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  二



 ――夢を見た。


 男は燃え盛る飛空艦の艦橋にいた。艦橋への直撃弾によってその場にいた将校の多くが形もない肉塊へと変わってしまった。男は偶然にも助かった。操舵輪の陰にいたことで命に関わるほどの怪我はしなかった。だが、ひどい有様だ。左腕の骨は折れ、右大腿には拳大ほどの鉄片が食い込むように突き刺さっている。強烈な痛みはすぐにアドレナリンによって薄まった。


 男は力なく立ち上がり右往左往して、やがてひとりの船員の傍で立ち尽くす。かろうじて原型を留めているが、胸の勲章がなければそれが誰かはきっとわからなかった。


「父さん……」


 か細い声で呼びかける。仕事では決して馴れ合うなと戒められていた。しかし、それでも男は尊敬する父を呼ばずにはいられなかった。父はまだ息をしていた。鉄くずの刺さった瞼を開き、今にも消えそうな灯火が男を淡く見つめている。


 男は崩れ落ちるように膝をつき、誇り高い父の変わり果てた姿に茫然自失となった。

 今にも息を引き取ろうとしている。しかし、父は息子の腕をつかみ信じられないほどの力で引き寄せると、血と吐息の混じった嗄れて言葉にならない声で叫ぶように言った。


 ――生きろ。ただ、そう告げて逝った。


 男は声もなく頷いて艦橋を飛び出した。服の裾に火がついても気にする暇などなかった。不時着用意と叫び周っていると、満身創痍の下士官がバケツの水をかけてくれた。「生き残った中では少尉の階級が一番上です! 指示を!」と、そう言われるまで上級将校が全滅したことを理解していなかった。


 飛空艦の高度は落ち続けていた。まもなく海に着水する。その衝撃は幾ばくか。誰も体験したことなどないのだ。落下の衝撃で船体は完全に回復不能になってしまうだろう。すでに動力を失い、予備動力で不時着を試みているだけ――生き足掻いているだけだ。いよいよ着水まで秒読みとなった。男は伝声管に大声で叫んだ。総員衝撃備え!


 そこで夢が終わった。




 悪夢の目覚めは珈琲の薫りがした。

 徐に体を起こすと目元の手ぬぐいが落ちた。ゆっくりと瞼を開く。今は何時かわからない。すっかり夜の帳が下りている。体には薄い毛布がかけられていた。訝しみながらも毛布を畳むと肌寒さに身震いした。空の夜は冷える。義足をつけて体の凝りを解すとタープの天井が淡く照らされているのに気づいた。

「おはよう」と女の声がした。


 男はライフルに手を伸ばしかけ、すんでのところで女の存在を思い出す。名も無き浮島に存在する喫茶店の物好きな店主だ。道楽主義にも困ったものだが、今はそれが殊更にありがたく感じられた。


「これはあなたが?」


 男が毛布を持って問いかけると女は軽く肩を竦める。彼は「ありがとう」と短く礼を言った。

 女は赤いカーディガンを羽織り、卓上においたカンテラの灯りを頼りに相も変わらず本を読んでいた。もしかすると一日の大半を読書に費やしているのかもしれない。世捨て人めいた生活だが、心なしか羨ましくも感じられる。


「そろそろ起きる頃合かと思って珈琲を淹れたの。あなたも飲む?」


 夜に珈琲を飲む習慣はなかったが、嫌な夢のあとにはとびきり苦い珈琲を飲むのも悪くない。男は生返事をした。女は苦笑する。カンテラの柔らかな灯りにマグカップから立ち上る緩やかな湯気が見えた。


 男はマグカップを手渡され、その薫りを胸いっぱい吸い込んだ。眠気が覚める心持ちだった。次第に心が落ち着き始め、一口飲むと黒い液体が喉元に貼りついた苦い記憶を胃まで道連れにしているような気がした。


「よく眠れた?」


「ああ、気を遣わせてしまった。すまない」


「東洋人のすぐに謝る癖は相変わらずね。飛空船での旅は疲れるでしょう? 体を冷やすのはあまりよくないわ」


 女は口元を手で隠して小さな欠伸をした。時間を尋ねると女は深夜の二時だと教えてくれた。


「ここは高度があるからあと二時間もすれば東の空が明るくなるの。満天の星空を眺められるのも今のうちね」


「星空?」


 男は空を仰ぎ見て――しかし、日除けのタープに遮られて苦笑した。少々気恥ずかしくなって下を向く。女がそっとカンテラの灯りを吹き消した。暗闇の中で女の声だけが確かに聞こえた。


「あなた、ここに来てから下を見てばかりね。飛空船乗りはみんなそうなのかしら。きっと空の見上げ方も忘れちゃったのよ」


「飛空船乗りは上も下もよく見るものだ。いつ空賊の船が雲の切れ間から飛び出してくるかわからないからな」


 女はくすりと笑い、ゆっくりと立ち上がって男の手を取った。


「そういうことを言っているわけじゃないのよ」


 彼女は男の手を引いて無理やり立たせると、そのままテラスから出てしまった。


「ほら、ここに寝転んで」


「服が汚れる」


「私があとで洗濯してあげるから気にしないの」


 女の言葉に男は渋々寝転んだ。


「ねえ? 本当の星空はあなたが思っているよりもずっと暗いでしょう?」


 まるで光の届かない深海みたい――女は男の隣に腰を下ろす。彼は曖昧に頷いた。

 満天の星空だった。視界の全てに雲一つない空が広がり、何度瞬きをしても星々の煌めきが消えることはなかった。まるで光る流砂が川を作るように、空は何億光年離れた恒星たちの粒で満ち満ちていた。けれども、明るいと感じれば感じるほど、その光の粒を際立たせる漆黒の間隙に薄ら寒い恐ろしさを感じてしまう。


 まるで深海のようだ――言い得て妙だと思った。


「いつからこの喫茶店を?」


 男が尋ねると女は「さあ」と後ろに手をついて空を仰いだ。肩から一房の髪がするりと落ちた。


「もうずいぶん長い間、ここにいるわね」


 要領を得ない答えにきっと答えたくない過去があるのだろうと男は察した。自分も同じようなものだ。旅の目的を聞かれても、冒険以上の答えを教える気にはなれない。どれだけ親交を深めようとも、決して他人に教えたくないことは存在するものだ。ましてや今日会ったばかりの他人ともなれば尚更。


「客はよく来るのか?」


「あなたが久しぶりのお客さん。でも、全く来ないわけじゃないわ」


「道楽だったか」


「そう。趣味みたいなものね」


「こんな辺鄙な場所で店を開いても誰も来ないだろうに。いくら道楽でも客が来なくては楽しめないのではないか?」


 女はくすりと笑う。


「忙しいのは嫌いなの。元軍人の飛空船乗りなら年に数回は来るのよ。すぐに帰っちゃうけれどね」


「なるほど。それは堅苦しくて息が詰まりそうだ」


 男は自虐的に答える。すると女はさらに笑った。


「さすがに銃口を向けられたのは初めてね」


 しばしの沈黙のあと、今度は女が尋ねた。


「その足は戦争で失ったの?」


 男は義足のことだと気づいて頷いた。


「ああ。だが砲弾で吹き飛ばされたわけじゃない。鮫に食われたんだ。乗っていた飛空艦が海に落ちて木端微塵。なんとか生き残ったが着の身着のまま三日も海を漂流した。ようやく救助の船が来たその瞬間に右足を膝からがぶりだ。大人のでかい鮫でよかった。若い鮫はお行儀が悪くてね。かぶりついたままあっちこっちに泳ぎ回るんだ」


「軍人の冗談にしては悪くないわ」


 想像するだけで嫌になるけれどと女は苦い顔で答える。男は肩を竦めて苦笑する。


「大勢死んだ。脚を失っても生きて帰ることができただけ幸いだった」


 何度同じ言葉を繰り返しただろうか。生きているだけ良かったのだと他人から言われるのは腹が立つ。けれども自分で言うと自分自身に言い聞かせているみたいで虚しさを覚えてならなかった。右脚を失ったことを悲しんでいるわけではなかった。それ以上に、失ったものの大きさに打ちのめされただけだ。


 物思いに耽っていた自分に気づき、男は自嘲気味に息を吐いた。


「訂正しておく。元、軍人だ。今はしがない民間人さ」


 女はそれを聞いてゆっくり立ち上がるとお尻を二度叩いて土埃を落とした。


「安心したわ。うちには空賊のお客さんもいるから」


 男は勢いよく体を起こして尋ねる。


「空賊? ここには空賊も来るのか?」


「軍人だろうと空賊だろうと、老いも若きも客は客よ。立場で客を区別しないの。まあ、略奪する気で来たなら叩きのめすけれどね」


「あなたが、か?」


 見るからに華奢な女が荒くれ者の空賊たちを御せるとは到底思えなかった。女は男を見下ろしてこれ見よがしに力こぶをつくってみせた。


「あら、これでも私、結構強いのよ?」


「とてもそうは見えないが」


「魔女を襲うのは空賊も怖いらしいわね」


「魔女?」


「こんな場所で店を出しているせいかしらね。普通の人はそんなこと怖くてできやしないでしょ? だから、空賊が呼ぶのよ。最果ての魔女ってね」


 女は肩を竦める。


「まあ、私に手を出そうとする空賊なんていないわ」


「それはまたなぜ?」


「ここは空賊にとっても、唯一客として扱われる貴重な店なのよ」


 今度は男が肩を竦める番だった。


「空賊にもそういった感情があるとは知らなかったな」


「案外、話せばわかるわよ。腕っ節だけじゃ飛空船を操ることはできないでしょう?」


 確かにそうだ、と男は頷く。空賊というのは実に厄介だ。陸の犯罪者とはわけが違う。飛空船という厄介な乗り物は海を走る船よりもずっと技術と知識が必要になる。当然、それに乗り込む船員に必要な知識と技量は人並み以上でなければならない。


 頭のいい犯罪者ほど厄介なものはない。男は元軍人だが、一時期は空賊討伐の任務に着いたこともある。奴らは用意周到で狡猾、そして逃げ足が速い。何度も煮え湯を飲まされたものだ。


「いくら犯罪者とはいえ、それでも人として扱われたいという思いはあるものよ。分け隔てなく接してくれる相手はそれだけで貴重なのよ。少なくとも彼らにとってはね」


「あなたはそれでいいのか?」


「言ったでしょう? うちは立場で客を区別しないの。ここは公海上の名前もない浮島だもの。どこかの政府に見張られているわけでもない。確かに彼らのやっていることは犯罪よ。でも、彼らだって自ら好き好んで空賊になったわけじゃない。いつの時代も、人が人を襲うことを生業にするのは、大抵は仕事がなくなって食うに困ってというのが相場なのよ」


「だからといって、彼らの罪が許されるわけじゃない。空賊によって苦しめられ、犠牲を強いられた人々の悲しみはどうなる?」


「善悪を論じるつもりはないわ。元軍人のあなたの価値観では彼らが善になることなどあり得ない。十人に聞けば十人が悪と答えるでしょうね」


 だから何? ――女は長い前髪を耳にかけて言う。


「赤の他人の恨み辛みを晴らすために客を区別するほど、私は義憤に駆られる性格じゃないのよ」


 この店では私がルールよ、と女は腕を組む。


「あなたもここでは空賊を敵視しないことね」


 脅し文句には聞こえなかった。男は徐に立ち上がってため息を吐く。


「元、軍人だ。賊を捕らえる権限はないさ。たとえ現役でも任務じゃなければ空賊狩りだなんて面倒なことはごめんだ」


 仲良くはできないが争うつもりはない。男が言うと女は「十分よ」と微かに笑った。


「ところで、明日の朝食は何がいいかしら?」


 女がカンテラの灯りをつけて尋ねる。男は空を見上げて答えた。


「ここのメニューはお任せなんだろう? シェフの気まぐれを楽しむのも旅の醍醐味だ」


 東の丸い水平線がにわかに白んで見えた。



  *



 フレンチトーストのあとに飲むエスプレッソにミルクはいらなかった。もっともこんな浮島にわざわざ牛乳を届けてくれる配達屋が物好きであることだけは確かだ。聞けば、長期保存用に処理されたものを月に一度届けてくれるのだという。誰が届けてくれるのかまでは教えてもらえなかった。聞こうとも思わなかった。朝食のあとに出されたエスプレッソの苦みにどうでもよくなったからかもしれない。


 眼下に見える大海原には白波が立っていた。

 風が強いのだろう。しかし、名も無き浮島にはそよ風が吹いている。上空と地上で風の強さが違うことはよくあった。けれども、地上の風が強くて上空が弱いということは体験したことがなかった。珍しいこともあるものだと思いかけて、昨日もそうだったと思い出す。


 もしかすると不思議な力がこの浮島に働いているのかもしれない。空賊が店主の女を「最果ての魔女」と呼ぶのも納得できるような気がした。心の中で魔女と呼んでみる。思いの外しっくり馴染むのが面白く感じられた。どこにでもいそうな町娘の格好をしているのに、秘密を抱えていそうな独特な雰囲気が正しく魔女のように思えた。


「もう行くのかしら?」


 魔女が言った。男は飛空船に荷物を積み込んで振り返る。


「せっかくならもう何日かゆっくりしていけばいいのに」


「急いでいるわけじゃないが、冒険心に駆り立てられたんだ」


 男は飛空船のエンジンをかけた。すっかり冷え切ったエンジンの駆動音はどこか弱々しい。

 魔女がひとつの包みを差し出す。まだ温もりの残るそれからはいい匂いがした。朝食を食べたばかりだというのに腹が空く匂いだ。


「これは?」


「お昼ご飯。お腹が空いてちゃ冒険の楽しさも半減しちゃうわ」


 中身はサンドイッチ。粒マスタードを利かせたソースが隠し味だとわざわざ教えてくれた。男は小さな包みを受け取って、照れたように頬をかく。


「すまない。ありがとう。そういえばお代を支払っていなかった。いくらだ?」


 男が問いかけると魔女はくすくす笑って答える。


「うちはツケ払いも大丈夫よ。初めてのお客にはお代をいただかないようにしているのよ」


「そういうわけにはいかない」


「そう思うのなら、次に来たときにしっかり払ってくれればいいわ」


 魔女に見透かされているような気がして、男は小さく息を吐く。


「飛空船乗りはいつ死ぬかわからない。二度と戻って来ない可能性もあるんだ。支払うべきものは支払っておくさ」


「いい男は女の願いを叶えるものよ」


「叶えられない願いもある」


「少なくとも努力はするべきだわ。恋い焦がれてすぐに与えた愛が大事にされると思う?」


 男は頭をかいて帽子を被る。


「与えられて自分のものになる愛もあるだろうに」男は恥ずかしげにぼやき「恋仲になった覚えはなかったが?」


「あら、じゃあ私の片想いかしらね。せっかく常連客ができると思ったのだけれど」


 魔女は冗談めかして肩を竦め、それからもう一つ男に渡した。何の変哲もない鳩のチャームだった。


「お守りよ。普通は渡さないんだけれど」


 ほんのちょっとした気まぐれね、と魔女は笑った。

 男は彼女の意図に気づいて申し訳ない気持ちになった。かといって「もう戻ることはないからやはり金を払う」と切り出すのも格好が悪い。


「鳩しかないのか?」


 精一杯の悪あがきも魔女は呆れたように返すだけだ。


「鳩だからいいんじゃない」


 どこにいたって必ず巣に帰ってくるから――男は言外に魔女の言葉を汲み取って、けれどもだからこそ彼女の厚意に自分のしようとしている愚行がいかにも滑稽に思えてならなかった。しかし、もはや決めたことだ。今更西方の最果てまで来て珈琲だけ飲んで帰るだなんてできやしなかった。それに故郷はすでに捨てた身だ。今更帰る場所なんてどこにもなかった。


「努力はしよう」


 男は魔女の双眸をじっと見つめて言った。魔女もまたじっと見つめ返して「無事で帰ってきてね」と言った。恋仲でもないのに男は不思議な気持ちを抱いた。帰りを待ってくれる人がいるということが、骨董品にも近しい孤独な男にはよくわからなかった。

「世話になった」言いかけて、魔女の微笑みに男は口を噤む。舫いを解いてようやく「また来る」と言い直した。男は恥ずかしくなって急いで飛空船に飛び乗った。暖まったエンジンを回して魔女の返事も待たずに浮島を発った。途端に冷たい強風が機体を大きく揺らした。


 魔女は去りゆく元軍人の飛空船をずっと眺めていた。豆粒ほどの大きさになると風に流された雲が飛空船を隠してしまった。魔女は小さくため息を吐く。


「あなたの目指す場所は生者の行く場所じゃないわ。必ず、帰って来るのよ?」


 返答はない。遠く西の空は暗く澱み始めていた。

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