目覚める。花瓶を置く音がした。

 ゆっくりと目だけそちらへ向ける。十五、六に見える少女がいた。赤みがかった髪にそばかすが目立つ。焼けた肌は健康的で、つり目がちだが愛嬌のある顔つきをしていた。


 少女がこちらを向く。男はとっさに目を閉じた。


「全く、あんたは昼寝ばかりだな」


 呆れたような声音は瑞々しい色合いを帯びて聞こえる。年若い女の声を耳にしたのは久しぶりで、男は奇妙な新鮮さを覚えた。小さなため息をひとつして少女が病室を出て行くと、男は徐に体を起こして体を伸ばす。


 素直に挨拶をすればよかったと思うが、なぜ寝たふりをしてしまったのか自分でもよくわからなかった。


 毎日体重計に乗っている。馬鹿みたいに不味い療養食を一週間も与えられ、とっくに舌は狂っていた。せめてもう少しどうにかならないかとも思うが、日に日に増えていく体重を確認すると下手な文句は言えなかった。ヤブ医者は卑下してばかりいるが、それでも知識だけは豊富にあった。


 男の体重は着々と回復している。明日からは食事量も増やしていくとヤブ医者が言っていた。これからは筋力の回復も目指していくようだ。

 まずはベッドの上で体を動かすように言われていた。試しに腹筋だけで上体起こしをしてみたが全く上がらない。腕立て伏せも五回以上は難しかった。


 自分で考えていた以上に筋力が落ちている。男は落胆したが、同時にやる気が湧いた。

 できることは少ない。男はまず脚力の回復に努めた。寝たまま脚を上げて曲げたり伸ばしたりした。最初は数回でへばってしまったが、十日もすると息切れもなくなったし、すぐに疲れることはなくなった。立ったり座ったりするのも苦しくなくなった。しかし、まだ歩こうとするとふらついた。


 片脚は義足だ。左脚で右脚の分の筋力も取り戻さなければならないのだからリハビリは長くなるだろうとヤブ医者は言った。男は愚直だった。どれだけ時間がかかろうとも、一度捨てようとした命を拾われたのだ。文句を言う筋合いはなかった。それよりも助けられた以上は元気になって帰るのが義理だろうと思った。男はヤブ医者の指示に従い、ひたすら病室の壁を支えにしてぐるぐると部屋の中を回り続けた。


 地道なリハビリを二週間も続けると、男は病室の外に出られるようになり、廊下を何度も往復した。百メートルは楽に歩けるようになった。


 その間、少女が男の起きている間に部屋を訪れることはなかった。どうやら男と同じように少女もどういう言葉をかければよいのかわからないようだった。そのことをヤブ医者に尋ねると彼は「年相応だと言っただろう」と笑った。


 そうして一ヶ月が過ぎた。

 朝のリハビリが終わり病室に戻ると、男は疲れからベッドに倒れ込んだ。

 途端に睡魔に襲われて目を閉じる。不意に物音がして目を覚まし顔を上げる。


 寝惚けた視界にひとりの女がいた。どれほど寝たことか。頭が存外にすっきりしていたようですぐに視界は明瞭さを帯びた。

 彼女は今日もまた病室の花を用意してくれているようだった。


 男が小娘を見つめていると目があった。彼女は目を瞬き、そして大きく飛び退いた。危うく花瓶が倒れそうになり、男はそっと手を添えて支えた。


「……いつも花を替えてくれていただろう。ありがとう」


 男は努めて優しく微笑んだ。小娘は口をパクパクさせて意味のない声を何度も漏らした。


「落ち着いてくれ。君が俺を助けてくれた恩人で間違いないか?」


 尋ねると小娘はコクコクと小動物のように頷いた。悪い人ではないようだった。しかし、どう見ても若い小娘である。あのヤブ医者にとっても恩人であるというのは些か想像できない。


「ありがとう。おかげで生きている。助かった」


 あのまま死んでもよかった。けれど、それは言わない方がいい。それに今更死ぬつもりもなくなってしまった。

 小娘は大きな深呼吸を何度も繰り返し、なんとか落ち着きを取り戻したようだ。


「あ、あんた、起きてるならそう言えよ! びっくりするだろうが! だいたい知っていたならさっさと教えろ! 寝たふりがうまい奴だな!」


 口調は男のようだ。しかし、やはりその所作には小動物のようなかわいらしさがついてまわる。驚くぐらいなら起きているときに来ればいいものをと思ったものの、助けた側の彼女からすればわざわざ恩着せがましいような気がしたのかもしれない。あるいは気恥ずかしいと感じたのかもしれなかった。


 そも、最初に寝たふりをして声をかけるタイミングを失ってしまったのは男も一緒だ。


「それはすまなかった。礼を言う機会をはかっていたんだが、いきなり声をかけて驚かせてしまうのも悪い気がした。いっそこちらから出向こうかとも思ったが、ヤブ医者が許してくれない。立ち上がるまではできるんだが、どうにも歩くのは難しい。筋力がずいぶん落ちたようだ」


 小娘はふんっと鼻を鳴らす。


「ヤブ医者が言っていたぞ。二ヶ月は療養しろってな。あんたは何も気にせず食って寝て、それから体を鍛え直せ」


「そうするよ。しばらく厄介になるが、ここの責任者を紹介してくれないか?」


「わたしがそうだ。責任者というのもちょっと違うけどな」


「君が?」


 意外そうに尋ねると小娘はない胸を張って堂々と答える。


「ああ、そうさ! わたしが白鯨空賊団の頭領さ!」


 頭領は誇らしげに腕を組み、ふふんと笑った。


「どうだ、驚いたかい?」


 男は曖昧に頷いて、彼女の言葉の意味をようやく理解すると首を傾げる。


「いや、待ってくれ。空賊? ここは空賊の拠点なのか?」


 頭領は何を今更と言わんばかりに「おう、そうさ」と元気よく応えた。


「まっ、本当なら捨て置いてもよかったんだけどな。金目のものでもひったくっておこうと思ったら、魔女の客だとわかった。怖いものなしの白鯨空賊団でも最果ての魔女には手を出さないって掟だ。魔女の客も襲わない。この空のルールだ。だから、別にあんたが恩を感じることじゃない。わたしたちは取り決めに従っただけだからな」


 どうやら魔女のおかげで助かったのだと知れて、男は答える言葉を失った。頭をがしがしと掻いて呻きたくなったが堪える。


「鳩のチャームは魔女が気に入った客に渡すお守りなんだ。あんた、客なんだろ?」


「客、か。一宿一飯の……。いや、一宿二飯の恩がある。金を払うためにも帰れと言われたな」


「そりゃあちゃんと守った方がいい。魔女は優しいが取り立ては厳しいからな」


「例えば?」


「魔女が相手じゃ、泣く子も黙る白鯨空賊団すらただの運び屋さ」


「なるほど。よくわかった。とにもかくにも俺は空賊に助けられたわけだ」


 かつて空賊を討ってきた男が過去の敵に助けられる。嫌悪感は一切ない。むしろ痛快ですらあった。まるで他人事にも感じられる。滑稽を通り越して間抜けだと思った。


 頭領は魔女のことをよく話した。小さなころに出会って、それから今まで見た目が全く変わらないこと。いつも美味しい珈琲と料理を振る舞ってくれること。彼女がチーズとラズベリーを愛して止まないこと。おしゃべりが大好きで、それ以上に本を愛していること。故事に精通し、未来を見通す力があること。あの喫茶店をかれこれ百年は続けていること。


 男はあの店主が正しく魔女であったことに驚いたが、彼女の顔を思い出すとなぜか納得してしまう自分にも驚いた。頭領はひたすら「はあ」とか「本当か」とか、驚いてばかりいる男の相槌を面白く感じているらしかった。


「魔女を詮索するなよ。それはマナー違反だ」


「ルール違反じゃないのか」


「あそこで儲かりもしない喫茶店をやっているのには何か理由があるんだろ。そんなことうちの爺ちゃんの代から言われてる。一度爺ちゃんが聞いたらしい。ここに喫茶店を開く前は何をしていたんだって。そうしたら、魔女はこう言ったんだ」


 ――狭くて暗い、小さな箱の中にいたわ。


「それから魔女に過去を訊くのはタブーになった」


 頭領は訳知り顔でにやついた。


「まっ、魔女がどんな過去を持っていようと関係ないさ。うちの連中だって一緒だ。例えあんたが元軍人だろうと過去は問われない。それが空賊のマナーだからな」


「憎くはないのか?」


 男が問い返すと頭領は八重歯を見せて笑った。


「悪事を働いて官憲に追い回されるのが悪人の業ってもんだろ? それが怖けりゃ大人しく田畑でも耕してりゃいい。それに、あんたがわたしに何をしたんだ。遠い異国の軍人さんよ。答えは簡単。何もしちゃいないのさ。軍人よりも空賊の方がよっぽどものの道理を知ってるらしいな」


「元、軍人だ」


 男が訂正を求めると頭領は肩を竦める。


「いいか、軍人。軍人の頭ん中は死ぬまで軍人だ。軍を離れて何年経っても心のどこかで自分を駒だと思ってる。その考えを完全に捨てない限り、軍人はいつまで経っても軍人なのさ」


 そうして男の渾名は〝軍人〟になった。


「軍人。わたしのことは頭領と呼べ」


 ここじゃそれがマナーか――軍人の問いかけに頭領は「いいや、ルールさ」と笑った。



 *



「右脚がないのは不便だな」


 頭領が言った。


 初めて建物の外に出ることができた。

 覚束ない足取りだが、頭領が少し後ろを付き添い、後ろから次は右だ左だと指図する。ずいぶん遠くまで歩いたような気がした。振り返れば病室のあった建物からは百メートルほどしか離れていなかった。


 汗だくになりながら道を進んだ。渡された杖代わりの棒は頭領が近くの林から拾ってきたものらしい。朽ちた灌木の幹を削ったものだという。


 不思議なことに、空賊たちの根城となったこの浮島は広く、そして自然に満ちあふれていた。所狭しと樹木が根を伸ばし、空を覆うように広がる枝葉はさざ波のように日差しを和らげる。


 頭領の指図通り、緩やかな坂道を登る。三〇分も歩いただろうか。振り返るとようやく五百メートルほど進んでいることがわかった。頭領が近くにあった大木の根に腰を下ろす。


「来いよ、軍人。少し休め」


 言われたとおり、軍人は頭領の隣に座る。


 坂道の途中だが、そこから見下ろした光景は不思議な感情を呼び起こす。あるのは空賊たちの家族が住まう街並みだった。決してたくさんの家々が並んでいるわけではない。いくつか密集している場所が道沿いに点在する。その隙間を埋めるように緑樹が所狭しと幹を伸ばしているのだ。まるでいつか見た大陸の山村を思わせた。


「あれを見ろ」


 頭領はずっと東の空を指差した。


 遠く、水平線に雷雲が見えた。この島の周囲は清々しいほどの晴天だというのに、海の末端にはかならず暗い雲が浮かんでいた。まるでここが台風の中心のように感じられた。


「あの積乱雲の向こうに魔女の浮島がある。お前はそこから来たんだ」


「我ながら、馬鹿なことをした」


「一万フィートを越えて飛行できる船を用意しろよ。そうじゃなきゃここに来るのは無理だ。あんたがこの島の圏域にたどり着いたのは奇跡以外の何ものでもない」


 軍人は「馬鹿げた話だ」と笑う。


「一万フィートなんて軍用飛空艦でも中々出せない高度だぞ? 頭領の飛空船はその高さを飛べるのか?」


 それだけの技術力がたかが空賊にあるとは思えなかった。しかし、軍人の予想をよそに頭領は「楽勝だ」と鼻で笑った。


「白鯨空賊団を舐めるなよ。並の軍艦には負けねえよ」


 軍人は複雑な思いを抱きながらも頭領の自信に満ちた表情にかえって清々しさすら感じていた。


「この島の圏域というと、やはりこの島の下はあの鯨の住処というわけか」


「別名、飛空船の墓場だ」


「……やはり、そうだったのか」


 ふと思い出したように軍人は尋ねる。


「俺の飛空船はどうした?」


 すると頭領は決まりの悪い顔で肩を竦める。


「すまんが飛空船までは確保できなかった。あんたにとっちゃ財産だろう。残念だが、鯨の庭で無人の飛空船を積み込むだけの暇はなかった」


 勿体ぶった言い回しだと思った。軍人がさらに問いかけるよりも先に頭領は言う。


「今頃、あの鯨の腹の中だ。諦めろ」


 唖然とする軍人をよそに、頭領は立ち上がって歩き出す。軍人も慌てて後ろをついていくと、彼女は彼の速さに合わせてゆっくりと歩いた。


「三百年前の世界大戦のことは知っているか?」


 頭領は歩きながら言う。


「戦争の結果はともかく、大陸は人が住めないほどに汚染されたし、海も同じだ」


 かつての海を取り戻そうと考えた男がいた。そう頭領は言った。


「わたしのご先祖様さ。海にあるゴミを一箇所に集めて浄化しようと考えたんだ」


「壮大な話だな」


「大真面目な話さ。結果的にご先祖様はそれを成し遂げた。ゴミを食べて資源に還元する装置を開発したんだ。その装置こそ、今もこの島の下で泳いでいる鯨だ」


「あの鯨が!? あれは本物の鯨じゃないのか!?」


「ははっ、ありゃ人工的に作られた機械みたいなもんだぜ。ご先祖様の残した書物を見る限り、機械でもなく、生命でもない、そういう中途半端な存在らしいけどな」


 頭領は立ち止まる。いつの間にかずいぶん高い場所まで登っていた。


 彼女の目の前には小さな石碑があった。


「慰霊碑だ」


「慰霊碑?」


「そうさ。この海に沈んだものたちを弔うために、ご先祖様が作った。人も、人の思いも、人が作ったものも、この海は全部飲み込んじまう。幸い、ここは海の中心だ。全ての海流がここに集まり、海に沈んだものは全てこの場所にやってくる。だから、慰霊碑はここにある」


「そうか……」


 軍人はじっと石碑を眺め、しばし瞑目した。


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