五.過去を知る男
怪我人を引き渡し終えたフレッドは、ようやく顔を洗うことができた。汚物のついた上着を脱いで、ほっとしながら病院の洗面所から出ると、廊下には、先ほど一緒に担架を運んだ男が待っていた。フレッドは、その男から、どうぞ、と銀色のカップに入った飲み物を手渡された。中身は、香りの強いハーキェン星の酒。取っ手がついたカップから出てきた湯気が揺れている。
「中将、お久しぶりですね。船は当分出航しないでしょうから、そこでゆっくりしましょう。中将は、これの熱いものがお好みでしたよね。ちょうどそこにサービスロボットがいたので、もらっておきました」
フレッドは、有無を言わさず差し出された酒に面くらったが、せっかく自分の為に用意してくれたものをつっぱねるのもどうかと思ったので、黙って受け取った。レイの状態を確認したいとあせっていたが、口がカラカラに乾いており、飲み物が欲しいと思っていたところだ。少しの辛抱だと自分に言い聞かせ、今の自分の顔を知っているらしいこの男に付き合うことにした。
フレッドと男は、向かい合うように病院のロビーの長いすに座った。そこには、宇宙船の事故で怪我を負い、治療を待つ者が何人も座っている。フレッドは、周りを見回したが、ダンガニーたちの姿はない。
――俺の体はどこへ行った……
「いやあ、本当に驚きましたね。こんなところで中将とゆっくりできるとは」
男の声で現実に戻ったフレッドは、レイのことを心に押し込め、ハーケェン酒独特の、つんとする香りに目を細めた。相手も同じものを飲んでいる。
「中将、同じ船に乗っていたなんて、食堂で何度もお会いしていたはずなのに全然気が付きませんでしたね」
男は、親しげに目じりを下げて笑う。フレッドはつられて笑い顔を作ったが、笑っている場合ではなく、すぐに真顔になって慎重に言葉を出した。
「実は……俺、記憶がないんだ」
自分はフレッド・イベリーではない、とは言わない方がいいと思った。相手は、えっ? と笑い顔をやめてしまった。
「悪いが、俺は、確かにフレッド・イベリーという名のようだが、どこであなたと知り合って、自分が今までどういう人生を送ってきたのか記憶がない」
「イベリー中将……そんな……私とは戦場で生死を共にした仲ではありませんか。それに、私は中将の妹と婚約までして――まあ、それはどうでもいいことですが、全く憶えておられないのですか?」
相手が驚いてまぶたを大きく開いた様子に、フレッドは酒と共に、空気の塊をごくりと飲み込んだ。目の前にいる、焦げ茶色の髪で琥珀色の目をした二十代後半ぐらいのこの男。脳の隅まで探しても、記憶にはない。
「あなたの名前を教えてくれないか?」
フレッドはやんわりと言ったつもりだったが、相手の目の下の肉がピクリと動くのが見えた。その男の、つい先程まで明るかった表情に、あからさまな失望と同情がよぎった。
「私はロベルト・ファンセンです。かつてはイベリー中将直属の部隊、鉱山警備隊の隊員でした。現在は宇宙警備隊所属です。ラオラントへのゲマド帝国の侵攻の際は、第七鉱山を死守する為、私と中将は最前線で戦いました。あの戦いも憶えていないとおっしゃるのですか?」
「ゲマド帝国の侵攻? いつのことだったか?」
「いつって……まだ五年前じゃないですか」
ロベルトと名乗った男は、あきれた、と言わんばかりに目をそらした。フレッドは申し訳ない思いがしたが、どうしようもなく、酒を口に含んでごまかしながら、フレッドの記憶が少しでもないかと、もう一度頭を整理した。それでも記憶にあるのはレイ・グラウジェンとしての記憶だけ。確かに、ゲマド帝国の侵攻は過去にあったように思う。しかしその時は、自分はまだ子どもで、ラオラントをめぐって戦いが繰り広げられている、という感覚はなく、ドームの中で大切に守られていた。
フレッドは、落ち着こうと深く息を吸い込んだ。
――このロベルトという男は、その時にこの体にそっくりなフレッド・イベリーと行動を共にして戦った、と言うのか? 偽者のレイは、『フレッド・イベリー』は、優秀な兵士の名前だと言った。だとすると、この男の言うことは真実なのかもしれない。フレッド・イベリーは実在した人物でラオラント軍の兵士か。その妹が、今目の前にいるロベルトと婚約していた、ということか……
「君は妹と付き合っていたんだね? おかしなことを聞いて悪いが、今はどうなっているんだ」
フレッドは『あなた』を『君』という言い方に変えて、精一杯上官らしい口調にしてみた。中身が十八歳のレイ・グラウジェンだと思われたくない。フレッドの質問に、ロベルトは一瞬顔をゆがめ下を向いた。それが返事のすべてだとわかったが、問わずにはいられない。黙っているロベルトに、フレッドは言葉を追加した。
「俺は、妹の居場所も自分の家も記憶がない。だから教えてほしい。妹はどこにいる。君とはもう別れたんだな?」
「中将は本当に……何も憶えておられないのですね。キャシーは……」
ほんの少し間をおいて、ロベルトは低い声でつぶやいた。
「死にましたよ」
空気が重く固まった。ロベルトのうつむいた顔が真実を語る。琥珀色の瞳を潤ませ、長いまつげから涙が今にもあふれ出しかけている。フレッドは、「何で死んだんだ?」と喉まで出かかった言葉を押し戻した。
「そうか……妹が死んだのか」
他人事のように漏れた言葉に、床を見ていたロベルトは顔をあげた。
「彼女が死んでしまって、二年になりますが、私は今でも彼女が夢に出てきます。こんなに苦しいなら、いっそのこと出会わない方がどんなによかったかと……中将は、過去の記憶をすべて失くされたのですね。私はうらやましいですよ。中将は、私を憶えておられなくても、キャシーがあんな最期を迎えたことを忘れておられるのなら、その方が絶対に……私はキャシーが病気だったことすら知らず、彼女が元気だと信じていました。突然の訃報に私がどれほど苦しんだか。あの時、連絡をくださったのは中将でしたよね? それもお忘れですか」
「すまない、何も思い出せない」
「キャシーは病気になったことを私に隠していたんですよ。婚約していた私に、心配かけまいと、精一杯元気にふるまって……治せない病気のことを知っていたなら、私は彼女の残り少ない人生を最高のものにするために精一杯のことをしたでしょう。軍をやめて、ずっと彼女のそばにいたかったです。彼女の絶望的な病名を知ったとしても、婚約を破棄するつもりなどありませんでした。彼女は何も……私には何も告げてくれなかったのです。あんまりじゃないですか。生涯を共に生きると誓い合い、婚約までして、誰よりも愛していたのに……」
会話は沈み、沈黙が重さをさらに加える。ロベルトは涙をこぼしていた。ぬぐうこともせずに、唇を震わせ、鼻をすすっている。フレッドは、かけてやる言葉も見つからず、呆然とロベルトを見ているだけだった。
病院のロビーにいるのは、彼らだけではない。他にも何人も人がおり、泣いているロベルトの方をチラッと見る者もいるが、ロベルトはおかまいなしで、声を絞り出してキャシーとの思い出を長々と語り続けた。フレッドはあまり聞いていなかった。いつまでもこんな話に付き合わされていてはかなわない。こうしている間にもレイが息を引き取ってしまったら――
しけった暗い雰囲気を変えることができず、フレッドは手にした酒のカップから立ち昇る湯気に視線を移した。湯気の勢いはなくなってきている。フレッドは、ロベルトの話が切れたところで、思いきって新たな話題を向けた。
「君はどうして、ハーケェン星へのこの船に乗ったんだ」
ロベルトの涙目は、フレッドの顔を確かめるように、その目元でぴたりと止まった。
「……久し振りにまとまった休暇が取れたので、帰省しようと思いまして」
中将はそれも忘れているのか、妹と婚約していたのだから、出身星ぐらい知っているはずだろう? とその目は言っていた。
「帰省、ああ、そうだったか。君はハーキェンが生まれ星だったんだね。憶えていなくてすまない」
振った話題が失敗とわかると、フレッドは知恵を振り絞って次の話題を探した。
「君は、ディッセンダムとはどこか知っているか?」
「ディッセンダムですか?」
「ああ、そうだ。ラオラントのどこかだと思うが」
「中将が出入りされていた施設の名前が、確かディッセンダム研究所だったと思います。位置は知りませんが、そこは軍の幹部しか出入りできませんので、私は行ったことがありません」
「ディッセンダムは研究所の名前か。そうか、ディッセンダムは実在しているんだ」
フレッドは納得するように、口の中でつぶやいた。すり替えられた身分証明書に示されていたディッセンダムという文字。地名ではなく、それは、軍人、フレッド・イベリー中将が出入りしていた施設の名前で、一般の軍人は出入りできない場所? となると、秘密の軍事基地かもしれない。フレッドの頭の中で、疑問と仮説と真実が結びつき始めた。
――レイ・グラウジェンの俺は、実在の人物、フレッド・イベリー中将にされている。あの映像装置に何か細工して魂を入れ換えられた可能性が大きい。そうすると……俺になりすましているやつがフレッド・イベリー本人に違いない。ここで泣いているロベルト・ファンセンが意図的に宇宙船の事故をしこんで俺に近づき、デタラメ話を流しているとは思えない。フレッド・イベリーがラオラント軍の中将だったとしたら、この魂のすりかえは軍の陰謀なのか? ディッセンダムという未知の場所で、何か悪い計画が着々と進められているのか……
「ロベルト、後ひとつだけ聞きたい。俺と最後に会ったのはどこだった?」
ロベルトの頬が、ヒッとひきつり、力の入らない言葉が口からこぼれた。
「キャシーの葬儀ですよ……」
フレッドは、またまずいことを言ってしまった、と思ったがもう遅かった。ロベルトは、苦しげに唇の端をゆがめた。
「中将、私は本当にうらやましいです。私も中将のようにすべてを忘れたいですよ。キャシーの思い出を全部……」
眉を寄せたままで、今も葬儀の最中のように瞳をくもらせたロベルトの表情に、フレッドは話を打ち切った。ロベルトもフレッドも、ラオラントの軍人のようなので、あの星のどこかでキャシーの葬儀をしたのだろうが、それを細かく聞くことははばかられた。フレッドは持っていた酒を飲みほすと、椅子から立ち上がった。
「すまなかったな、ロベルト。また後で、船内で会おう。知り合いがここへ入院したかもしれないから見て来る」
フレッドは立ち上がった。ロベルトはまだ泣き顔だったが、かまっている暇などない。ロベルトを残して、病院の受付へ足を運び、先ほど運ばれてきた患者の中に、レイ・グラウジェンがいるかどうか問い合わせた。受付のアンドロイドから返事をもらうと、よかった、と安堵のため息をもらした。部屋番号を聞いて、表情を引き締めてそこへ向かった。