気持ちが重なる時
目が覚めた時、周りの霞に思わず眉を顰める。
雨は降っていないが水分を多く含んだ空気が重たく沈んでいるようだった。
恐らく本日はあまり天気は良くなさそうだ。
「おはよう、ちま」
腕の中の少女の耳元にそっと囁く。
出会ってから数日、これくらいの声でも少女は目を覚ましていた。
寝起きは少々悪かったけれど。
小さくなった焚火の向こうのタクがまだ熟睡中なのを確認して頬に挨拶のキスをすると静かに立ち上がる。
「顔を洗ってくる」
「ん~……おはよぅ」
前後にふらふら揺れていたと思ったらルゥの纏っていたマントに突っ伏すした。
少しの間、そんなちまの頭を撫でながら考え、ルゥは焚火に枯れ枝を数本放ると抱き上げて川岸へ向かった。
下手をすると片腕でも抱き上げられる軽さに目を細めた。
「……ルゥ?」
「あぁ。今日は出来れば、早目にしっかり目覚めて欲しいかな」
川岸に下すとそっと頬を一撫でして、素早く顔を洗い身支度を整える。
バシャバシャと水音をすぐ近くで聞いてか、重そうな瞼が薄ら開く。
「……うぅ……」
「雨が降る前に食事をしてしまおうかと思う」
濡れた手先を弾いてちまの顔に水滴を飛ばす。
「う……起きるよぅ……起きますよぅ」
「良い子だ」
くすっと笑ってぽんと頭に手を置く。
目を擦る姿は外見通りの幼い少女の愛らしい仕草にしか見えない。
「ルゥってば、お父さんみたい……」
呟かれた言葉に一瞬眩暈を感じて体が傾げた。
ルゥが変装用のペンダントを装備しているから確かに傍から見れば、この二人は甘えん坊の娘と世話をする父親に見えるだろう。
実際もしタクが起きて、その様子を見ていたとしても、ルゥの本来の姿を知らないので、彼のいるかもしれない家族への愛情をちまに向けているのかなと思う程度でわざわざ二人の間に入って邪魔をしようとは思わないはずである。
今の二人の外見は親子以外想像が出来ない。
自分の姿を知らせない事が、安全に繋がると思って、ルゥはタクにはその姿を見せようとは思ってなかった。
しかし、ちまに言われるのは違った意味で何やら心にぐさっと突き刺さるものがある。
「父親役は光栄だが……恋人役の方がいい……」
後半は小さく呟かれて、まだ眠気で体を揺らしていたちまには聞き取れなかった。
親子だと思われているなら、過度な愛情表現も誰も何も言うまい。
そう思えば、それも良しと思えてくる。
ちま本人にも今の姿でならそれを押し通せば通る気さえする。
普段はまだしも、この寝起き状態の時に関しては、何をしても夢現で流されるだろう。
既成事実でも作って縛ってしまう事もルゥには簡単に出来る事で、同情させて、弱みに付け込んで絡み取る事など造作もなかった。
しかし、その後は確実に憎まれる。
傍にいてくれるなら憎まれても良いと思える程、自虐的ではないと、そんな甘い誘惑的な行為を頭から追い出す。
出来れば、同じ気持ちで向き合いたい。
頭に置いた手をそっと離す。
「タクを起こしてくる。ちまも準備してくれ」
「ふぁぁぃ」
大きな欠伸をして両腕をぐぐっと上の伸ばして返事をする。
目は覚めるのだが、頭が覚めるのに時間が掛かるちまだった。
焚火の火が大きくなっているのを確認してルゥはタクの肩を揺する。
「タク、疲れてるだろうが、起きてくれ」
ぐらぐら揺すられて、がばっと起き上がる。
「おっ、おぉ? おはよ」
こちらは目も頭も目覚めは良いみたいだった。
「川で顔洗って身支度を整えてくるといい。今日は天気が良くないようだから、降り出す前に食事を終わらせて出掛けたい」
「あぁ、そうだな。了解っ!」
タクは勢いよく立ち上がってちまのいる川岸へ向かった。
まだ霧はそれほどでもなく、焚火から川岸のちまの姿も見えていた。
「ちま、おっは~」
「はよぉ、タクさん。朝から元気だねぇ」
ぼへぇっとしながら髪を梳かしてちまは小さく欠伸を繰り返している。
「寝れなかったのか? 俺より早く寝たのに」
「あぁ……そうだ!」
はっと夕べの事を思い出して、ちまは一気に頭が冴えてきた。
「夕べ途中で目が覚めちゃって、ちょっとマップを広げていったんだ。そしたら! 何と、はるを見つけたんだよ!!」
ブラシを持ったまま両手を上げて、全身で喜びを表すちまの横で顔を洗おうと屈んだタクだったが、両手で掬った水がそのまま落ちて行く。
「まじか!?」
「マジだよ~。今首都のグロリアスにいるんだって。こっちに向かって来てくれるらしい。後でタクさん交えてこっちに来た時の話してくれる事になってるよ」
「おぅ。了解した。てかこんな早く連絡付くとは思ってなかったぞ。こうなると他の奴等とも思ったより早く連絡付きそうな予感してくるな!」
ほっとしたように大きな口で笑ってちまの背中をばしっと叩く。
「うぎゃっ」
前のめりにちまが倒れる。
「タクさんの馬鹿力め……」
「うぉっ、おまっ、大丈夫か!?」
「大丈夫じゃないしっ!」
「あぁ、わりぃ、わりぃ。今お前ってばロリっ娘だったんだよな。てか、それ程でもないか。高校生くらいには見えるしな。ロリっ娘って言えば小学生くらいだよなぁ」
一人うんうん頷いて顔を洗うと、折角梳かした髪をぐりぐりと両手で撫で回して、タクはさっさと焚火の方へ戻って行く。
「ちょっと、酷くない!? 梳かし直しじゃないのっ! ちょっと、タクさんっ! 朝ご飯はタクさんが用意してよねっ!」
絡んだ髪を必死に梳かし直す羽目になったちまは涙目でタクを睨む。
「おぅ。俺が持ってるやつの中から適当で良ければな」
細くコシのない猫っ毛なので絡むと解くのに手間が掛かるのだ。
面倒だから切ってしまおうかと思っていたらブラシを頭上から奪われた。
「余計に絡みそうに見えるんだが……」
見かねて戻ってきたルゥが後ろに座ると前を向くように言うとそっと梳かし始めた。
「ルゥって器用だよねぇ」
「そうか? ちまの方が器用だと思うが……自分の事には無頓着な所があるな」
盛大に絡まった部分を手にして、どうしてこんなに絡まったのか首を傾げながらルゥは引っ張らないように解していく。
「うぐぅ……そんな事ないと思うけど……」
「あのタクに渡したペンダントまだあれ一つだったんだろう? この服もまだ手を付けてないよな? 外套にしか、保温効果付けてないだろ?」
「昨日ペンダント作ろうと思ったんだよ。でも疲れちゃって寝ちゃったんだ……まぁ、マントあれば大丈夫。時間あれば今日作るしね」
「作る時間あるといいな」
「うん。ルゥ、ありがとう」
「ん?」
まだ絡んだ髪と格闘中だったルゥは何故礼を言われたのか分からなかった。
「私ね、ルゥに言わせたくない言葉があったんだ。ルゥも本当は言いたくなかったはずなのに……でも、夕べそれ言わせちゃった……私達はルゥの大事な守るべき家族でも国民でもないから、本当は言わせちゃいけなかったのに。ルゥは私達に何も責任を持つ必要なんてないのに」
ちまが言っている意味に気付いた。
元の世界に戻るまで責任を持って保護する。
ちまに言う前にタクにも言ったのだが、ちまに言った時とは少し意味が違っていた。
本当はずっと言いたかった。
けれど、自分の不確かな状態では何の約束も出来なかった。
タクの言葉が突き刺さった。
今ならはっきりと判る。
ちまは自分に対しての無条件の信頼を寄せていると。
どうして、出会って間もない自分にそこまでの信頼を向けてくれるのか解らなかったけれど。
ちまの無条件の信頼に、自分は何を返せるのだろうか。
あの時、タクに対してそれを示さなければならなかった。
それが出来なければ、彼はちまの傍に自分がいる事を許さないだろうと思えた。
信頼に返せるものは、この不確かな今の自分の立場を確実にして、身分さえしっかり確立させてしまえば、どんな事もしてあげられる。
責任を持てる立場になる事。
首都に戻るのは父王の本心を知りたかったから。
けれど、今はそれだけではダメだった。
国王にも王太子にもなるつもりなんてなかった。
王族としての務めは果たそう。
そう思っていただけだ。
けれど。
今は教会とも対立も辞さない立場にならなければ、彼女を守れない。
ちまにその言葉を告げた時は……。
国の頂点に立つ覚悟を決めたから。
言いたかった。
この世界での彼女の居場所になりたかった。
「俺は、ちまの家をつくりたい。この世界での帰れる家を。安心して眠れる家を……」
俺が、つくりたかったんだ。
そんな存在に俺自身が慣れたら、どんなに幸せだろう。
「あのね、ルゥ。私は早く仲間を探さないといけないけれどね……ルゥが家に帰れるまで一緒にいるよ? ルゥがね、一人じゃないって見届けてから、友達を探しに行く事にするよ。早く来ないって怒られるかもだけど、話したら絶対ちゃんと見届けてから来いって言ってくれるって知ってるからね」
いつの間にか手が止まっていた。
「だからね。野宿も続くし、寒いから。取り敢えずルゥの湯たんぽになってあげるよ」
夜は淋しい。
いろんな事を考えてしまうから。
折角返せる事が見つかったのに。
ちまからどんどん与えられる。
「これ、以上……何を返したらいいんだ……」
思わずこぼれてしまった。
「この世界の事、ルゥが教えてくれたんだよ? これからまだまだいっぱい教えて貰わないといけない事あるよね。きっと。私が返せるのはルゥが淋しくなくなるまで一緒にいる事くらいだもん。私の方が返せるもの少ないね?」
くすくす笑って振り返った。
「ありがとう」
梳かれた髪を見て言うとちまはにっこり笑う。
「今度から髪が絡まったらルゥに梳かしてもらおっとっ!」
機嫌よく立ち上がって、櫛を返してもらうと荷物をまとめて、焚火に戻ろうと手を引く。
「猫っ毛なのは元からだけど。何かすごく絡まりやすくなった気がするよ。元の世界の時より自分で手におえないって問題あるよねぇ。短くした方がいいのかなぁ……」
「毎朝梳かしてやろう。切るのは勿体ない……」
綺麗に梳かれた淡いピンクパールの髪を一房手にしてそっと口付けると、ルゥも機嫌良さそうに笑う。
そんな仕草も当人は前を見ていて気付いてもいない。
「それこそ魔法で絡みにくくするとか出来るといいのにな」
ぽつりと口にすると、ちまは立ち止まって振り返った。
「それ、思いつかなかったわ……不覚っ!!」
自分の髪を手にしてコシや太さの確認をする。
これって、艶出しすれば絡まないかもだよねぇ。
滑れば絡んでもするっと解けるしっ!
今晩の洗髪から気を付けてみるか。
うん。そうしようっ!
一人納得したところでルゥに手を引かれて焚火の前に座らされた事に気付いた。
何か、本当にルゥってば私の保護者になってるなぁ……。
自己嫌悪に陥りそうになる。
いい年して保護者が必要とかないわ……。
「おぅ。お帰り。今日の朝飯は俺の独断で。特製ビーフシチューとかりかりガーリックフランスパンだ!」
出来たての湯気が出ている深皿を二人に渡し、大判のハンカチの上に焼きたてのフランスパンを6本も並べた。
「さぁ、食おう。腹減りだぁ」
「美味しそう~」
出来立ての食事を前に、それまで考えていた事が飛んで行く。
美味しい物を美味しく頂く。
これ大事な基本っ!
「いただきまぁすっ!」
食べ始めて暫くして、タクは周囲を見渡して息を吐いた。
「しっかし、今日は霧が酷いな……下手すると足元さえ見えなくなりそうだな」
「あぁ……雨宿り出来そうな所を見つけたら今日はそこで様子を見た方がいいかもしれないな」
「そうだね。怪我したら大変。食後のお茶は……ルゥはコーヒーで。タクさんは何にする?」
食べ終わったルゥにコーヒーを渡しながら、まだフランスパンを齧っているタクを見る。
「おぅ。やっぱ食後のお茶と言えば緑茶だなっ!」
「はいはい」
手渡した後、自分のミルクティを出す。
そしてふとルゥの視線の行方を見て、もう一つ緑茶を取り出した。
「はい。飲んでみたかったよね? ごめんね。気付かなくて。熱いから気を付けて」
「あ、いや、うん。ありがとう」
興味津々に湯呑に口を付けるのをちまとタクは二人してじっと見つめてしまう。
ちまにとっても、タクにとっても、緑茶は米、味噌、醤油に次いでソウルフードの一つと言っても過言ではない。
「コーヒーとはまた違った、良い香りがするな……」
一口飲んで深く息を吐いた。
「これは、食後に飲みたくなる気持ちがわかるな。何だかほっとする」
「気に入った?」
「あぁ。後味がさっぱりしてていいな」
「緑茶ってね、紅茶と同じ葉っぱなんだよ」
「そうなのか?」
「うん。発酵させたのが紅茶。発酵させてないのが緑茶」
「……そうか……」
再びじっくり味わってしっかりと頷いた。
「さて。食器洗ってくるよ」
ちまは川岸へ更に濃くなった霧の中両手で食器を集めて持って行く。
さらっと洗って、歯磨き水でうがいをして身支度を整える。
振り返ると、焚火の火が微かに見える。
ぽつっと顔に水滴が当たった。
降り出してきてしまった。
小走りに戻るとルゥが焚火の火を消してた。
「あぁ、しまった。タクさんマント貸して!」
タクから無理やりマントを奪うとここにきてからの基本効果の付与を掛ける。
防水防塵防菌防臭効果である。ついでに形状記憶と物理的攻撃防御も追加しておいた。
「はい。これで濡れないはず」
「おぅ。サンキューな」
また頭に手を伸ばしてきたので、ちまはそそくさとルゥの背後に逃げる。
「頭撫でなくていいからねっ!?」
元の世界では一つしか違わないのに、何でそうまで子供扱いをするのかな。やっぱ、見た目!?
ルゥは苦笑して不服そうに唇を尖らせるちまの頭にぱさりとフードを被せる。
そんな仕草が子供だと言うのに。本人は全く気付いていない。
「ちま。俺の外套を掴んでおけ。この霧じゃ逸れるかもしれない」
「あぁ。それな……ルゥ、交代でちまを抱っこして進まないか?」
ふとタクが周りを見渡してからちまを見下ろす。
「な、何で?」
「いあ、普通にな、俺等の歩幅でさえ霧を抜けれるとも思えないし。どこに雨宿り出来るとこがあるかもわからんけどさ。お前はちょっと高い目線で周りを見ててくれないかなと。洞穴でも見つけてくれるといいなぁと思うんだよ」
お前の歩幅に合わせてたら夜になっても野宿出来そうな場所に辿り着けそうにないからとはさすがにはっきりと言えず、ちょっと遠まわしに匂わせてみたタクだった。
「そうだな……では、疲れたら交代してくれ。まずは先導を頼む」
「おう。マップあるから森を抜ける最短距離で行けるぜ」
ルゥが抱き上げようと視線を向けると、ちまはぎょっとしたように一歩引いた。
「えっ!? もう本決まり!?」
「この霧だ。諦めろ」
あっさりとタクは大剣をアイテム欄にしまって槍を取り出した。
霧が濃い事もあり、先導の為の草払いには剣より槍の方が使い勝手が良さそうだった。
「ちま。足元が危ないから歩かせるのは俺も心配だった。タクの言う通りだと思う。俺達を安心させる為だと思ってくれ」
「どうせ、どうせチビですよぅ……」
「別に不都合ないだろ? 俺かルゥが抱えて行けば良いだけなんだしさ。ここに来て、俺はやたら力が有り余ってる感じなんだぜ? お前の一人や二人抱えて一日歩いても何でもなさそうに思えるくらいだ。お前はお前の出来る事すればいいだけの話だろ? 付与とか俺苦手だしな。後で服の方も頼むわ」
「むぅ。分かったよぅ」
諦めてルゥに腕を伸ばせば、ふわりと体が浮いた。
「取り敢えず、方向の確認と周囲は見ておく」
顔を上げたちまにルゥは横に頭を振った。
空いている右手でちまのフードを引っ張り深く被らせる。
「濡れるから、そんなに顔を出さなくていい」
見えなくなると言う前にルゥに言われる。
「でもそれじゃぁ、何も見つけられないよ」
役に立たないじゃないと唇を尖らせる。
「出発する所で見つけられるなら昨日のうちに見つかってるさ」
濡れた頬を拭って笑う。
言われてみればそうだなと納得してちまは大人しくルゥの腕に納まった。
体格差とは言え、片腕で抱っこされていては本当に親子にしか見えない。
しかも本当に、自分がものすごく甘えん坊な……。
あれ。何か今気付いたけど。おかしいよね?
この霧じゃぁどう目を凝らしても何も見えないし。
普通に、お荷物だから抱っこされた気がする……。
顔や髪が濡れるからってフード深く被せられるし。
ねぇ、155センチって日本人では平均よりちょっと低いくらいだよねぇ?
二人がいくら大きいからってちょっと子供扱いし過ぎなんじゃないの?
なぁんか納得いかないんだけど。
いかないんだけど。
確かにこの霧の中じゃ私が歩いてたら、遅くなるよね。
別にものすごく急いでる旅じゃないからペースが多少落ちても問題はないんだろうけど。
足手まといはすごく嫌……。
でも考えてみると、昨日までだって、霧がなくてもルゥはいっつも手を繋いでくれてた。
草や木の根に躓いて転びそうになるのを支えてくれてた。
あれ。私、いつもルゥに気を使われて、足手まといだったね。
すごく、いっぱい迷惑掛けてたね……。
申し訳ない気持ちが膨らんで、視線が下に落ちてきてしまう。
ポンポンと腕を叩かれて大好きな某総司令官の顔が近くにある事に気付いた。
さやさやと静かな雨の音の中、タクとルゥの腰の辺りまでの草をタクが先行してばっさばっさと切り開いて行く。
そんな中、ルゥはちまの左手を取るといきなり指を口に入れた。
ぎょっとして引こうとするが掴む力が強くて取り戻せない。
舐めてたと思ったら甘噛みをしてくる。
わたわたを取られていない方の手でルゥの肩を叩く。
騒いだら前のタクに気付かれるし、何を言われるか判らない。
少し身を屈めて内緒話をするようにルゥの耳元に近付く。
「ちょっと、ルゥ、離して」
ルゥは微かに笑うと、近くにきたちまの唇にそっと自分のそれを重ねた。
触れるだけのほんの一瞬。
近付いてきたちまに対してルゥは少し顔を左に向けるだけだった。
でもそれは偶然では有り得なく、確かに計算した行動だった。
ちまは両手で自分の口を押えて仰け反った。
思わずの行動に、バランスを崩してルゥの腕から後ろ向きに転げ落ちそうになる。
「ちまっ、暴れたら落ちるから」
暴れさせるような事をしておいて、平然とそんな言葉を投げ掛けた。
「あぁ? 何やってんだ。ちま。それでなくても地面も滑るんだから気を付けろよ」
手を止めて振り返ったタクが見た時、何とかルゥが落ちそうになったちまを抱え直したところだった。
「ルゥ、交代するか?」
「いや、まだ大丈夫だ」
腕が痺れたのかと交代を問えば、すぐさま否が返ってきたのでタクは軽く頷いた。
「ちま、雨も降ってるんだから大人しくしておけよ~でないと後でお仕置き確定だぞ」
豪快に笑って再び草を刈って行く。
何も気付いていないタクの背中を見てから視線を戻す。
〔ルゥ!〕
きっとルゥを睨む。
〔怒ってる方がまだいい〕
〔どう言う意味かな〕
〔さっき、何を考えていた?〕
右手でちまの頬に触れてくる。
小さく怒りに震えながら身構えて睨んでくるが、ルゥには可愛くしか見えない。
〔笑ってるのが一番だが……泣きそうな顔は見ていられない〕
ついに今しがた口に入れて舐めていたちまの手をとって、指先に口付ける。
ちまは怯む。
慣れない。それに尽きた。
元の世界でこんなにスキンシップの多い人は周りにいなかった。
泣きそうだったか自覚はないが、落ち込んではいた。
足手まといで、ルゥに迷惑ばかり掛けていたと。
〔これからも、あんな顔俺に見せたら……〕
ルゥから目を離せず、だからと言って何も言えずにいると抱えていたちまの耳元に顔を寄せてくる。
「襲うよ」
小さな声で囁いた。
前を行くタクにも聞こえないくらい小さな声で。
ちまにしか聞こえない囁き声で。
言葉の意味が頭の中に浸透してきて一気に顔が赤くなる。
それを見てルゥは満足そうに笑った。
〔ちまは可愛い〕
真っ赤になったちまの頬に触れるだけのキスをするとしっかり抱き上げて再び足を踏み出した。
少しタクと離れてしまったが、迷いない足で進んでいく。
〔ルゥは……性質悪い人だったんだ……子供に興味ないって言ってたくせに〕
真っ赤になりながら泣きそうな顔でルゥを見る。
〔子供に興味はないが、ちまに興味がないとは言ってない。それにちまは子供じゃないだろう?〕
子供扱いしまくってたくせに今更のようにそんな事をのたまう。
〔俺はちまが好きだ〕
いきなりの告白に茫然とルゥを見つめたまま動けない。
〔言っただろ? ちまには本当の俺の姿を見せていたいと。だがこの先何があるか判らないから、他の者には本来の姿は見せないで行く。ちまだけが知っていてくれればそれでいい〕
パールピンクの髪先に愛おしそうに唇を落とす。
えっと……タクさんが合流するまでペンダント外してた意味ってそう言う意味だったって事!?
確か、初めて熊と対峙した後、外したんだよね……って、あの時からルゥは私に恋愛感情持ってたって事!?
あ、いや、でも興味あるってだけで恋愛感情とは言ってないよね?
〔迷惑か?〕
縋るように見つめる視線にちまは無意識に小さく何度も首を横に振っていた。
ほっとしたように笑う。
〔恋人になってくれるか?〕
ちまは目を見開いてしまった。
逃げ道を先回りされて閉ざされた感じだった。
〔ちま、愛してる〕
力が抜けてずるっとルゥの腕からまたしても落ちそうになった。
さっきよりしっかり抱き込まれていたので落ちる事はなかったが。
〔返事を聞かせてくれ〕
ちまの左手の指先を右手の指先で持ち上げる。
〔ぇっと……ルゥの事は好きだけど……好きだけど……そう言う意味かどうか自分でも判らない……〕
正直な気持ち、自分でもよく判っていない。
〔ふむ……じゃぁ少し質問しよう〕
首を傾げて頷いたちまを見て笑う。
〔可愛いな〕
ふと言葉が漏れてしまった、そんな感じだった。
ますます顔が熱くなっていく。
ルゥって、ルゥって、こんな人だっけ!?
〔質問な。ちまは、好きでもなく、何とも思ってない男に抱え込まれて眠るのは普通なのか? タクにも同じように出来るか?〕
考える前に小刻みに横に頭を振ってた。
いやいや。凍死の可能性でもない限り、タクさんにあんな風に抱え込まれて寝るとかないわ……。
好きでもない人? 何とも思ってない人?
あれ……何か無理だよね? 知らない人に触れられるとか気持ち悪い。
〔俺が、他の女性を抱えて寝るからって言ったら……ちまはどう思う?〕
えっと。えっと……。
〔何か、ちょっと寂しい……かな……〕
〔淋しい、だけ?〕
えっと……もし、私以外の女の人……いつもの仲間の誰か、とか……?
無意識に胸に置いた手がマントを握る。
何か、何か、嫌かもしれない……。
〔ちま? 教えてくれ〕
様子を見ていて、もうルゥでさえ応えが判っているだろうに、言葉にさせようとする。
〔……いや、かも……〕
ルゥは嬉しそうに頷いた。
〔俺も、ちまが他の男の腕の中にいたら、その男を殴り殺したくなる〕
ぇ……殴り殺したい程、ではないと……思うけど……。
〔ちまも俺が好きだろ?〕
ルゥは右手で首にかかっていたペンダントを外して手首に巻いた。
深い霧の中、元の姿を曝け出した。
ブルーグレイの瞳が嘘は受け入れないと言うかのようにまっすぐ見つめてくる。
〔好き、だけど……でも、でも私、元の世界に帰らないとだし……〕
好きって言っていいの?
認めちゃっていいの?
ダメな気がするのに。
〔言っただろ? 時間が掛かるって。年単位でどれくらい掛かるかもわからないって……〕
でも、絶対に帰してくれるって言ったじゃない。
〔帰るまで……傍にいてくれないか? 帰るまで、俺だけのちまでいてくれないか?〕
夕べのルゥと重なった。
孤独で、ただ一つだけの存在に縋りついた。
〔……ルゥが……〕
〔うん?〕
〔帰るまで……ルゥが、私を必要としてくれる限り傍にいる……〕
〔傍にいるだけじゃない。恋人になってほしい。なってくれるか?〕
視線が揺れる。
いろんな可能性が浮かんでは消えていく。
王様には王妃さまがいるんじゃないの?
もしくは婚約者がいないなんて有り得ない。
もし、このままこの世界に残る事を決意したら……。
でも、私は向こうへ帰るのに。
ルゥを置いて帰るのに。
指先が震える。
唇が震える。
全身が小刻みに震える。
覚悟が必要だった。
手に入れる覚悟。
捨て去る覚悟。
全てに立ち向かう覚悟。
そんな覚悟が自分にはあるのか。
〔ルゥ……ルゥ……〕
両腕をルゥの首に回して縋る。
立ち止まって、小さな体を抱きしめる。
〔ちまが、お前の全てを俺にくれるなら、俺も俺の全てをお前にやる。お前が俺の手を取って隣にいてくれるなら、俺はお前の剣と盾になってお前を守る。俺の手を取ってくれるか?〕
まるでプロポーズのような言葉だった。
こんな言葉初めてだった。
こんなに全てを掛けて望む言葉を初めて向けれた。
「……ぅん……」
小さな声で微かに頷いた。
他に応えられる言葉がちまの中にはなかった。
抱きしめる力が強くなる。
段々強くなる腕に限界が近付いてくる。
〔ルゥ、苦しい……〕
そっと離して地面に下し、自分も片膝を付く。
両手でほっと息を吐いたちまの顔を包み込んで唇を合わせる。
潤んだ目を見て、更に深くなる。
角度を何度も変えて貪るようにくらいつく。
息も絶え絶え、飲み込めなかった唾液が喉を伝って落ちて行く。
舌でそれを追い掛け、首筋に顔を埋める。
ぴりっと痛みが走ったが、そこをぺろっと一舐めして離れた。
濡れた唇に指を這わせる。
「止まらなくなるな……」
苦笑してルゥは立ち上がると、右手首に巻いたペンダントを首に掛け直し、ちまを抱き上げた。
〔流石にこんなとこで押し倒せないからしょうがない。続きは宿に泊まるまでお預けだ〕
真っ赤になったちまの目尻にもキスをすると抱き直して歩き出す。
タクの姿は霧の向こうだった。
バサッバサッと払い切った草の音と雨の音だけが響いていた。
腿の辺りを抱える抱っこは子供にするのと同じだった。
両手がふさがるのはいざと言う時困るからと理屈では解っているが。
それでもやっぱり、子供扱いしてるんじゃないの?と思わなくもない。
だが、そんな考えも深い意味を捉える前にふわっと霧散する。
何だか疲れてしまったちまはぐったりとルゥに寄り掛かっていた。
恋人になってって言ったくせに、この扱い。
まぁ、いいけど。
……昨日ミノタウロスに追われた時は横抱きしてもらったんだっけ。
ふと思い出し、ルゥが他の人を抱っこしなきゃ、どんな抱っこでも良いかとそんな風に自分の中で片付ける。
自分の中に嫉妬深い女を感じて小さく溜息を吐いた。
どっちが先に好きになったんだろう?




