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  四



 墜落した飛空艦はそのほとんどが着水の衝撃でバラバラになる。男の乗った飛空艦が原型を留めていられたのは奇跡だった。もっともほとんどの船員が退艦する猶予は残されておらず、飛空艦とともに海底へと沈んでいった。


 男はとにかく遠くへ泳いだ。沈む船の近くにいると巻き込まれて海に引きずり込まれるのだと教わっていた。海に漂流するものたちはみながそうした。そして、激流が収まるとみな浮遊物にしがみついて漂流した。


 大怪我をしていたものは初日でいなくなった。

 そして生き残った漂流者の数は日に日に減っていった。


 七日経った。男は遠く水平線に船の煙を見た。最初は幻かと思った。もはや生き残りは彼をはじめ数人しかいなかった。船はどんどん近づいてくる。それが現実だとわかると男はなけなしの力を振り絞って声を張り上げた。


 助かった。そう思った次の瞬間、激痛が右脚を襲った。一瞬だけ海に引きずり込まれ、男は自分の右脚に食らいつく巨大な鮫を見た。真っ黒な瞳は恐ろしいほどに純粋な暴力を湛えていた。その向こうで別の小さな鮫たちに食いつかれて深みへと引きずり込まれる同僚の姿が見えた。


 鮫に食われて死ぬくらいなら銃弾で心臓を撃ち抜かれた方がマシだと思った。男は食いついて離れない鮫の鼻先を左足で力一杯蹴り抜いた。鮫は男の右脚を食い千切り、深い水底へと帰っていく。


 男は水面に顔を出し、痛みに叫んだ。いつのまにか船はすぐそこに迫っていた。浮き輪がすぐ手元に投げ込まれ、男は必死に縋り付いた。




 船が揺れた。男は眠りから覚め、微睡みに瞬いた。ぽっかり空いた円形の空に月が我が世の空とばかりに自己主張をしている。まだこれは夢だろうか。そう思った次の瞬間――冷たい水しぶきに飛び起きる羽目になった。


 男は素っ頓狂な声を上げて飛び起き、舳先から落ちそうになって慌てて船にしがみつく。揺れが少し収まると男は勢いよくコックピットに飛び込む。揺れの正体を探して男は周囲をぐるりと見回した。月明かりに照らされて、穏やかな水面に動く波紋がよく見えた。そしてまた水しぶきがあがった。


「鯨か!」


 男は思わず叫んでいた。潮吹きは数十メートルも上がった。ゆったりと泳ぐその鯨はとにかく大きかった。男の右脚を奪った鮫よりも十倍はありそうに見えた。上空からシロナガスクジラの親子を見たことがある。母鯨はとにかく大きかった。けれども、今目の前にいるこいつはそれの数倍はありそうだった。


 鯨はしばらくして海中へと消えた。珍しいものを見た。鯨をこんなに間近で見ることなど滅多にないことだろう。海に静寂が戻ってきた。


 男は鯨はもうどこかへ行ってしまったのだろうと思った。今度はコックピットで無理やり体を横にしようとして、機体が大きく傾いた。突然のことに男はまた船にしがみつく。


 船のすぐ隣から巨大な鯨が飛び出した。見上げたその巨体はゆうに五十メートルを超えて見えた。鯨は男の頭上を越え、反対側に向かって落ちてくる。その悠然とした佇まいに、男はただ見とれていた。こいつは大海原を空にして飛ぶ巨大な飛空船なのだと思えた。どこにも無駄な装飾がない――海を泳ぐその一点に極限化された肉体はとにかく美しかった。


 鯨が着水するその瞬間まで、男はひたすら鯨の美しさに目を奪われていた。そして大きな波が男を襲った。巨体が海に落ちた衝撃で大量の水しぶきが飛び、津波のように飛空船に襲いかかる。


 男は我に返りまた船にしがみついた。冷たい海水がコックピットを水浸しにした。船は大いに翻弄され、しかし沈むことはなかった。


「……でかいな、ははっ」


 いつの間にか、男は笑っていた。水浸しになったことも、飛空船が沈みそうになったことも、どうでもよかった。ただ巨大な鯨の凄まじさにはしゃいだ。


 それから鯨は現れなかった。朝になっても、夜になっても、三日経っても鯨は姿を見せなかった。



  *



 備蓄の水が底をついた。コップに海水を入れ、蓋をして太陽に当てた。そうしてしばらく待つと蓋の裏についた水滴を舐めた。食糧は乾パンをかじった。あと何日この漂流生活が続くかわからない。いや、漂流すらしていない。潮の流れなど何もないこの場所でずっと同じ場所に居座っているだけだ。

 いずれは乾パンもなくなり飢え死にすることだろう。だが、今更不発弾を捨てて次の弾を試す勇気は湧かなかった。


 そして一ヶ月が経った。男はそれでも生きていた。乾パンは三週間目になくなっていた。食べられるものはもう残っていない。コップで海水を掬うのも疲れを感じた。自分の手足が痩せ細っているのがよくわかった。それでも元軍人は生きている。明日死んでもおかしくないと自覚はしていた。けれども、まだ生きている。生き長らえている。男は考えることをやめた。


 夜が来た。

 月明かりの美しい夜だった。

 歌が聞こえた。不思議な歌だ。海を讃える詩だ。空を夢見る唄だ。世界の広さと、人の矮小さを笑う声だ。


 男は力の入らない体をゆっくりと起こした。


「嗚呼、お前か……」


 鯨だ。一ヶ月ぶりに鯨を見た。まるで長年の友のように鯨と会えたことが嬉しかった。鯨は水面に浮かぶだけの飛空船の周りを優雅に泳ぐ。


 男は鯨に嗄れた声で語りかける。自らの半生を。家族との思い出を。偉大な父の生き様を。それから最後に食べたサンドイッチの美味しさを。


「変な女だった。祖国じゃあんな女と知り合うことはついぞなかった。死んだ妻の方がいい女だった。まあ、一年も一緒にいてやれなかったが……。嗚呼、彼女の淹れる珈琲と飯は美味かった。飯なんぞ食えればいいと思っていたが、美味い飯を食うと死にたくなくなるらしい。笑うか? 元軍人らしくないか? そうだろうな。だが、事実だ。俺が一番信じられないんだ」


 はっきりとは言葉にならなかった。喉は枯れ、声はうまく出なかった。けれど、男は流暢にしゃべっているような気がした。隣に誰かが聞き耳を立てていたなら、きっとぼそぼそとか細く喉を鳴らしているだけに聞こえただろう。


 男はだんだんと意識を保てなくなった。体を仰向かせ、月を見ていた。


 月の中に一点の影が見えた。それは次第に大きくなり、一匹の鯨に見えた。真っ白な空飛ぶ鯨だ。ふと、鯨の目が淡く光った。


「嗚呼、お前が空の亡霊だったのか」


 男は満足げに微笑み、不意に眠った。

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