決ノ章
千景は自分が『倭国神奏戦華』内のキャラクターネーム『千景』として、元居た現実の世界でもない、ゲームの中でもない、何一つ知らない世界に現実の人間のように存在していることを認識した。
その事実はすんなりと喉元を通るようなものではなかったが、ゲーム内のキャラクターで存在しているということが千景の心の中に少しばかりの心強さを産んだ。
現実世界の千景は、戦える武器も持っていないし術だって使えない、異世界の化物と戦える術なんて持ち合わせてはいなかったのだから。
もし会社に通勤している時のスーツ姿でこの世界に降り立ったのなら、最近買ったばかりのビジネスバッグと革靴だけで、あの一番初めに出会った化物のミイラとご対面した時どう戦えばよかったと、十中十、即ゲームオーバーだ。逃げるにしても即死確定の死にゲーム、どちらにしても詰んでいた。
「何が起こってるのか全く意味がわからない、意味がわからないが、そんなことを言っている暇なんてなさそうだ、あんな化物に襲われる世界、何が起こったとしても不思議じゃない」
あの化物に襲われた時は、ゲームの中のキャラクターを意図的に操作しているというよりは、無意志に動かしていたという感覚だった。そんなことを考えながら千景は手を開いたり握ったり、飛び上がってみたり、意味もなく刀を振り回したりして、自分の体を自分が動かしているという当たり前のことを確認する作業に没頭した。
手を前に出せば、手は前にでる、当たり前だ。ただ違うのは何をするにしても、素早く動き、今まで生きてきた中で感じたことがない、体の軽さがあった。
思いっきり飛び上がろうとすれば、どこまでも飛び上がれそうな気がしたが、いかんせん頭のすぐ上には頑丈そうな石の天井があり、その実験は諦めざるをえなかった。
千景が色々試しているその姿をエルタは、ぽかーんとした表情で手を前で組みながら見入っていた。
「体は動く、運動不足のリアルな体とは比べものにならない、現実世界だったらメジャーでホームラン王にもサッカーでバロンドールだって取れそうだ。後は……忍術はどうだ、どうなってる、さっき使ったものとは別の物……」
ゲーム内で使用可能だった技能や技術、そのやり方は体に刻まれいるのか脳に記憶されているのかそれはわからなかったが、使える姿をイメージすることが出来る。これは使えるという確かな実感があった。そしてそれを確かめるように、千景は前方の空間に下位の忍術を放った。
【忍術】『雷遁:稲妻』ピシッと白いイナズマが走る。
「おー出た」と千景が言うと、それにつられたのかエルタは拍手をした。
【忍術】『水遁:水球』水で出来た球が壁にあたり、ばしゃーんと水が弾け、着弾した後が付いた。
【忍術】『火遁:火球』ぼわっと炎が舞い上がり、薄暗い廊下を一瞬照らしてから消えた。
――全てゲーム内の時と同じように発動した、この調子ならば高位忍術も放つことは出来そうだ。
千景は試したくてうずうずしたが、横にちょこんと立っているエルタをちらりと見た。
――ただ高威力な忍術を試し打ちするのにはここは狭すぎる、もし発動させたらこんな石の建物なんて吹っ飛んでしまうし、俺はともかく、エルタは確実に生き埋めになりそうだ。
そういうことだったので、先にここでも試せる他のイベントリ内にあるアイテムと装備のチェックをしておくことにした。
一振りすると特殊効果のある刀【忍者刀】『桜閃刃』をイベントリから出し、刀を抜いて、軽く振ってみた。すると桜の花びらが舞い上がった後、つむじ風がそれを巻き上げながら前方の壁に斬撃が撃ち込まれた。
「お、お、おー」とエルタはまたもや拍手をして手品師のマジックでも見ているかのような反応をした。
――この子はこの状況わかってるのか? 服だってボロボロになっているのに……この世界がどういう状況かわからない現状、これからどんな化物じみたやつが現れるかわからないっていうのに
千景は、はあと深いため息をついた。エルタがその様子を見て「どうかなされましたか?」と不安気に顔を覗いてきた。
「いやなんでもない、色々頭の中を整理したいのと、心の準備をな」
後はこれでも飲んどくかと、回復薬の【全快薬】『桃華丸薬』を飲んだ、口にした途端、甘い芳香が口一杯に広がり、体の奥底から力が湧いてくるのを感じ、ノブナガとの戦闘から回復していなかった体力と内気量がみるみるうちに回復してくるの実感した。
――これはいい、実際に桃華丸薬を飲むとこんな感じになるのか、味も甘いし、おいしい、しかも翼を授けるどころじゃないなこれは
体の調査の仕上げに、拳を強く握りしめ力の入りを確認し、膝を曲げ伸ばししてみた。体の駆動に関しては今のところはなにも問題なさそうだった。
「あと試しておきたいものは……」とプレイヤー操作キーを眺めて「これだこれだ」と配下NPCも呼んでおくかと思った矢先に「それは一体何をなさっているのですか?」と聞いてきたので「あーこれか、これで色々と操作出来るものがあるんだよ」と千景は素直に答えた。
すると、エルタは「どれですか?」と聞いてきたので「だからこれだっ……」と言おうとした時に、千景はエルタが、千景の手の先を見ているのに気付いた。
千景はエルタを弄ぶように、エルタの目の前で指を右に左に動かしてみるとエルタはその動きを目で追った。そしてプレイヤー操作キーをエルタの顔に近づけたが何の反応も示さなかった。どうやら、エルタにはプレイヤー操作キーは見えていないようだった。
――これは自分だけが見える幻覚みたいなものか
「まあ色々あるんだよ」と説明が面倒臭かったので千景はお茶を濁すしかなかった。エルタは、眉を顰め難しそうな顔をして「そういうものなのですね」と言った。
「それでエルタは、見た目通りのお姫様ってことでいいのかな」
「ええ、そうですね、そうです、この国の王女です、それと、あ、あの…… それでですね、あのですね……」
「ん、どうした?」
「ち、千景様は! 千景様は……一体何者なのですか!?」エルタは胸につかえていた疑問を、思い切って言ったので、声が若干上ずっていた。
――うーん、これは困った、なんと返答すればいいのかパッ思いつかない、エルタに俺は忍者ですと馬鹿正直に答えてもわかるわけないし……
今千景は、ゲームと夢と現実との間に伸びた細い白線のようなものを歩いているような感覚であり、事実だと思えることを受け入れてはいるが、まだ何が起こっているのかを正確に判断出来てないかったし、何かを決定するにしても判断する材料が少なすぎた。
押し黙って考え込んでる千景を、怪訝そうな顔でエルタは見つめていた。
――出現したところも怪しければ、自分自身の見た目も、中世ファンタジー世界のエルタのドレスと比べたら違和感がある黒装束に身を包み、完全に不審者だもの
悶々と難しい顔をして考えている千景の様子と重苦しい沈黙に耐えらなくなってエルタは「ど、どうかなされましたか? 何か私は千景様に対して失礼なことを?」と不安げな表情で訴えてきた。
そんなエルタを見て千景は「うーん、まあ俺はここから遠く離れたところから来た、魔物退治を生業としていたもの? かな……」とゲーム内に作った千景というキャラクターに成りきって喋ろうとしたが、うまくいかなかった。
――俺がこの世界に出現した場所から考えれば、俺がここにいる何かしらのヒントをエルタは持っているはずなんだが……エルタも状況を飲み込めてないようだしどうしたもんか
「……な、なるほど、そうでしたか、魔法陣から出てきたらすぐに邪神の亡骸を、破壊した方なので、悪い方ではないとは思ったのですが…… 邪神も恐れてましたし……」
――邪神? なにそれ? どういうことだ
千景は、エルタに「ちょっちょっと、もうちょっとその邪神について教えてくれないか! あの初めに俺が見た、八本の手を持ったミイラのことを言っているのか! 邪神って!」と勢いよく詰め寄った。
エルタは、千景のその勢いに押されそうになったが、背筋を伸ばし顔を精一杯整えてから顎を上げ「そ、そうですね! そうです、たぶんそうです、あの魔法陣と邪神のせいですね、たぶん……千景様がここに現れたのは……」と言った。
「魔法陣? そういえば俺が立っていたところの足元にあったな魔法陣が、それでエルタが俺を呼びだしたとそういうことか?」
「い、いえそれが、あの部屋に入った後の事をよく覚えてないのです、記憶に靄がかかっているというか、思い出そうにも雲のように掴みどころがなくて……」
肝心な部分がまったく要領を得なかったので千景は思わず「そこが重要なところなのに!」と大きな声を出した。
いきなり大きな声を出されたエルタは慌てて「も、申し訳ございません!」と急いで頭を下げた。
「いや、ごめん…… 悪かった急に大声を出して、すまない、考え事をしていて頭の中の事が一杯になってつい」
「いえ大丈夫です、少し驚いただけですので、お気になさらずに」
「ありがとう、決してエルタを叱ったとかそういうのじゃないから、安心してくれ」と千景はエルタに努めて冷静に話しかけた。
そして一呼吸置いてから「エルタは今どういう状況にいるのか教えてくれ、出来るだけ簡潔に、あの兵士達はまた襲ってくるんだろ?」と尋ねた。
「わ、わかりました、そうですね……私は今日無理やり結婚させられそうになったのです、この国の宰相|ゴルビスに、だから私はあの部屋に逃げ込んだのです」
「なるほどね、でもそいつは宰相なんだろ? なんでそんな勝手なことが許される? 王様だっているんだろ?」
「そ、それがですね、我が父である国王に反旗を翻したのが先日の事で、その時に父は殺され、私は捕らえられたのです……」
その話を頷きながら聞いていた千景は心の中では「どこのゲームの世界の話だよ」と思った。千景がそんなことを考えてるなんてエルタは知る由もなく、さらに話を続けた。
「千景様が現れたあの部屋の扉に描かれた模様を、千景様も見た筈ですがあれは、ラフィーエの血族しか開けることは出来ないということも書かれています」
「なるほど、だから俺じゃ、あの扉が開かなかったわけか」
「そうです、でも私自身あの部屋に入ることは初めてのことでした。あんな……あんな邪神の亡骸があるなんて私知らなかったんです!」
「宰相のゴルビスから逃げるために、あの部屋に入ったら俺が倒したあの化物のミイラがあったと」
「そうです、そうなんです! ああ、私、千景様と話していたらなんとなくあの時のことを思い出してきました。そうでした! あの部屋に入った瞬間、私の精神は、邪神によって汚染されました。そして邪神に、体を操られ、あの魔法陣が書きあがった瞬間に千景様が現れたのです。精神が汚染された時に邪神が考えていることが、私の中で重なりあったのですが、私の中に眠っているラフィーエの力を使って、邪神の眷属を召喚して何かをさせようとしていたようです。ただそこに召喚されたのが千景様だったのは邪神にとって想定外のようでした」
「ラフィーエの力……想定外? エルタの中にある力が俺をこの世界に呼んだってことは、エルタは俺を元の世界に戻せるってことか」
「いえ……そんな力があることすらまったく知りませんでしたし、私に特別な力があるとか……そんな力があればゴルビスの好きになどさせませんでした! 父上だってそうだったでしょう……」
「そうだな……全くその通りだ……邪神か、そいつももういないし、あの部屋に戻るよりは先に進んでどこか落ち着いた場所に出ない事にはどうにもなりそうにないな、俺が召喚されたのも謎だし、邪神の眷属ね……」
エルタに言われたことを千景は、いくら考えても、まったく心当たりがなかった。なにせ、現実世界には邪神なんてものはいないのだから。
千景がエルタの話を聞いて、どうしたものかと考えていると、話の腰を折るようにまた兵士達の足音が聞こえてきた。兵士達の姿を視界に捉えると、躊躇なく刀を振り下ろした。
――この世界の情報が、なにもない現状では、迅速に行動し、徹底的に潰していくしかない、躊躇ったらまず間違いなく、こっちが殺される。王様も殺されてるんじゃあ俺だけ助かるなんてことはありえない。相手は、邪神がいるような世界の住人、今後どんな能力を持っているやつがいるかわからないし、まあゲーム内と同じだったのなら大抵の事は、この『神単衣の黒装束』を着ていれば大丈夫だが、イレギュラーなことなんていくらでもある。とりあえず、姿を消すかと千景は考えた。
目を瞑って震えているエルタに「ちょっとエルタこっちによってほしい」と言って、千景はイベントリから透明化アイテム『天狗の隠れ蓑』を出し、二人で一つの雨がっぱを共有するように頭から被った。
「これを被ると兵士達から見えなくなって、俺達は見つからない」と説明しながらエルタを見ると、近い、大分近い、顔の距離も近い、心臓が早鐘のように鳴る。二人で隠れ蓑を被っているので体を密着させなければならなかった。エルタも顔を下に伏せて何か気まずそうに「ハイ……」と地面に向けて消え入りそうな声で答えた。
――そりゃそうだよな……ここはもう自然に無言のまま押し切る『倭国神奏戦華』最強の忍者『神滅忍者』の称号をゲーム内でただ一人所有している千景として。
気まずい雰囲気の中、忍者と王女のぎこちない二人三脚が始まった。壁に沿うように歩き、その横を兵士達は、奥の方へと駆け抜けていく、そして絶叫がこだまする。
横を通り過ぎて行った兵士達は、刀で切り伏せた兵士達の死体を見たのだろう、そちらの方から騒がしい音がする。そして少しすると、こちらに戻ってくる足音が近づいてくる。奥の死体を見た兵士達が、青ざめた顔で入り口の方へ我先にと、足をもつらせながら、千景達の横を駆け抜けていった。こちらの方には目もくれずに通り抜けていったのでどうやら『天狗の隠れ蓑』の効果もきちんと作用しているようでった。
よしと千景は「ちょっと失礼」と一言エルタに声を掛け、ぐいっとエルタの、か細い腰に手を回し、自分の脇の下に米袋でも抱えるように、小声で「ななななな」と声にならない声を発しているエルタを抱え、入り口の方に向かう兵士達の後ろをついていった。
死体を見た兵士達の形相が、新しくこの建物に入ってきた兵士達にも伝わり、何事か内部で起こっていることを察し、新しく入ってきた兵士達も奥から戻ってきた兵士達と一緒に、踵を返し、廊下を逆走した。
その後を千景はエルタを抱えたままついていき、何回か角を曲がったところで、突き当りに光が差す、どうやら出口がある廊下まで行き着いた。そして、そのまま出口付近まで走る兵士たちの後をつけ、千景は、光の中に出る前に足を止めた。