正夢 「我愛す、故に我あり」
この作品はフィクションであり、実在の人物・事件・団体・出来事等とは、一切、関係ございません。
※この作品は一部の読者から読んで不快であるとの指摘が存在しています。
「お久しぶりです。このメンバーで会うのは、久々ですね。」
中学時代の同級生の顔を見回しながら、私は、言いました。
「というか、この組み合わせ、あったっけ?」
朱雀東高校に行った、中学時代の友人が言いました。
今日は、センター試験の日。私たちは、試験会場の廊下の丸いテーブルで、同じ中学の出身者同士、会話をしているのです。
どちらかというと、男子が多く、中には、中学時代に、一緒に反全教組の暴力闘争をしていた仲間も、いました。しかし、中には中学時代にあまり話したことがなかった人もいたため、前述の元同級生の発言となったのです。
懐かしい仲間と話とすることにより、久々に心が晴れてきたところで、私は、一人の女性に声を掛けました。
「小林さん、お久しぶりです。10年ぶりぐらい、でしょうか?」
小林奈々さんは、小学校、中学校、高校と同じ学校でしたが、中学・高校とでは、ほとんど接点がありませんでした。
「10年ぶりかぁ?」
「だって、全然、会話をしていないじゃないですか。」
「そうやったっけ?」
「井村さんと比べてみてくださいよ。」
同じ中学出身の女子でも、井村さんとはたまに話をしていましたが、小林さんとは、全くです。
「まあ、奈々と話ができなくてもええやん。深山君は、愛未ちゃんしか、愛せへんもんな。」
井村さん、それ、全く、関係ない話です。というか・・・・。
「すみません、私は瑞野さんに、この前『大嫌い』と言われてから、いまだに立ち直れていないんです。やめてくれませんか?」
「それ、どういうこと?」
事情を知らない小林さんが、聞いてきました。
瑞野愛未――――私を振った女性。そして、私がいまだに、唯一愛している女性。
どうして、嫌われたのか?そもそも、いつ、嫌われたのでしょうか?
「正夢、なんです。」
少し、意味不明な発言を、してしまいました。
「そもそも、瑞野さんって、誰?」
「瑞野愛未さんは、釣本の元カノです。」
「ほら、一心都の彼女やった子やんか!奈々も会ったことあるはず!」
私と井村さんが、ほぼ同時に言うと、小林さんは、全く頓珍漢な反応をしました。
「ああ、あのお人形さん?」
「は?誰か、別の人と間違えていませんか?」
思わず、私は聞き返してしまいました。
「だって、あの可愛い子やろ?」
好きなこのことは、誰でも可愛くは見えますが・・・・ほかにも可愛い子はいます。
「私は別に顔で選んだわけではありません。」
「いや、そうはいってないやん。」
「そういう意味じゃなくて・・・・貴女、瑞野さんが誰か、勘違いしていませんか?」
「だって、ほら、あそこに・・・嫌われたんなら、今行かな!あの子、一人やで?」
「誰が?」
「瑞野さんやん!」
小林さんが指さしたところ、そこにいるのは、全然別の女性なんだけど・・・・。
「奈々、あれは、一心都じゃなくて、彬良の元カノやで?」
井村さんが、的確な突込みをしてくれました。私や瑞野さんと同じクラスで、確かに人形のようにかわいい、だけど、私の好みではない女性が、そこには、いました。
「ええぇ?じゃあ、誰?」
「奈々もあったことあるはず!」
「ええと・・・あ、体育で一緒やったあの子か!あの子の体が・・・・・いや、深山君の前では言わないでおこう。」
「奈々が言ったら、とんでもない意味に聞こえるんやけど、どういうこと?」
なんか、女子二人が、私の最愛の人について、とんでもないことを言いそうな予感ですね。
「あのう・・・一体、どういうことですか?」
一応、知らないほうがいいことなら何度聞いても言わないでしょうから、とりあえず、聞いておきます。
「いや、体育で、あの子の体が柔らかかった、ということ。」
どうでもいいですね。事実かどうかはわからないけれど、確認するつもりはなないですね。
瑞野さんは、華奢な体つきだというイメージがありますが、女性の体を観察するような趣味はありませんしね。
「で、あの子が、本当に一心都の元カノやったん?」
「そうですよ?釣本君と瑞野さんは、肉体関係もありましたし。」
ちょっと、失言をしてしまったようです。目の前の女性二人が、引いていました。
「深山君、ほんまに愛未のことが好きなんやったら、そういうこといったらあかんで。」
井村さんにそう言われて、慌てて自分の失言に気が付きました。ちょっと、口が滑ってしまいました。
「そういう、なんでも調べてますよ、というのが・・・・。」
小林さんが言ったこのセリフは、誤解を招きます。
「違うんです!口が滑っただけ!瑞野さんと釣本君の両方が自分から言ってきたからで、私が調べたわけではありません!」
好きな女が傷物かどうかを調べる趣味なんか、私にはありません。女性に「貴女は傷物ですか?」と聞く男は、おそらく、ほとんどいないでしょう。
「いや、それでも、好きな子のそういうことはいったらあかんわ・・・・。」
井村さん、すみません、私の失言をそれ以上責めないでください。
「とりあえず、私は、瑞野さんに嫌われてしまって・・・・。それで、もう、瑞野さんのことを、愛未ちゃん、と呼ぶのは、やめたんですよ。」
「ああ、それが――――。」
小林さんは、初めのほうの会話を、思い出したようです。
「はい、正夢、なんです。」
去年の、とある日の夜。
私は、夢の中にいた。しかし、それが夢であるとは、気が付かなかった。
私は、喫茶店のような内装の、大きな部屋にいた。柚木高校三年生の仲間たちが、たくさんいた。
どうも、同級生同士での打ち上げの会場のようである。
私の目の前には、六人掛けのテーブル席があった。四角いテーブルに、前が三人、後ろが三人、の席である。
私からテーブルに向かって左側には、観賞用の木があった。屋内観賞用の植木鉢に植えてある木である。
向かって右側は、通路。近くに、壁や仕切りのようなものはなかったが、一応、その席には、右側から座るようである。つまり、左側が奥の席、ということになる。
そのテーブルの近くに、釣本がやってきた。釣本と私は、一年生の頃のクラスメイトである。私は、懐かしくなって、席に座ろうとしている釣本に声をかけようとした。
ところが、釣本は私から見て向かい側の、一番奥の席に座り、そして、その前、私に近いほうの一番奥の席に、瑞野愛未さんが座ったのである。
一年生の頃に、若干は抱いていたであろう、友情というものなどは、一瞬で吹き飛んだ。私自身は気が付かなかったが、この時、私からは、友情だけではなく、理性というものも、一緒に吹き飛んだようである。
私は、直ちに、瑞野さんの隣の席に、座ろうとした。
しかし、だ。間に合わなかった。
「愛未~?」
そう、瑞野さんの下の名前を呼びながら、菊井さんが、瑞野さんの隣の席に、座ってしまった。菊井さんは、私や瑞野さんのクラスの学級副委員長で、瑞野さんと仲が良い。
「どうしてですか!」
気が付いたら、私は叫んでいた。理性が動く前に、行動していたのだ。
「愛未ちゃん!!どうして、私と一緒に食事してくれないんですか!」
三人が座っている、六人掛けのテーブルに、私はすがりついていた。
「私は疲れとんや。」
瑞野さんは、そう、冷たく言い放った。
夢とは、人間の心が作り出すものですが、この世界も同じようなものです。
仏教の言葉に、「三界唯心」(物質界も霊界も、すべては心の影である)という言葉がありますが、この世界も、人間の心が作り出した夢のようなものに、過ぎません。
ただ、個人の夢と違うことは、自分の心だけでなく、70億人を超える全人類、いや、人間以外の動植物を含めた、全ての生き物の心が反映されている、ということ。
個人の夢でも、思い通りにならないことはありますが、この70億人の全人類の共同作品である「現実」という名の夢は、さらに、思い通りにならない点が、山ほどあります。
しかし、ひとつだけ、確かに言えることが、あります。
それは、自分の心を直さない限り、悪夢は現実となり、過去の失敗も繰り返す、ということ。
――「歴史は繰り返す。二度目は悲劇として、三度目は喜劇として。」(クルチュウス・ルーフス)
私は、それを、実際に、経験したのですから・・・・。
「正夢、ってことは、その夢が現実になったわけ?」
そう、小林さんは聞いてきました。
「そうなんですよ。」
と、私は答えた後、井村さんのほうを向きました。
「だから、私は、瑞野さんのことを、もう、愛未ちゃん、と言っていないわけです。」
「それは前も聞いた。」
「で、何があったの?」
そう聞く小林さんに、井村さんは言いました。
「私は、それを、何回も聞いとんやけどなぁ~。」
瑞野さんは、私が何度食事に誘っても、来てくれません。
しかし、他の男子に食事に誘われると、簡単にいく、そういう人なのです。
表向きは、瑞野さんは、私のことを「友達」で「仲良し」と呼んでいますが、それが、本当に「表」だけであることは、明らかでしょう。
確かに、瑞野さんのことを「愛未ちゃん」と呼んでいる男子は、このクラスの中では、私だけですし、瑞野さんのお母さんと会ったことのある男子も、少ないでしょうから、私が嫉妬したりするのは筋違いであることは、わかっています。
瑞野さんは、自分の住所も私に教えてくれましたし、そこまで仲良くしてもらっているのに、嫉妬する、というのは、ありえないでしょう。
そして、私が、もしも嫉妬したりすれば、あの、悪夢は、正夢に、なるでしょう。
しかし、やはり、あれは、正夢に、なってしまったのです。
一年生の頃から、高校生活の三年間、私は、上野君と同じクラスでした。
仲良し、というか、友達の一人でしょう。携帯を持っておらず、クラスのLINEのグループに一人だけ入っていない私のことを、気にかけていて、なんども私にLINEを始めるよう、進めていたのが、上野でした。
彼に助けれられたことも、幾たびか、存在します。
ただ、上野は、度々、私をからかって、むしろ、敵視しているかのような、言動を行うのです。
その日、上野君と菊井さんは、瑞野さんと三人で食事に行っていました。
私は、そのことを、菊井さんから聞きました。そのときは、何とか、感情を抑えようとしました。
しかし、上野君と、クラスメイトの吉村君が私の席の前に来て、話した内容は、私から理性と友情を吹き飛ばすのに、十分でした。
最初は、瑞野さんと無関係な話――――将来の話――――をしていたのですが、そこで、上野君が告げたのは、私から理性を吹き飛ばすのに、十分な言葉でした。
「俺には、もう、子供がいるからな。」
すると、すかさず、吉村君が言った、次の一言で、私は、暴発しました。
「瑞野さんのおなかの中にな。」
友情は、一瞬で消えていました。
私は、菊井さんの腕を、すがりつくように、つかんでいました。
菊井さんや、その彼氏の幸村君に、訴えられても文句は言えない行為ですが、その時の私にそこまで考える脳みそがあったのか、はなはだ疑問です。
そして、菊井さんと一緒に教室を出ようとした瑞野さんに、土下座して、
「お願いですから、私を仲間外れにしないでください!愛未ちゃん、お願いです!」
などと、叫んでいました。
そして、返ってきたのは、夢の中と同じ、冷たい声でした。
「そういう嫉妬、大っ嫌い!」
それ以来、瑞野さんとは、一切、会話をしていません。
こうなることが分かっていたから、私は瑞野さんに告白したくはなかったのです。
告白しないほうが、仲良くしてくれる、とわかっていたから。
瑞野さんは、これまで、私に対してストレートに嫌悪感を示すことは、ありませんでした。
去年の秋に、告白してきた私を振る際も、振った理由は「友達だから」で、実際、私のことを友達として扱っていました。
私が告白してきた後も、表向きは、仲良くしてくれていました。
しかし、私は、瑞野さんを友達だと思ったことは、一度もありませんでした。
そして、瑞野さんも同じだったことが、わかりました。
お互いが、お互いを、友達であると主張していた、それだけのことでした。
しかし、それでも、私は、瑞野さんのことが、大好きです。
どうして、瑞野さんが好きなのか?
返答に、悩みます。
以前、「元カレに似ているから。瑞野さんのほうが好きだけど。」と答えたことがありますが、客観的に見て、元カレと瑞野さんとでは、顔も、性格も、年齢も、全く、違います。
似ているのは、私による、愛し方でしょう。
純粋な愛情、強烈な純愛――――全く汚れていない、純愛をしていたこと、それだけです。
この純愛は、私のアイデンティティーの一つ、瑞野さんを愛しているから私なのであり、瑞野さんが好きでなければ、私ではないのです。
そして、純愛ほど、厄介な愛情は、ないでしょう。
有名な哲学者のデカルトは、「我思う、故に我あり」と、言いました。
私の場合は――
「我愛す、故に我あり」
――と、いうことになるのでしょうか?
この汚い世界を嫌う、正常な感性を持った人間は、私だけではないでしょう。
多くの正常な男子は、自分の汚い欲望に強烈な嫌悪感を抱いた経験が、あったはずです。
そして、そうした人の多くは、誰かを本気で、純粋に愛すれば、自己の汚い感情が綺麗に消滅する、という経験をしたはずです。
その愛情が純粋であればあるほど、汚い欲望はそれに比例して、無くなっていきます。
汚いものが嫌いならば、純愛をするのが、もっとも、手っ取り早い解決策でしょう。
しかし、純粋に愛することができる相手は、そういません。
汚い欲愛には、代わりが聞くでしょうが、純愛に代替物は、ありません。
したがって、純愛は、執着の愛になることと、紙一重なのです。
一時の快楽を求める汚い欲望よりも、一切の代替を認めず、一人に執着する純愛のほうが、はるかに厄介なのです。
それは、本当でしょうか?
デカルトは、「我思う、故に我あり」といいました。
しかし、これは、大きな間違いでしょう。
「我思う」という「現実」は、「我思う」という行為の主体である「我」の存在を立証するものでは、ありません。
ただ、「我思う」という「現象」を、「我」と名乗る「心」が認識しているだけ、なのです。
ところが、この「心」は、人間誰でも無意識の行動をしていることでもわかるように、自分自身のことも把握できないほど、不完全なものです。そもそも、もしも人間の心が完全であれば、すべての人が、自分の見ている夢を、自らの願望通りに操ることができるはずです。
ならば、そのように不完全な心が「我思う」という「現象」を認識していたとして、その「現象」が本当に存在するのか?となると、それは、わかりません。
この世界は、70億人の全人類、いや、全生物が共有する、一つの「現実」という名の「夢」なのです。
一人、一人、把握している「現実」は異なる、と、多くの哲学者や心理学者は言います。
それならば、本当に、その「現実」は存在するのですか?
私たちの「心」は、存在するのですか?
そして、不完全な「現実」という名の「現象」を不完全に把握しているだけの、「心」というものが、「我」なのですか?
いいえ、違います。
これは、本当でしょうか?
「我愛す、故に我あり。」
そもそも、その「我愛す」の主体である「我」とは、「本当の自分」ですか?「我」の実相(本当の姿)なのですか?
いいえ。
本当の、完全なる存在、それは、無限の知恵・愛・生命・喜び・供給・調和の本源たる、唯一絶対なる神のみ。
私は、そう、信じます。
「本当の自分」(=「真我」)は、そのような、執着の愛など、しないでしょう。
仏教の言葉に、「四無量心」という言葉があります。
「慈悲喜捨」の、四つの愛。最後の、「捨てる愛」で、本当の愛情は、完成します。
「執着の愛」など、四無量心から外れた、邪道の愛情です。
しかし、純愛には、執着がつきもの。
そんな、厄介な純愛などということをする、不完全な「私」は、本当に存在するのですか?
「私は、瑞野さん以外の人を、愛することができないのです。」
私は、瑞野さんで、人を愛するのは、最後にしたい。
もう、誰のことも、好きになりたくは、ないのです。
人に、執着することは、大きな罪、ですから。
繰り返しますが、この作品はフィクションです。
念押ししておきますね!!