三.暗闇の中で
歯ぎしりしながら自室へ戻ったフレッドは、作戦を考えなければならなかった。
相手は知能犯。面と向って「俺の体を返せ」と言ったところで、たぶんどうなるものでもない。また狂人としてあしらわれるだけだろう。
フレッドはため息をつき、狭いベッドへゴロリと横になった。このベッドはこんなに狭かっただろうかと思う。伸びをすれば、すぐそこに壁がある。何度確かめても他人の体。考えれば考えるほど、何もかもがおかしかった。
なぜモニターを見ただけでこうなったか。あいつは笑っていた……荷物の中身まで変え、それをフレッドの部屋に移動させ、フレッド・イベリーの名を乗客名簿に入れる周到さ。最初からそうするつもりなら、目的は何か。次期総統の暗殺? それなら、なぜ宇宙船ごと破壊しない。そもそも、フレッド・イベリーとはどこの誰のことだ? 優秀な兵士? いかにも兵士っぽいかっこうをしているが……
フレッドは、起き上がり、自分の荷物に入れてあった身分証明書を取り出した。手のひらの半分ほどの大きさの、薄いカード。
「やっぱりな」
驚きもしなかった。旅行かばんの内ポケットに入れていた身分証明書は、フレッド・イベリーの物に取り換えられていた。身分証明書の写真は、屈強ないかつい男。男性的でごつい顔立ちに、大きく黒い瞳。線が細く女性的なレイとは似ても似つかない。しかしそれは、この宇宙船の窓に映し出された今の自分自身の顔だった。
身分証明書の住所欄には、ラオラント星ディッセンダム、とだけ記載されている。聞いたことがない地名。しかしこれはラオラント星で発行された記号が入っているので、あの星のどこかであることは間違いない。
フレッドは記憶を手繰り寄せようと両手で頭を抱えた。
「どこだ、これ。ディッセンダム……」
繰り返し口にしてもその地名を思い出せない。ラオラントの次期総統である自分が、知らない地名があるとは。記憶の半分はレイの体に残っているのだろうか。誰も答えることのできない問いを自分にしても虚しかった。この身分証明書自体が偽造だと思えてくる。むしろ、そう思った方が自然だった。
フレッドは、そう決めつけて少しすっきりすると、またあのモニター室へ向かった。目的のハーキェン星へ着くまでにはまだ何日もかかり、時間が余りすぎている。狭い自室にいても、どうにもならない現実にいらつくだけだ。それに、少しだけ期待があった。やはりこれは悪いイタズラで、あのモニターを見れば、元の自分に戻れるかもしれないと。
とりあえず、あのモニター室へ行ってみよう。
そう思い廊下を歩いていたフレッドだったが――モニター室へたどり着く前に、その口から悲鳴が飛び出していた。
突然の強い衝撃で、フレッドは廊下の床に倒されていた。他にも廊下を歩いていた者も同様だ。船体は、爆発音とともに大きく左右に揺れ始め、大きな音の非常ブザーが鳴り響いた。
ビー! ビー! ビー!
「緊急事態発生! 緊急事態発生! 乗務員は至急――」
船内放送は言い終わらないうちにブチッと途切れた。それと同時にすべての照明が消え、船内は暗黒に包まれた。船体は、停電してもまだ大きく揺れ続けている。床は左右に振っており、立っているどころか、しゃがんでいることすらできない。
大音量で鳴り響く非常ブザー。船の揺れは止まらない。床に投げ出された体をできるだけ平らにして転がるのを防ぎ、手のひらを吸盤がわりに大きく広げて、床に張り付くより他にない。左右に大きく動く床。ラオラント星でもときおり地震はあるが、こんな激しいものは経験したことがない。床が傾きを変えるたびに、体重が勝手に移動し、ずるずると滑って行く。そしてすぐに逆方向へひっぱられることの繰り返しだ。かき回され続ける揺れの中、必死で目を凝らすが、宇宙の中の闇は深すぎた。自分の足どころか、手のひらすらも見えない。
必死で揺れに耐えていると、キィーンとする耳障りな音と共に、宇宙船の揺れは、ようやく収まった。ああ、と息をつく間もなく、今度は重力調節装置が切れたらしく、体が軽くなり宙に浮いた。
「重力系統がやられたのか?」
どこからも答えはない。非常ブザーがうるさいだけだ。無重力状態の闇。暗い中を自分の意思とは無関係に体が漂い、フレッドはその辺で転がっていた他の旅行者とぶつかった。
「おっと、失礼! 大丈夫ですか?」
「イタタ……これは何かあったようですね」
どこの誰とも知れない相手とそんな会話がなされた。相手の顔すら確認できない暗さ。こういう停電時には、点灯するはずの非常灯すら暗いままで、明るい恒星から離れた航路を進んでいる今は、すべて暗黒の宇宙空間。ぶつかった相手と離れて今度は壁に腰が当たり、浮く方向が変化した。手足を振り回して泳いでも思う方向へは進めない。いきなり壁がそこにあったりして、今、上を向いているのか、下を向いているのか、さっぱりわからない。
「何も見えないじゃないか。どうなっている」
けたたましいブザーの音と深すぎる闇が不安をさらにあおり、フレッドの心拍数を高めた。手探りで壁を伝っていると、突然重力装置が回復し、いきなり床にたたきつけられた。
「なんだよ……痛……」
しかし、まだ照明は回復せず、フレッドは闇の中で、床をはいずりながら頭をこすった。廊下に思いっきりぶつけてしまった頭は、耳の上辺りに大きなこぶが出来ていた。緊急ブザーはあいかわらずやかましく鳴りっぱなしで、船内放送は何も入らない。
「どうなっている。どこかの艦隊の攻撃か? 事故か? 乗客に説明ぐらいしろ」
その言葉には、どこからも返答はない。先程ぶつかった相手も同じことを思っているはずだが、遠くまで浮遊してしまったのか、声は聞こえない。
フレッドは、暗闇で眉を寄せ、舌打ちした。今日は怒りっぱなしだ。いいことは何一つない。ぶつぶつと怒りの言葉を吐きながら、全く視界がない中を手探りで這って床を進んでいると、また重力装置が切れてしまった。先程と同様、体が急に軽くなり、ふわふわと闇の中を泳がされる。必死で手足を動かすが、どちらへ進んでいるのかわからず、進むのをあきらめて手足の力を抜き、無重力の空間を漂うにまかせた。
「船長は何をやっているんだ。客にこんな思いをさせるとは。んん?」
ふいに鼻先に何かの液体が張り付いた。すっぱいその臭い――吐き気を誘うそれは、無重力になって漂っていた誰かの嘔吐物だった。頭を打った誰かが吐いてしまったらしい。
「これはもしかしてあれか?」
うめきながら、頬についた汚物を、袖で拭いた。洗面所へ直行したいが、暗すぎて方向感覚が狂い、どちらが洗面所かわからない。自分の部屋まで戻ればあるが、進む方向すら見定めることもできない。瞬きを繰り返しても、黒一色の光景の中、顔に汚物をつけ、不安と怒りでうなりながら宙を泳がされている。
「くそぉ……何があったんだ。初めての宇宙旅行にこれはないだろう。顔に汚物までつけられるとは、イタズラにしては行き過ぎだ。今日は最悪だ。あいつに体を取られただけでなく、うぅぅ……もう我慢ならない。ぐあっ!」
突然重力が戻り、フレッドはまた床にたたきつけられていた。今度は後頭部を強打した。
「痛……ふざけている……俺はラオラントの次期総統だぞ。その俺をこんな目に遭わせるとは……」
フレッドは、新たなコブのできた頭をさすりながら、ゆっくりと起き上がった。重力は回復しても、照明はまだで、暗黒の世界は終わっていない。何が何だかわからないので、とりあえず、片手を壁につけながら前へ前へと進んで行った。そのうちどこかわかる場所へ着くだろう、そんな期待を込めながら、闇の中をひたすら前進する。暗闇のせいか、廊下はとてつもなく長く感じ、同じところをぐるぐるとまわらされているような感覚になってきた。手が教える金属の壁の冷たさが、自分が移動しているとわからせてくれる。休むことなく鳴り響いている緊急ブザーの音はあいかわらず大きく、耳が痛い。
やがて、不意にぶつかった硬いそれに、両手で触れた。手のひらで感触を確かめる。冷たい金属扉のようだ。間違いない。ここは廊下の端。本来ならば、自動でその扉は開くはずだったが、非常灯の明かりすら消えているので、扉の前に立っても自動で開きはしなかった。それなら手動で、と手探りで扉のくぼみに手をかけ、力を込めたが、押せども引けども開かない。
「誰かいないか。開けてくれ」
何の返答もない。開かない扉の前で悪態をついていると、ようやくブザー音が止まり、男性の声の船内放送が入った。
『お客様に申し上げます。大変ご迷惑をおかけしており、申し訳ございません。本船は、宇宙浮遊石と衝突し、船体の一部が破損した為、ただいま復旧作業中でございます。完全復旧まで今しばらく、各お部屋の方にてお待ちください。一部から空気がもれておりますので、絶対にお部屋から出ないようにお願いいたします。廊下の扉は安全の為、すべてロックいたしました』
「ロックしたぁ? ちょっと待てよ、ここにいたら部屋にも戻れないじゃないか。おいっ、誰かいないか」
フレッドは暗闇に向かってどなり散らしたが、あいかわらずどこからも返事はなかった。それ以上の放送はなく、どこが破損し空気が抜けて危険な場所なのかはわからない。
フレッドは開かない扉の前で座り込んだ。何もできない。顔が臭いので、鼻から息を吸い込まないようにしながら、復旧をおとなしく待つだけだ。停電状態はまだ回復しない。
船体が破損したとはイタズラにしてはできすぎている。これは夢だと思いたかった。
「……いや違う、夢にはこんな臭いや痛みまでついているわけがない。夢ならたたきつけられた瞬間に目が覚めている」
頭の痛みも、嫌な臭いも現実のものとして感じることができる。扉にもたれたままのフレッドは、打った頭をさすりながら、何度目かのため息をついた。