最終話.三年後
ディッセンダム研究所の一室のベッドで、レイは眠っていた。そこは、かつて、ひざを負傷した“フレッド”が寝ていた、レイ専用の休憩室。
模様のない白い壁は、しみひとつなく、清潔感が漂う。どこかから、ゆったりとした甘い調べの音楽が流れてくる。ゲマド人の宇宙船乗っ取り事件から三年の月日を経て、散じてしまった魂を呼び戻す実験はようやく成功し、レイがあの時失った魂のかけらは、回収され体へ戻す処置をするに至った。処置後、四日目に入っていたが、レイの意識は未だに戻らない。
「レイ、起きて……」
母親のラティカは、付き添い椅子から腰を上げると、息子の頬にそっと触れた。
「レイ……」
呼びかけても、まぶたは固く閉じられたままだった。ラティカは不安のあまり、壁に取り付けられている、爪の先ほどの大きさの、四角いボタンを押した。
『いかがなさいましたか?』
ブザーのすぐ横の壁に埋め込まれている、人の頭ほどの丸いモニターに、ブラウゾンの顔が映った。
「先生、やっぱり心配で……一瞬だけ目を開けて大声で何か言ったんですけど、また眠ってしまいました。もう一度見ていただけませんか」
『すぐにまいります』
ほどなくブラウゾンが入って来ると、ラティカは立ち上がって場所を開け、ブラウゾンの後ろへ回った。
ブラウゾンは、レイのベッドの横におかれている、腰の高さほどの四角い金属製の機械のフタを開くと、中に記載され続けているレイの健康状態のデータにさっと目を通した。
「熱はありませんね。脈拍、呼吸とも正常でございます」
ブラウゾンは、眠るレイの様子をじっくりと診察したが、顔色も悪くなく、普通に眠っているだけのように見える。少し開いた唇から、スースーと規則正しく空気が出入りしていた。
「先生、今はおとなしいですが、さっきも手足をばたつかせて暴れて……かと思うと、急にまた力が抜けてしまって……もうどうしたらいいかわかりません」
「現在の、魂の状態を調べてみましょう」
ブラウゾンは、機械に付属している、長いコードの付いた吸盤を、レイの額に張り付けた。機械が即座にピピピと鳴き、計測不能であることを告げた。
「まだ安定していないようですね。後は待つしかありません。大変だとは思いますが、舌を噛み切らないように、付ききりで、目を離さないでください。自分を傷つけるようだったら、迷わず手足を縛ってください」
ブラウゾンは、枕元に用意されている手足拘束用のベルトを示した。ラティカはわざと目をそらした。
「この子に、そこまではしたくありません。かわいそうに……先生、本当に目覚めるでしょうか。こんな危険な実験をやっていたなんて、どうして知らせてくださらなかったのです? 魂が欠けてしまったことを三年近くも私に内緒にしていたなんて。おかしいとは思っていたのです。小さい頃の思い出を忘れている時があったし、ハーキェンへ行ってから、性格が変わったように反抗しなくなりました。大人になったからかと思いましたが、まさか、こんな……魂を二人に分けて宇宙へ出るなんて、きちんとしたデータもない状態だったのに無謀な」
「奥様、申し訳ございません。当時は、宇宙での突然死の原因が、遺伝的なものにあるとは突き止められておりませんでした。私はレイ様を死なせたくない一心でございました。あの時のやり方が間違っていたことは認めます。それだけでなく、私が一般客船にすることに同意した為に、行きの宇宙船では予想外の事故に遭い、帰りは乗っ取り犯に怪我をさせられ、しかも、帰星後に魂の一部を逃がしてしまうような事態を招いてしまいました。すべて、私の責任でございます。おわびの言葉もございません」
ブラウゾンは深く頭を下げた。ラティカは、この研究所で行われている実験のことを、あの時に初めて知ったが、“フレッド”になっていた、息子の魂のかけらが消滅してしまった事実は、数日前に知ったばかりだった。
「こんなに苦しむこの子を放置しておけません。魂が欠けていてもいいですから、すぐに起こしてください」
「奥様、今、ここで気付け薬を打って無理やり目覚めさせることの方が危険なのです。もう少しだけお待ちください。肉体からいったん解き放たれてしまった魂の統合は、部分移植や分割より時間がかかり、研究員を使った実験では、目覚めるまでに十日近くかかった例もありました。気長に待ちましょう。体が限界に来たら、薬を打ちますが、できれば自然に目覚めるのを待つ方がいいのです。彼は今、失われた魂のかけらと出会い、本来の彼に戻ろうとしています。邪魔をしてはなりません。また見にまいりますが、様子がおかしかったら、連絡してください」
ブラウゾンは、吸盤をレイの額からはずすと、部屋から出て行った。ラティカはため息をついて、腰をかがめると、眠る息子の髪をなでた。
レイは長い夢の中にいた。真っ暗な思考空間の中で、形も何もない二人の自分の存在を感じる。言葉を交わしていても、音になっていない。ただそこに無理やり分けられてしまった自分がいる。うれしさ、なつかしさ、喜び、悲しみ、にくしみ。離れていた間の様々な感情がすれ違う。
やっと見つけた 三年かかったんだ
おまえがいないと 俺は俺じゃない
そうだろう?
俺とおまえは もともと一つ
フレッドの体をラオラントまで持ち帰ってくれてありがとう
あの時のこと 素直にあやまるよ 笑って悪かった
今さらあやまる? ふざけるな
俺があれほど説明を求めたのに おまえは取り合わなかった
俺をあざ笑ったおまえを 怨む気持ちは捨てきれない
最低の情報しか俺に渡さず 自分だけいい思いをした
俺に消えろと言うなら おまえが消えろ
近づいて来るなら
俺がおまえを吸収してやる
自分だけいい思い?
それは違う 量の配分が気に入らなかったか
おまえの方をぎりぎりの量にしたことは
体を守る為にやむを得なかった
説明はしたんだ 憶えていない理由は おまえが小さすぎたからだ
それに フレッドの体が記憶しておける状態ではなかった
体 魂 両方の状態がよくないと記憶は正常にできないことが実験でわかっている
どうしようもなかった
そうだったのかもしれないが
俺はそんなことはどうでもいい
おまえが俺を笑いものにしたことが許せない
あっちへ行け 来るな
意地をはらずに 戻って来い
探すのに時間がかかったんだ
何もない真っ暗な中で、二つのレイの魂が、近づいては離れることを繰り返す。再会して四日目に入っていたが、時の経過など関係なく、肉体が今どうなっていて、自分たちがどこにいるのかもわからない。主魂が近づくと、かけらの方が離れていく。追う、逃げる。回りこむ、あとずさる。わずかに触れた瞬間に、感情をぶつけることが延々と続いていた。
そんなに逃げるな
これではいつまでも元に戻れない
あの時の記憶を受け取ってくれ
あの日 魂を分けて乗船したこと
ブラウゾンが俺を心配して 父に内緒でそうしてくれたこと
いいから 拒まずに受け取れ
散々笑っておいて 勝手なやつめ
俺がどんな思いでフレッドをやっていたか知りもしないくせに
笑って悪かった
フレッドの怒り顔がおもしろくて もっとからかいたくなった
悪かったと言っているだろう?
どんなに苦労しておまえを探したか その記憶も見せよう
こっちへ来いよ おまえを受け止めてやる
結合すれば 俺もおまえのすべてを知ることができる
おまえの怒りも 悲しみも 全部もらう
おまえは 俺が笑っていた気持ちがわかるはず
おまえも人をからかうのは大好きだろう?
おまえは俺なのだから
いやだ 何も聞きたくない
おまえは俺を殺すつもりだろう
違う 違うよ
待て どこへ行く 逃がさないぞ
魂の追いかけ合いは、永遠に続かに思えたが、主魂はとうとうかけらを捕まえて、強引に包みこんだ。捕まったかけらは、荒っぽく主魂の中へ閉じ込められたが、持てる限りの力でそこから出ようとした。
「ああっ!」
「レイ、どうしたの、レイ!」
現実の体は、魂の変動に反応し、激しく首を左右に振って、手足を乱暴に振り回していた。バン、バン、と拳になった手がシーツにたたきつけられる。うっかりすると殴られかねないので、ラティカは、おろおろとベッドから少し離れた。
「レイ、しっかりしなさい。寝ているの、起きているの、どっちなの」
「あうっ! ぐううぅぅ!」
レイは、あおむけになったままで顔をしかめて叫ぶばかりで、まともな言葉は口から出ない。ぎりぎりと歯を食いしばり、そのうちに自分の下唇を噛み切った。一筋の血が唇の山から顎へ下っていく。魂の復活処置をしてから、こういう状態に何度も陥った。たまに目も開くが、すぐに閉じてしまい、会話をするどころではない。ラティカは悲しげに、瞳を伏せた。監視する必要があるとはいえ、とても見ていられない。
そうしている間も、体内の思考空間の中では、魂同士がぶつかり合っている。
このっ! 俺になにをする
もう逃がさない
俺の記憶を見ろ
いやだ 俺はおまえになどなりたくない
落ち着いて全部見ろ これが真実だ
暴れるかけらへ、有無を言わさず注ぎこまれる主魂の記憶の数々。かけらはすべてを拒絶しようと、するりと逃げた。すぐに追いかけて来る主魂を振り切ろうとしたが、突然動くのをやめ、くるりと向き直った。
そうか……
今ので 俺は自分がなんなのかわかった
これはデタラメな記憶ではないことぐらいはわかる
現実の体の方は、急に力を失い、振り回していた手はポトリとシーツの上に落ちた。レイは、また深い睡眠状態に陥った。ラティカは半分泣きながら、息子がくしゃくしゃにしてしまったシーツをひっぱって直した。暴れるのはこれで何度目だろう。昼も夜もなく、興奮状態は突然やってくる。いったいどうなっているのか。息子の気が狂ったとしか思えない。
「レイ……お願い、元に戻って……」
返事はもちろんなかった。気を紛らわす為にかけられた音楽だけが、何事もなかったかのように、静かな空間を滑っていた。
明かりのない思考空間の中で、魂同士は少し歩み寄った。そこに存在するのは、自分の魂だけ。他には何もない。
わかってくれたんだな?
もう逃げるな 結合して元に戻ろう
主魂が近づく。しかし、かけらは軽いうめき声をもらすと、すうっ、と身を引いた。
いやだ 俺はおまえになる気はない
俺は俺だ おまえのかけらでも俺なんだ
俺には存在する権利がある
俺が人為的に作られたかけらでも
おまえに吸収されるのはどうしてもいやだ
おびえる必要はない
おまえは俺だから 一緒になってもおまえが消えるわけじゃない
もう一度よく見ろ
主魂が再び近づく。かけらはかすかな悲鳴をあげたが、全力で逃げることはしなかった為、今度はあっさり捕まった。再び渡されるすべての記憶。真実がかけらを震わせ、尖った感情の棘がほぐされ、はがれ落ちていく。母親に抱かれる幼子に、無条件に与えられるぬくもりに似た心地よさを感じ、かけらはとうとう一切の抵抗をやめた。主魂に包まれながら、熱に溶かされる氷のように、心の壁をほどいていった。
ああ……俺は……
おまえが俺になることは 当たり前のこと
すべてを俺にゆだねてくれ
この三年間 どこで何をしていた
次は俺がもらう番だ おまえの記憶を俺に渡してくれないか
今度は、かけらから主魂へ記憶が流れる。そこには、“フレッド”にされた怒りや悲しみがひしめいていたが、何よりも多くあったのは、ラオラントを宇宙から見た記憶だった。白く厚い氷に覆われた地表は、遠い恒星に温めてもらうことはできないが、かすかな光を受けて反射し、さらに白く見え、宇宙に浮かぶまばゆい白銀の宝玉を思わせる。さまざまな角度から見た、多彩な表情をみせるラオラントの記憶。薄い大気に浮かぶ、白く細い雲の帯が、太くなったり、ちぎれたりと、形を変えては同じ方向へ移動していく。氷の割れ目から覗く深く長い谷は、黒くぎざぎざした口を開けている。そのところどころに、人が住むドームの明かりが、光る粉を散りばめたように、点々と灯っている。細かい氷の粒が吹き荒れる地表の平原は、高度を下げて近くから見ると、風と氷が作りだす青白い彫刻が延々と並ぶ。自然につくられた芸術品には、ひとつとて形が同じものはない。
かけらが持っていたラオラントの記憶は、あの旅行の時に宇宙船から見たものだけではない風景がほとんどだった。
おまえ 体を離れてからずっと 宇宙からラオラントを見ていたのか
なんてきれいなんだろう こんなの見たことがない
さあ 溶け合って現実へ帰ろう この星に生涯を捧げる俺の体へ
何もかもが元通りの 本当の俺に
かけらの壁はとうとう崩れて無くなり、二つに分かれて魂たちは、主魂にかけらが抱かれて、一つになった。
ずっと望んでいた。俺はこうなりたかったんだ……
レイはゆっくりとまぶたを開いた。それに気がついたラティカは、また暴れるかと身構えたが、今度は何事も起こらなかった。詰めていた息が漏れ、ラティカは涙を浮かべて息子の顔を覗き込んだ。
「レイ? 元のレイなの? 記憶はある?」
母親は、口早に、質問と、心配をぶつけたが、寝起きのレイは、眩しそうに瞬きしただけで、すぐには返事をしなかった。
「今、ブラウゾン先生を呼ぶわね」
壁のボタンを押そうとしたラティカを、レイが止めた。
「いいよ、呼ばなくても」
「でも……」
「いいって。やっと、ぼやけていた頭の中が埋まった気がする。大丈夫だ」
「大丈夫って、こんなに心配させて……もう四日も寝っぱなしだった。寝ながら大声を出して、暴れていたのよ。目覚めてくれてよかった」
鼻を赤らめて、しくしくと泣き出してしまった母親に、レイはゆっくりと上半身を起こした。
「四日も寝ていたのか。そんな気はしないね」
「ねえ、こんなことは二度としないでちょうだい。父さんに内緒で人体実験を次々やって……」
「心配かけてごめんね、母さん」
レイは軽いめまいのする頭をすっきりさせようと、軽く左右に振った。
「夢の中でとてもきれいなラオラントを見ていた。離れていた俺のかけらが、その記憶をくれた。人が死んだら、どこへ行くのか、やっとわかった気がするよ」
母親を安心させるように、微笑んだレイの脳裏には、“フレッド”が肉体を捨ててからずっと見ていた、ラオラントの白く輝く姿が焼き付いていた。
近いうちに、魂の移植は当たり前になり、人は、魂の器を作っては取り換え、永遠に命を保ち続けるようになるかもしれない。それでも、いつの日か、生きることに飽きたら、体を捨てて、ラオラントが見えるあの場所へ飛んで行こう。そして、この美しいラオラント星が存在する限り、ずっと見続けていよう。レイは密かにそう誓った。
(了)
お読みいただき、本当にありがとうございました。
完結まで書き続けることができたのは、皆様のおかげです。感謝でいっぱいです。
外伝「あの日と同じ手のぬくもり」(ロベルト・ファンセンとキャシー・イベリーの話・恋愛色強め・全三話完結)の入口を下へ作りました。よろしければ、覗いてください。外伝の時間軸は本篇の後になります。
2009.3.25 菜宮 雪