正気と狂気の間でチートな製作物
甲高い鳴き声はあれから何度か響き渡り、再び静かになった。
その後、霧の中何かを咀嚼する音だけが聞こえるのみで何も見えなかった。
耳につく咀嚼の音が見えないだけに、恐ろしさも倍増したのか、ちまはまたルゥの膝に乗っていた。
他の事を考えて必死に現実の音から気を紛らわせようとフル回転で思考し続ける。
考えるのが苦手なのに、今はそうしていないと落ち着かない。
無意識のうちにちまの中でルゥの膝の上と腕の中は絶対安全地帯と頭にインプットされたようだ。
別の意味で危険なのだが、本人は気付いていない。
夕飯を食べるのにタクが先程片付けたちゃぶ台を出して食べている間もちまは思い付きもしないのか、ルゥの膝からおりようともしなかった。
どこかおかしな気はしたが、タクにはそれが何か判らず、満足し嬉しそうなルゥを面白そうに眺めていた。
初めて、甘えられていると感じて、ルゥは嬉しかったのだ。
食後、ちまはルゥに付与した物を出してもらってルゥ限定に付与を上書きする。
個人認定する為には指紋認証、角膜認証、DNA認証と考えられたが、確実な所でDNA認証にする事にした。
知識と知っているだけでどんな機械を使用してどのようにして確認するのかまで知らないが、こんな風にと思い描くだけでそれが形として成っていく。
登録の為に少々ルゥから血をもらわねばならなかったけれど。
そしてそれらを入れたルゥの拡張鞄にもそれを施すか悩んだ。
「ねぇ、ルゥ、拡張鞄って一般的にはどれくらい流通している物なの?」
今は夕べまでの寝る時のように足の間に入って腕で囲われた状態でちまはルゥの拡張鞄を見せてもらう。
袋の中を覗いて見ると……。
ミニチュアの物が袋と言う部屋の中に綺麗に立ち並んでいるのが見えた。
この中から必要な物を掴むようだ。
「一般的に流通しているのは棺桶一つ分と言ったところだな……。それが金貨3枚程だ。今の技術では馬車一台分までしか軽量化出来ていない。しかしそれも上流階級のみにしか出回っておらず、白金貨5枚は下らないだろう。それ以上になると多かれ少なかれ重量が発生し携帯出来ないのが現状だ」
言われてみれば、ルゥの拡張鞄は軽量どころか、重みがほとんどない。って事は最先端技術の品なんだよねぇ。さすが王太子さまだっただけの事はあるね。
どうしようかなぁ。
一般化されてない品だった為にまた悩む。
付与した品を誰かに見られて看破されるのも困るんだよねぇ。
着てる物に関しては付与が確認出来ないようにしてみたけど。全部に掛けるべきかな?
付与した物と貴重品を入れる拡張装備品を別に作ってしまおうか……。
「どうした?」
「ん~……この拡張鞄だと盗まれる可能性もあるよね?」
「そうだな。誰にでも使える物だ」
「うん。一応それにもルゥしか使えないようにはした方がいいのかな?」
「そうだな……盗難防止があると助かるかな」
少し考えながら、中に大事な物が入っていた事に気付いた。
「そっか。実は装備で拡張鞄になるようなの作ろうと思うのね。その為に、普段は一般的になのを使用してもらう方が目立たなくて良いかなって思ったの。でもそれすでに一般的な物じゃなかったんだよね」
「そうだな。だが見た目では容量は判断出来ないはずだ。形もこのように口が大きく開くようなのが一般的だしな」
ルゥの説明に頷いてまた思考に浸る。
ダミーに使えるって事だよね。
そうなると、下手に触れない方が良いよね。
あぁ……でも盗難防止にはしておいた方が良いかな……高価な物だと気付かれたらルゥの正体も怪しまれるよね……。
ルゥ以外紐を解けないほうにしておくか……。
中を見られたら一目瞭然で大きさが違うってわかるもんねぇ。
盗難防止ってどんな効果が良いのかな……。
失くしても戻ってくるとか?
体からどのくらいの距離離れたら戻ってくるとかそんな感じなのかな。
ダミーだからあんまいじり過ぎるのもな……。
ルゥの体の一部って事で発信器みたいに判るようにする?
探しに行くの面倒な気がしてきた……。
やっぱり、ルゥの体からある程度の距離離れたら戻すようにするか。
その方が探しに行く手間も省けて良いかも。
うん。そうしよう。
手の中にあった巾着袋に付与を施していく。
それを返しつつ、首を傾げて見上げる。
「それで、装備の拡張鞄はどんな装飾品がいい?」
「それは……」
ルゥは困ったように考え込む。
「指輪じゃダメなのか? 一番簡単そうだけど」
タクが問えばちまも頷いてルゥを見上げる。
「それは指を切られたら持って行かれるだろう」
平然と返されて二人はぎょっとする。
「っ!?」
「切られる!?」
「そんな物を持っていると知られれば奪って行こうとするだろう? 鞄ならそれを盗むだけだが、常に身に着けている装備品となると切り落とす方が簡単だからな」
「奪われる事前提!?」
あまりの反応にタクの突っ込みも早い。
その間にちまの頭では忙しく計算されていた。
指輪やピアスやイヤリングは使える石が少ないから却下された。
後からも追加出来るような物を想定していきたい。
ペンダントはすでに今一個しているからそれもやめておこう。
他には腕輪くらいしか思い付かない。
アンクレットでは使用に不便を感じそうだった。
他の者には見えないように不可視の付与を掛けておけば誰かに見咎められる事はないだろう。
ちまの中で指を切られるなどあってはならない事だった。
頭から足の先まで保護するような付与も絶対付ける。物理攻撃や魔法攻撃の防御。異常効果・特殊異常効果の無効。
あとは、あとは……。
半分泣きになりながら考える。
「落ち着け、ちま」
視界が塞がれて、思考が止まる。
手で両目を塞がれたらしい。
その事実に気付いて、大きく息を吐くとルゥの体に背中を預けた。
でも、と思考が再び交錯していく。
さっきの効果全部付ける。一番高いレベルで!
でないと、怖い……。
ルゥを失いそうで怖くてしょうがない……。
やっぱり王族だった。
身の危険をいつだって考えるような立場にいたんだ……。
でっかい気持ち悪い虫見た時より、あんな虫よりもずっと怖い……。
自分の事でもないのに、体が震えだす。
他に、他には、何をしたら……。
切られるってどう言う事なのっ!?
何で、そんな事になっちゃうの!?
見えるからいけないの?
見えなきゃ大丈夫?
パンッ!
いきなり頭の上で大きな音が聞こえ、頭の中が空白になる。
「ちま、俺を見ろ」
きょとんとしてると頭を引っ張られて、前を向いたまま上を向かされる。
逆さに見える某総司令官が無表情に見下ろしていた。
ちまの目に揺らぎがないのを確認するとそっと息を吐くと些細な反応も見逃さない為に、正面から向き合う。
「何に怯えていた?」
問われてルゥの腕に視線が落ちた。
その腕が上がって、ちまの顎に触れて持ち上げる。
「……私……」
渇いた唇を湿らせる。
「私は……覚悟が全然足りなかった……」
大切な人達を守る為なら、自分の異質な力全て使っても守るって言ったのに……。
「守るって口で言っても足りなかった……いつだって傍にいて皆を守れるとは限らなかったのに。ルゥが傷付くのは見たくない。タクさんも。はるも。ヒールで治せるだろうって言われるかもしれないけど。そんなんじゃないの。それじゃダメなの」
怪我をする事が耐えられない。
出血多量でも人は呆気なく死んでしまうのに。
「絶対ダメなの。ちゃんと皆を元気な姿で元の世界に戻さないといけないの」
一人も欠けちゃいけないんだよ! 絶対に! 戻る時は、来た時と全く同じ状態でないとダメなんだから!
「ちま……」
「嫌なのっ! 絶対誰も欠けさせないの!」
落ち着いたように思えたちまが実は全然平常ではなかった気配にタクが心配そうに名前を呼んでも、受け付けもしない態度で声を上げる。
何となく、ルゥには情緒不安定になっている原因が見えてくる。
今のこの発端は虫による感情の起伏が呼び起されたのかもしれないが、恐らく、この世界に来てからずっと巣食っていたモノのはずだ。
引き寄せて背中を撫でる。
眉をぎゅっと寄せて考え込むタクに視線を上げた。
「前からこんな責任感が強かったのか?」
「まぁ……責任感はあったなぁ……でも……」
「おかしいとは思ってはいたんだ。召喚されてこんな見知らぬ世界で深い森の中に落とされて、呪いに掛けられた俺に会って……来た早々熊に襲われて。何でこんなに平常心なのかと。混乱して半狂乱になってもおかしくない状況だった。ちまにそんな様子全然なかった。熊に襲われた後、震えていたが、それだけだった」
平和な世界で暮らしていて、いきなりそんな体験したら、普通発狂するだろう。
泣き叫んで当たり前なのに。
ルゥ自身そんな状態に陥ったら平常心でいられる自信はない。
現に呪いを掛けられてからは、人としての意識はどんどんなくなっていた。
獣の生肉を、内臓を食べて、平然としていられる自分に恐れ、人としての自覚が消えていった。
夜、寒いからと、自分が忘れていた充足の眠りを欲したからと、ちまを抱き寄せて寝る理由を付けていたけれど。
揺れる心を支えたい気持ちもあった。
少しでも不安をなくしてやりたかった。
獣に意識を落としていくしかなかった自分と重なる。
無理やりにでも泣かせてやればよかった。
あの熊と対峙した時が絶好の機会だったかもしれないのに。
震えていたのに笑顔を浮かべる違和感をあの時確かに感じていたのに。
守られていろなんてこっちが泣きそうになっていた。
タクも流石に気付いた。
ちまから連絡がくるまで、異世界に来てしまったと気付いた後からは基本情報欄に触れる事さえ思い付かなかったと陽斗がぼそっと言っていた。
だからPT欄にも気付かなかったと。
あの、沈着冷静を地で行く彼がそう言った。
ちまが絡んだ瞬間、揺れるものの、すぐに感情を抑えて冷静さを取り戻した陽斗。
自分は、いきなりミノタウロスに追いかけられて、何も考えてる暇もなく、ちまと合流出来たから、不安はあっても孤独を感じる暇もなかった。
のうのうと寝ているうちに陽斗と連絡を付けてくれており、ゲームの中の続きとさえ勘違いしそうな程、いつもの身内と共にいる事に何の不安も感じないでいられた。
気付かないうちにまた、ちまに甘えて、救われていた。
何故だか、ちまがいれば大丈夫と思えるのだ。
ちまが笑っていてくれるなら、自分はいつもの自分でいられると。
そう勝手に思い込んでいた。
孤独を抱えたちまが、身内を見つけた時、どれだけ、彼等の存在に歓喜したのか。
もしかしたら本人もそれ程の自覚はなかったかもしれないが。
手放すなんて二度と考える事も許せない程に。
皆と無事に帰る事がここでの心のバランスを取っているなら。
今だって泣きそうなくせに泣いていないのだ。
いつものちまだったら。
二人きりならまだしも、俺がいるのに男の膝に大人しく乗って抱かれてるとか有り得ないだろ……。
つまり、絶対に、通常ではない状態だって事なのに。
「ごめんな」
虫なんて無理に見させる必要なんかなかったんじゃないか。
そんな思いが噴出してくる。
必要な事だった、間違った事は言ってない。
でも、こんな追い詰めて良いはずがない。
ちまが笑っていたから、騙されてしまった。
いつもだったら、俺だって気付いたよな。たぶん……きっと。
もう少し、まともだったよな……俺も……。
自分にも余裕がなかったと言ってしまえばそれまでだが。
ちまの異常に気付けなかった二人は己を責めた。
同じように異世界に落とされたタクも、獣に堕とされていたルゥも平常では有り得ない状況だった。
誰が悪いのかと敢えて名をあげるなら、ちまとタクに関しては召喚した術者であり、ルゥを獣にした者が根源だろう。
自分達を責めていてもしょうがないとすぐに気を引き締める。
今はちまを安心させて、元に戻してやるのが先決だった。
「どうしたい?」
ルゥの腕の中にいるちまの顔を見ようと身を乗り出すタク。
「どうしたら、お前のその願いを叶えられる? お前が望むならいくらでもどんな物でも身に着ける。お前の気持ちが落ち着くまで何でもやる」
背中を擦ってここに、傍にいる事を感じさせる。
「ブレスレット、着けてくれる?」
「あぁ」
「勿論だ」
頷いたが、ルゥはブレスレットが何の装飾品か理解していなかった。
「じゃぁ、作る」
ちまは何の表情も浮かべずにルゥの膝の上でアイテム欄から必要な物を膝に出していく。
「どんな効果をつけていくんだ?」
表情の消えた顔を崩したくてタクは必死に問い掛ける。
「最低でも物理攻撃・魔法攻撃防御、異常・特殊異常効果の無効化。倉庫。音信ツール。持ち主限定。不可視効果」
指を切られて指輪を持って行かれるって言ったからか……。
ルゥとタクは視線を合わせて小さく頷いた。
会ったばかりでも、ちまにとって自分が仲間と同じくらい大事に思われている事を知って、ルゥは胸が熱くなる。
やばすぎるチートな装備が出来そうだな……タクは、陽斗へそっと囁きを使って今の状況を伝える。
こんな時に傍に居られない陽斗の気持ちを考えたら怯むが、後で何故教えなかったと言われては、反論のしようがない。
以前趣味で作った蔦をあしらった透かし彫りのシルバーブレスレットをプラチナ製に変えて透かし彫りの間に石をゆっくり嵌めていく。
これなら後から機能を追加したくなったら石を嵌めていけばいい。
幅5センチもあるので石を入れ放題でもある。
1つずつの石に自分が今込められる付与を掛けていく。
1つの石に複数掛ける事もちまならば可能だったが、耐久性と性能を考えて複数の石を使用する事にした。
同時に自分の分も一緒に作る。
自分の物を装着してから、もう一つの物を複製で増やす。
それを更に二つ複製するとそれら三つを手にして複製不可の効果を追加した。
流石にこんな物が容易に世界に流出して良いとは思っていなかった。
「タク」
「出来たのか?」
「これはサブマス用。脱着は私かサブマスにしか出来ないようにしてある」
「了解だ」
何の躊躇もなく左手首に付けると、ちまの頭を撫でる。
「ありがとな」
泣きそうなタクの目を見て、ちまはやっと笑みのようなものを浮かべた。
膝に置いたブレスレットを手にして、同じようにもう一つ複製する。
これにも複製不可を掛けて、ぎゅっと両手で包み込んで抱きしめて何か呟いた。
「ルゥ」
「あぁ」
少し首を傾げて、不安そうに見てくる。
「左で良いのか?」
何かを言われる前に左腕をちまの前に差し出す。
「ルゥ、これ自分じゃ外せなくなるけど、良い?」
「問題ない」
泣きそうに顔を歪ませながら口だけ笑ってちまは小さく礼を言った。
「それは俺の言葉じゃないか? 俺が貰うのだから」
「ルゥのはちょっと特別製だよ。不可視効果と防御効果と異常系は一番強くしたの。ルゥはきっと私が付与したような服以外の物も沢山着るだろうから。あと、これから造る家の鍵にもなってる。そのうち、出来たら招待するから楽しみにしててね」
こつんと額を合わせると、やっと泣きそうな顔が消えた。
「ありがとう。大切にする」
わざと音を立てて頬に口付けてぎゅっと抱きしめると、耳まで赤くしながらしっかりと抱き返してくる。
やっと、いつものちまに戻りつつあるかなと、タクは穏やかな視線を二人に向け、左腕のブレスレットを頭上に掲げた。
「折角だから名前付けてやろうか」
眩しそうにブレスレットを見上げて、口角が上がる。
「ちまの守護環かな」
にやっとこちらもいつもの調子を取り戻したタクは満足そうに笑った。
「そのままだな」
「判り易いだろ?」
ちまの頭に顎を乗せてルゥは向かいのタクと笑い合う。
そっと膝のサブマスター用に作った二つをどうするかちまは考えた。
この世界で可能か不明だったが、配達機能を使って陽斗とまだこの世界に来ていないと思われるラスに送ってみる事にした。
後で陽斗と連絡を取って確認出来れば配達機能は使用可能と判る。
サブマスター機能を外したメンバー用の物を5個程作ってにゃあにゃんとセスにも配達機能で送り、他残りと複製用を作ったばかりの自分の左手首に嵌めた腕輪の倉庫機能の中へ入れる。
「昼寝をしたとは言え、そろそろ寝ておくか」
ルゥに促されて寝る支度にはいる。
頭から体や服の洗浄をしようとして、タクが濡れネズミになったのは愛嬌だろうか。
初めての試みだったので失敗も当然と大きく鼻から息を吹き出して胸を張った。
現代日本からの召喚者は皆一様にイメージを思い描くのが上手かった。
ある意味当然である。
テレビやパソコンや携帯や紙面からの著しい程の情報がいつでも視界に飛び込んできていたのだから。
よって、タクもすぐに濡れた髪も体も服も乾かせた。
ただ、一度に複数の事は苦手だったらしく、服の洗濯は微妙だったらしい。
これも慣れと思ってちまは自分とルゥをやると笑って見ていた。
笑うちまを見て男二人はほっとした。
三人しかいないのだから、誰か一人でも不調な者がいては不安になってしまう。
不安が広がっては、最悪、平常心を保てる者がいなくなる。
そうなれば、この森で死ぬまで彷徨う事になるだろう。
そこまで考えなくとも、二人にとって、ちまが笑顔でいる事はとても重要な事になっていた。
虎の革を敷いて、三人は歪な川の字で横になった。
一番小さいちまが一番奥に行ったからである。
真ん中に入ったルゥは、いつものように毛布で包み、抱え込んだ腕の中の温みの息が寝息に変わるのを確認して息を吐く。
この確認が出来ないと、安心出来なかった。
柔らかな髪に顔を埋める。
甘い香りに包まれるとそれだけで心が軽くなった。
何があっても、問題なく潜り抜けられると心が強くなれる。
自分にとってどれだけちまの存在が救いであるか。
ちまにとっても俺がそんな存在であれたら……。
今日だけで二度もチャンスがあったにも関わらず、ちまは泣かなかった。
気絶した時、一粒だけこぼしたが、あれは泣いたうちには入らないだろう。
一度でもいい、爆発させておかないと、後でもっと大変な事になるかもしれないと漠然と思う。
自分が傍にいる時なら、いくらでも抱きしめてやれるが、もし、いない時だとしたら。
それだけじゃない。
不安定な精神は壊れやすい。
他国から嫁いできた父である国王の側室が後宮で狂い、半ば監禁状態である実情を知っていた。
今頃、その彼女がどうなっているか知る術を持たない。
人の精神は脆い。
ちまが狂気に堕ちてしまったらと考えると、息苦しくなる。
お前は、俺の体の心配をしてこれを付けたが……俺は、お前に壊れない魔法を掛けたい……。
もし……壊れてしまっても……傍にいて欲しい……。
俺だけを見てくれるなら。
もし、もし……そうであってくれるなら……。
壊れてなんか欲しくないのに。
俺だけ見てくれるなら壊れても良いなんて……。
酷い恋人だ……。
でも……壊れてもいい……例え、俺を忘れてしまっても。
傍にいて……いや、違うな。
すでに俺が手放せない……。
手枷足枷を付けても。首輪を付けても。
放さないだろう。
もうどこかに閉じ込めてしまいたい。
自分がこんなに束縛が強いと思っていなかった。
女に不自由した事はなかった。
側妃候補も沢山いた。
一夜限りの相手も。
勝手に部屋に入ってくる女達に嫌気が差して、部屋に戻る事が少なくなっていった。
心許せる女性は本当に身内だけだった。
母と従姉だけはとても身近に感じられたが彼女達が家族だったから。
父王の側妃達の目線もその触れてくる手にさえ煩わしさを感じていた。
父王が引退すれば、自分達がどうなるか不安になったのか次代に手を出して来た側妃達の女の性に一気に引いた。
隣国に留学した時の学び舎でも告白された事は何度かあった。
しかし、そこで手を出す程、能天気でもなかったので、その頃からも後腐れのない未亡人か身元の確かな娼館に行く事が多かった。
下手に若い娘に手を出せば、親がこれ幸いとのこのこ出てきて王子妃にしようと画策するのは目に見えていた。
女学生には一線どころか高く分厚く丈夫な壁を作っていた。
無意識だったが女を感じさせる者を尽く排除していたのかもしれない。
ちまが、前髪や髭を切れと言ってきた時、一瞬だったがかなり引いた。
こんな小さな子供でさえ、女って生き物なのだと思い知らされた気がした。
それが、どうした事か、彼女から女の部分がほとんど垣間見えなかった。
本人が聞いたら失敬だと頬を膨らませそうだが……。
欲に染まった目を見たい気もするが、それが怖くもあった。
言わないでいるつもりだった。
どうせ、帰って行く。
離れて行くのが判っている者なんて愛してもしょうがない。
なのに、不安そうな泣きそうな顔を見ていたら。
言ってしまっていた。
女の性を出しまくった嫌な色気を感じさせない色気もあるなんて初めて知った。
食べたくなる程の可愛さなど初めて知った。
唇も舌も指先も甘くて仕方ない。
どれだけ吸っても飲み込んでも足りない程に。
包み込まれる甘い香りを自分だけのモノにしたくなった。
誰にも渡したくなかった。
自分だけの匂いを付けたくなった。
俺の匂いで包みたくなった。
女にそんな事思ったのは初めてだ……。
壊れても良い。
壊れたら閉じ込める理由が出来る。
甘い甘い誘惑。
けれど、知っている。
壊れてしまったら得られない柔らかな温かなモノ。
くるくると変わる表情と飛び出てくる言葉の数々が冷え切った心にじんわりと降り注ぎ、ゆっくりと温度を与えてくれる。
壊れないで。
俺の守り人……。
俺だけの……。
抱き寄せると、胸元に擦り寄ってきた。
そんな仕草だけで心が鳴る。
ずっと、ずっと一緒に居たくなる。
帰るまで、ずっと傍に。
酷な願いを言葉にしてしまいそうになる。
いつか……帰りたくないと言わせたい……。
帰らなくても良いかと、聞いて欲しい。
自分が言わないで、相手に言わせる事さえ夢想してしまう。
すでに、今でさえ手放す気なんてない。
きっと、まだ知られちゃいけない。
帰したくない気持ち。
知られたら、嫌われる。
離れて行ってしまうに違いないから。
お前がいなくなったら、俺は正気でいられるだろうか……。
お前が帰ったら、きっと壊れる……。
父のあの側室のように……。
でも、その方が幸せかもしれない。
お前が居ない事を判らなくなった方がきっと、良い。
腕の温もりの奇跡を神に感謝したい。
出逢わせてくれたなら、その奇跡にこの命が終わるまで添い遂げる約束が欲しい。
どんどん欲深になって行く想いに苦笑する。
お前が帰る時、一緒に行けたら……。




