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 一



 小さな雲の狭間から一艘の飛空船がゆったりと現れた。


 乗員は一名。高い空の低温にも負けぬように毛皮の帽子を被り、風から目を守るためにゴーグルをつけている。エンジンカバーの上には旅行カバンやテントなどが堆く積み上げられ、ロープで几帳面に縛られていた。

 男は飛空船をゆっくりと浮島に近づけ、巧みな舵取りで桟橋に接舷した。

 乗員の男は飛空船から桟橋に飛び降りて舫いを繋ぐ。大きな伸びをした。凝り固まった背筋から伝わるわずかな痛みが心地よい。極東を旅立って二十五日。旧大陸の西端から約三日。船上での生活は慣れているが、乗員一名の小さな飛空船では横になるのにも一苦労である。


 男は旅人だった。宛のあってないような旅である。かつては数百人が乗るような大きな飛空艦で参謀将校だったこともある元軍人である。けれども、今は空に揺蕩う孤独な雲と同じ身の上だった。旅は自らを振り返るには時間を持て余すが未来を思い描くには足りなかった。結局、わかるのは今の自分だけだ。


 ため息を漏らす。一ヶ月も旅をしてきたのに今更何を考えているのか、と自分自身に少し呆れた。次の目的地は大西洋のどこかにあるかもしれない島である。その島は空に浮かぶのではなく海に沈んでいるのだという。


 伝説の島である。過去の伝手を使って真贋定かならぬ空路図を手に入れた。その島に行くためだけに貯金を叩いて一人乗りの飛空船まで買ったのだ。今更引き返すつもりは毛頭なかった。飛空船から野営用の備品を下ろす。男が束の間の安息地として降り立った浮島は霞のような雲に覆われて全体像が見えなかった。桟橋のすぐ傍に荷物を降ろし、彼はライフルを片手に歩き出す。名もなき浮島は空賊の根城となっていることがよくあった。退役したとはいえ男は軍人である。抜かりはなかった。


 桟橋から浮島の縁にそって時計回りに歩いた。この浮島にはよく草が生えていた。ところどころ手入れをされているようにも見えて警戒心がさらに増す。しかし、五分と経たずにまた元の桟橋へと戻ってきてしまった。よほど小さい浮島なのだ。空賊が根城とするには些かこぢんまりしている。この程度の大きさならむしろ桟橋を設置されている方が珍しい。


 残るは浮島の中央部だけである。そこだけは雲に隠れて見えない。しかし、島の周囲の長さから考えてそう広い空間があるわけでもなさそうだった。男は安堵しかけた心に警戒心を植え付けてライフルを握った。いつでも撃てるように構えて雲の中へ一歩ずつ進んだ。


 しかし、その時である。朗らかな風が頬を撫ぜた。高い空の上に吹く風とは思えないほど、暖かく包み込むような優しさのある風だった。次第に晴れていく雲の隙間に何かが見えた。男はライフルを構え直して雲が晴れるのを待った。


 まず現れたのはテラスである。柔らかな色合いのペンキが塗られた木材が整然と組み立てられ、その上にはタープが張られていた。次に見えたのは看板である。見たこともない文字だ。けれども、その文字の下には湯気が昇るコーヒーカップの絵が描かれていた。これがどこぞ名の知れた浮島であったならば、喫茶店か何かかと思ったが、ここは西方最果ての名もなき浮島である。男は眉根を寄せてまた雲が流れるのを待った。


 そして完全に雲が晴れると、そこには果たして小さな一軒家が現れた。木材とレンガの粗末な作りだが、素材の良し悪しはさておいて頑丈そうに見えた。この家には玄関というものがないらしい。掃き出し窓は窓枠だけがあり、その奥にはカウンターがあった。

 男は指先に力を入れた。


「いらっしゃい。まずその物騒なものを下げてくれるかしら」


 凛と透き通るような声だった。

 カウンターに頬杖をついたその女は、男を見るでもなく手元の本に視線を向けたままだ。戸惑う男に女は「あなた、喫茶店に入るのにわざわざライフルを構えないと入れないのかしら」と言ってようやく男に視線を向ける。彼女の双眸に見つめられ、さらには呆れたように苦笑され、男はすっかり毒気を抜かれてライフルを下ろした。


「いらっしゃい。席はどこでも好きなところで構わないわよ」


 女は言った。白磁のように透き通った肌に切れ長な瞳。髪は新月の夜のように黒かった。絶世の美女とは言えないが、端正な顔立ちをしている。服装は町娘と変わらないもので、白いブラウスに深緑のフレアスカートを着ていた。


「今日ひとりめのお客さんね。あなた、うちは初めてでしょう? 辺鄙な場所だけれど、ここは私の喫茶店よ。メニューはお任せのみ。決まったメニューを作っちゃうと大変なのよ。滅多にお客さんなんて来ないから。でも、珈琲だけはいつでも出してるの。召し上がる?」


 男は生返事で頷いた。恐る恐るテラスに上がってカウンターにほど近い席に座った。帽子とゴーグルを取って隣の椅子の上に置いた。女は男に一瞥もせず立ち上がるとエプロンをつけて何かの準備を始める。カウンター越しに何をしているのかわからなかったが、コーヒーミルを回し始めたのを見てようやく理解した。


「ここは喫茶店、なのか?」


「そう言ったし、見ればそうわかるでしょう? 目と耳が悪いのは飛空船乗りにとって死活問題ね。医者の紹介はいる?」


「……どうせなら脳外科医を頼む」


 興味は尽きない。なぜこんな場所で喫茶店を開いているのか。そう尋ねても女は「人の趣味にケチをつける男はモテないわよ」と笑うだけ。珈琲を淹れる手つきは堂に入っている。すぐに芳しい珈琲の薫りが漂ってきた。趣味という一言で片付けるには、些か物足りない。


「お客さんこそ、こんな何もない空に何の用かしら。ここからさらに西へ向かっても陸地なんてないわよ? それとも人工の浮遊都市が好きなのかしら。カジノで有名なロスなら五日もあれば着くかしら。でも、ギャンブルが好きそうには見えないわね」


 女は小洒落た青磁のカップを男の前に出し、小さなポットから熱い珈琲を並々と注いだ。男は空の旅で体が冷えていたこともあってすぐに口をつける。暖かい黒色の液体を流し込めば胃袋から熱がじんわりと広がって心地よかった。


「ちょっとした冒険に」


 男は言った。伝説の島を探しに来たと言っても、女に馬鹿にされるのがオチだと思った。海に沈んだ島を飛空船で目指すだなんて馬鹿げている。潜水装備も一応持ってきたが、大西洋はずっと深い。潜水艇でも持ってこない限り海底に眠る伝説の島を探すことなどできるはずもない。


 けれども、男にとってそれは目的であって目的ではなかった。伝説の島を探すことが目的であって、その島に足を踏み入れることが目的ではなかった。

 女は男の向かい側に座って頬杖をつく。


「そう。人生は短いんだもの。男の子は冒険しなくちゃダメね」


 じっと見つめられて、男は居心地が悪そうにコーヒーを啜った。


「……美味しい?」


「三日ぶりに飲むコーヒーとしては美味いな」


 素直に美味いというのが癪で、男は白々しく答える。女は笑うだけだ。


「美味しいならよかった。ゆっくりしていくといいわ。ここは来ることも、居ることも、去ることも拒まない。でも、たまにコーヒーを頼んでくれると嬉しいわね。私、暇を弄ぶより人をもてなすのが好きだから」


 最初の一杯はサービスだと告げて彼女はカウンターの奥に戻った。そしてまた頬杖をついて本を開く。

 どうやらそういう店らしい。必要以上に客を構うことはないようだ。男は毒気を抜かれた気分でカップを傾けた。やはり味は悪くない。クセのない調和の取れた味わいだ。香ばしさの中にわずかな酸味があって、それでいてまろやかな舌触りと重厚なコク。後味にすっきりした苦みが仄かに残った。一朝一夕で淹れられる味ではない。取り寄せている豆がよいことは大前提で、その上で彼女の腕前が如実に表れているのだろう。


 一杯の珈琲を飲み終わる頃、雲はすっかり晴れていた。

 暖かな日差しに瞼が重たくなった。男は一度大きな欠伸を漏らす。珈琲を飲んで眠気が覚めるものかと思っていたが、存外に疲れが溜まっていたようだ。あまりにも気分が良く、警戒心は薄れている。

 眼下には大海原が広がっている。真下を流れていく雲はずいぶん速い。それにしては肌に感じる風が弱かった。不思議なこともあるものだと男はぼんやりした頭で考える。


「眠たいなら、少し横になったら?」


 女の言葉に振り返る。彼女は苦笑して端のベンチを指差した。


「いいのか?」


「別に構わないわ。今日みたいな日はお昼寝をするのが一番よ」


 そうかもしれない、と男は同意の笑みを漏らしてベンチに腰掛ける。右脚の裾をたくし上げて、義足の留め具を外した。女は一瞥したが何も言わなかった。ライフルをいつでも手に取れる場所に置いて、男はベンチに体を倒すと手ぬぐいを目元に被せた。


 硬い木製の座面はあまり気持ちの良いものではない。しかし、狭苦しい飛空船の中で無理やり体を横に倒すよりはずっと良かった。

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