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三
魔女の喫茶店を出てから二時間ほど。エンジンはよく回っている。機体の調子は悪くなかった。地図に書き込んだ空路上には速度と時間が書かれている。風に煽られている分、進行方向や速度には誤差が生じるはずだが、計算上は概ね予定通りの行程だった。浮島を出る前念入りに計算した。間違いはないはずだ。せめてどこかに陸地が見えればもっと正確に現在位置を割り出せるが、ぐるりと見回しても見えるのは海だけだ。あるいは星が見えれば一度着水して現在位置を割り出すこともできるだろう。しかし、生憎天気には恵まれなかった。
厄介なことに雨が降り始めた。出立してから曇天は続いていたからいずれは降るだろうと思っていたが、油断をあざ笑うかのごとく空のバケツをひっくり返された。雷が落ちても下方に放電されるようにできてはいるが、雲の間近で聞く霹靂は陸で聞くよりもずっと迫力に満ちている。いくら慣れているとはいえ、本能的に恐ろしさを感じずにいられない。
ゴーグルについた雨粒を拭っても意味がない。視界は常に流れる水滴に惑わされる。頬に当たる雨粒が雹に思えるほど痛かった。手ぬぐいを顔に巻いているが、幾分か和らいだだけでほとんど屈むようにして風防の下に顔を隠してばかりいる。
高度をあげて雲の上に出ようかとも考えた。しかし、稲光が迸り雷鳴が轟く雲の中を突き進む勇気は出なかったし、もし目的地が近づいてもこの分厚い雲の上からそれを確認できるとは到底思えなかった。
まともであれば決して飛行などしない天候だ。元軍人は冷静な頭で考える。大型飛空船ならまだしも、一人乗りの小さな飛空船でこの空を飛び続けるのは危険だ。パワーボートの旧い船体を飛空船に改造した機体はスピードこそ優れているが横風に弱かった。今から引き返して、天候が安定してからまた行けばいい。しかし、一度あの浮島に戻ってしまったら、もう一度出立しようと思えるだろうか。縁がなかった、まだその時ではないと勝手に納得してしまうのではないか。そもそも何のために飛空船の墓場なんぞに行こうと思ったのか。全てに絶望したからではないか。もう我が身に残る柵は何一つとして存在しないと思ったからではないか。父を失い、仲間を失い、妻子をも失い、果ては守ると誓った国家さえも失い、残されたものは自らの命だけだと思ったからではないか。
生きようと死のうとどうでもいい。しかし、まだ自分に何かやり残したことがあるとするのならばせめて――そう覚悟したのではなかったか。
大海原に沈んだ飛空船は海流に流され、やがて世界の最果てに沈むという。飛空船の墓場と呼ばれるその場所で、飛空士の追憶を激流に任せようと決意したのではなかったか。
いいや、馬鹿を言うな。大海原の深海に沈んだ飛空船の墓場までどうやって行こうというのか。光の届かないその場所を、どうやって海上から確認などできようものか。滑稽だ。愚行に違いない。何の意味もない。ただの徒労だ。酒をやめて煙草を飲むくらいに無駄だ。逆の方がまだマシだと思える。若さゆえの旅をしているわけでなし、今更何を得ようというのか。なるほど、馬鹿げている。くだらない。感傷に過ぎる。
「俺は何をしようと言うんだ!」
独り言だ。大声で叫んだ。雷雨とエンジン音にかき消されて自分でも聞こえにくい。
――やはり、戻ろう。目的地にたどり着く前に死んでしまっては意味がない。今からでもまだ間に合う。
「本当にそう思うか!?」
自分自身に向かって叫んだ。まるで神の雷が叫ぶようだ。無線から流れてくる音声のように雷雨がノイズになった。
「お前は死んでも構わないと思ったのではないか!?
だったらなぜ戻る!?
なぜ生き長らえようとする!?
このまま突き進んでもいいじゃないか!
死んだらそこまでだ! 生き長らえたなら、それからあとのことはその時考えればいい!
違うか!? 何を恐れている!? こんな意味のない愚行、滑稽にも程があるぞ!?
お前は馬鹿だ! 今更何を思い悩む必要がある!?
馬鹿なら前へ進め! 考えてもどうせ答えなんて見つかるはずがない! 愚か者!
結局お前は絶望なんてしちゃいなかったんだ! 諦観しただけだ!
無茶をして、もう俺には何も残っていないのだと、過去の思い出に浸っていただけだ!
未来を描こうとしなかっただけだ!
大切だと思っていたものが全て失われて、そんなものは最初からなかったかのように回り始めた世の中が嫌になっただけだ!
そうだろう!? 馬鹿馬鹿しい!」
男は答えの見つからない自問自答を続けた。確かなことなど何一つとして見つからなかった。ふと微かな光が見えた気がした。それはまるで台風に弄ばれる小舟に差し込む救いの光に見えた。
舵を切ったのは無意識だった。浮遊装置の出力を上げてアクセルレバーを引いた。機体はぐんぐん光に向かって進んだ。無心だった。あの光の向こうに何かがある。けれども、その光はずっと遠くにある。一体どれほど進めばあの光にたどり着くのかわからなかった。光はすぐに消えた。
「何に期待しているんだ、俺は。希望なんてとっくの昔に捨てたはずだろうに」
自嘲する。光がまた見えた。ハッとしてまた光を目指した。そうして、光はまた消えたが、すぐにまた現れた。
光は度々消えて、度々現れた。それも毎回場所が遠のいた。飛空船が進んだ分だけ、光は遠くなった。男はひたすら光を追いかけた。雲の切れ間から一瞬差し込むその光は雲間から差し込む太陽などではなかった。太陽光かそうでないかは見ればわかる。光は太陽のそれではないと確信できた。
一体どれほど飛空船を走らせたことか。懐中時計を見れば出立からすでに五時間が経っていた。気づけば雨脚は弱まっている。速度や方角が無茶苦茶だ。すでに自分のいる場所がどこなのかもわからない。もはやあの店に帰ることなどできやしない。
ついに雨が止んだ。分厚い雲はいつの間にか薄くなり、太陽の明るさを感じることができた。そのせいで、追いかけていたはずの光は全く見えなくなった。
「……空の亡霊にやられたかな」
男はゴーグルを外して背もたれに頭を預けた。燃料はもうなかった。まもなくエンジンは止まるだろう。男は呆けたように雲を見上げていた。胸ポケットから煙草を一本取り出した。エンジンの出力を落とせば風は弱くなる。風防の影で何度か火をつけようとしたが、湿気ていて火がつくことはなかった。男は湿気た煙草を咥えて空を見上げた。いつの間にか雲がなくなっていた。台風の目のような場所に入ったらしい。エンジンが不安定になった。燃料が切れかけているのだろう。男は慌てて滑空用の帆を広げた。時を待たずエンジンは止まる。それと同時に浮遊装置も切れるが予備のバッテリーに繋げてわずかに機体を軽くした。
飛空船は風に煽られながらゆっくりと下降していった。
*
「一体、俺は何がしたかったんだろうな」
海は嘘のように凪いでいた。大海原に不時着して数時間。コックピットに放り投げていた煙草もすっかり乾いていた。船の舳先に横たわり煙草を吸った。ずいぶん久しぶりに吸う煙は馬鹿みたいに美味しく感じられた。
「ここが正しく飛空士の墓場だろうよ」
帰るための燃料もない。風もない。ここだけぽっかり穴が空いたように静寂が支配していた。飛空船の墓場が海底にあるのならば、鏡のように穏やかな水面は飛空士の墓場に違いない。誰かが墓標を立ててくれることを期待するのは不毛だ。煙草を投げ捨て、備蓄の水を飲んだ。
見渡す限りの海だ。上空は晴れている。四方八方は雷雨だ。時折稲光のずっとあとに微かな雷鳴が聞こえた。ここから人力で漕いで抜け出すのはただの自殺行為だ。抜けだそうにも天候が落ち着くのを待つしかない。けれども、周囲の悪天候がそのうち収まるものとは到底思えなかった。ここだけ局所的に同じ天候が永遠と続いているような、そんな気がしてならなかった。
飢え死にを待つより他にない。水だけで一体何日生きられるのか。どうせ死ぬのならば苦しみたくはない。ここで海に潜ってもでかい鮫がいるとは思えない。右脚を食われたときのように、でかい鮫なら一瞬で殺してくれるに違いない。贅沢な話だが、若い鮫に何度も噛みつかれるのはあまりいい気がしない。
元軍人は船底にしまっていたライフルを手に取った。安全装置を外し、船底のフレームで銃床を固定する。左足の靴を脱いで親指を引き金に当てると顎下に銃口を当てた。思っていたよりも戸惑うことはなく準備は済んだ。何も気負うところはない。元々死んでもいいと思っていたのだ。生き長らえる機会がなくなったのだから、自分で幕を下ろすことも平気だと思った。
だが、親指に力をかけるだけで楽になれるというのに、中々親指が動かない。何度も深呼吸をした。心臓は早鐘を打ち、静寂の中自分の鼓動だけが聞こえた。何度目かの試行錯誤で、親指はようやく引き金を引いた。撃鉄が雷管を叩く。しかし、音がしただけだ。弾は不発だった。
男は長いため息を吐いた。死のうと思っていたのに、いざ死ねないとわかると安堵している自分がいた。どうにも踏ん切りがつかない性分だと思った。誰が見ているわけでもない。格好悪いなと自嘲したが、どうでもよくなった。
「これで一度死んだのだと吹っ切れるような性格でもないが」
不意に腹が鳴った。
「生きていれば腹も減るか」
そこで魔女からもらったサンドイッチのことを思い出した。鞄の中から包みを取り出す。幸い、雨が染みこんでいるなんてことはなかった。
外側を焼いたパンに挟まれているのは葉野菜とトマト、それから解した蒸し鶏にセロリのピクルス。ソースは仄かに林檎の香りがした。
男は魔女のサンドイッチをもそもそと頬張った。
今朝、魔女と語らって朝食を食べたせいか、大海原にぽつんとひとりで食べるサンドイッチは寂しくて仕方がない。隠し味と教えてくれたマスタードも、林檎の香るソースとよく合っている。時折顔を出すセロリのピクルスもちょうどいい。
「美味いな、これ」
魔女の淹れた珈琲があれば申し分ない昼食だ。だが、エスプレッソだけはやはり苦手だ。初めて飲んだが、せめてミルクを入れて飲みたいと思った。魔女の他愛もない話を聞きながら食べるのも悪くない。だが、それはもはや叶いそうにない。
サンドイッチを食べ終わり、腹もすっかり膨れた。男はどうしようかと考えてみたが、状況は何も変わっちゃいない。考えているうちに上空の雲の切れ間が赤く染まった。時刻はすでに午後七時を指している。西方に進んでいる分、時計の進みが早いとしてもずいぶん遠くまで来たのだとわかった。
男は考えることをやめようと考えた。明日がある。また明日考えればいい。そう考える自分がいることにひどく驚いた。
「元軍人が聞いて呆れる……」
男は舳先に横たわり、空を見上げたまま目を閉じた。