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小さな歯車

作者: 玉菜
掲載日:2013/11/14

 僅かに開けた窓から穏やかな風が吹き込みベッドを仕切るカーテンを揺らす。窓を開けていても漂うアルコールの香りは長い時間をかけて部屋にしみ込んでいるのだろう。グラウンドの方から運動部が練習に励む声が聞こえる放課後、ペンを走らせているのは本日提出期限の書類である。最後の一文字を書き終わりペンを手放すと椅子の背に体重を乗せ身体を伸ばした。仰け反る形で見た窓の向こうは快晴。室内に篭って背を丸め書類に向かっているのが悪だと言わんばかりの陽気だと伊原聡里は思った。

 体を起こし、ステンレスボトルに入ったお茶で喉を潤し、本日のお仕事を横目に見た。書類が短編小説一冊分ほどの厚みをもって積まれている。風で飛んでいかないように重しとして載せてあるのは旅行に行ったときに土産物屋で買った陶器の蛙の置物である。

 保健の先生ってもっと楽だと思ってたのに、と内心ぼやく。特に養護教諭という職業に憧れがあったわけではない。気がつくと養護教諭になっていたのだ、それはもう、誰かが引いたレールの上を走る電車に勝手に乗せられてしまったかのように、自分の意志とは違う、まるで、運命であるかのように。

 そんなロマンチシズムな考えを鼻で笑い飛ばすと、廊下の方からバタバタと駆けてくる足音が聞こえてきた。怪我人か急病人でも出たのだろうかと体重をかければ直ぐに立ち上がれるように両手を机の上に付き少しだけ椅子を後ろに引いた。

 勢いよく開いた扉から飛び込んできた少女は振り返ることなく後ろ手に素早く、しかし音は立てないように静かに扉を閉め、こちらには一切の断りも目配せもなく、サッとベッドを隔離するために引かれたカーテンの向こうに消えた。状況を掴めず動けずにいるともう一つの足音が今度は勢いよく扉を開いた。

 「ハニー!」と輝く笑顔で元気よく入ってきたのはヤマト・スミスだった。ヤマトはアメリカ人の父と日本人の母を持つ日本育ちのハーフだ。青い目が聡里を捉えると大きく見開かれ、ぱちくりと二、三度瞬く。そのあどけなさが日本人の同年代より大人っぽい顔立ちを少しだけ幼く見せた。


「スミスくん、学校の廊下は走ってはいけませんよ、あと、保健室には静かに入室してくださいね」

「すみません、、伊原センセイ。あの、こっちに花白さん来ませんでした?」

「さあ、廊下で足音は聞こえたけど。あんまり女の子を追いかけまわしちゃダメよ」


 やんわり窘められるとヤマトは頭を垂れ「分かりました」と明らかに落胆した声を出して保健室を後にした。日本育ちのはずだが、ヤマトは妙なところで片言の日本語になる。恐らく父親の影響だろう。

 来た時より静かな足音が聞こえなくなると逃げ込んできた少女――花白すみれはカーテンの隙間からひょっこり顔を出し、安堵の息を漏らした。そして、聡里の方に顔を向けると眉尻を下げ苦笑いを浮かべながら「先生、すみません」と謝り、聡里の座る事務机の前に置かれた丸椅子に腰を下ろした。聡里も机の上に乗せた腕の力を抜き、椅子を元の位置に引きもどす。

 花白すみれは見目麗しい少女である。ゆるいウエーブのかかった栗毛を左右で結わえた“お人形さん”のような少女というのが聡里の抱いている印象である。その上、心優しく、何事にも一生懸命取り組むような好感の持てる性格なので彼女は男女ともに人気のある人物であった。とはいえ、誰にでも苦手なことはあるもので、すみれにとっては今のヤマトのような熱烈なアプローチがそうだった。ヤマトはすみれに一目惚れしてから、ほぼ毎日のようにこのようなアプローチをしているのだ。初めのころは、すみれも真面目に相手――もちろん真摯に断ること――をしていたのだが、それでどうにかなる相手ではないと知ってからはこうして協力を仰げる相手のもとへ逃げ込むようになったというわけだ。ヤマトも、第三者を挟めば何故か冷静になれると聡里にこぼしたことがあった。

 聡里は、申し訳なさげにこちらをうかがうすみれにできる限りの柔らかい笑みを向ける。


「何か謝ることがあった? 困っている生徒を助けるのは教師の役目よ。それにしても、スミスくんは相変わらずね」

「はい。どうして私なのかなって思います」

「どうして、か」


 聡里が意味深な笑みを浮かべながら呟くとすみれは目を瞬かせ、「先生はどうしてか知っているんですか?」と尋ねた。「そうね」と机の上に肘をつき、口元で手を組んで考えるように目を閉じた。「この世界が貴女のために回っているから、彼は貴女の人生のひとつの歯車なのよ」とは言えず、ただ、「恋は盲目っていうから」と誤魔化した。それはすみれにも分かったようで納得した表情はしていなかった。しかし、その表情も何かを思い出したように焦ったようなものに変わり、


「今日、お姉さんと出掛ける約束してたんだった! 帰って出掛ける準備しなきゃ」

「お姉さんって、黒笹先生?」

「はい、仕事終わったらご飯行こうって誘われてるんです。じゃあ伊原先生ありがとうございました、さようなら」

「気をつけてね、さようなら」


 黒笹先生とはすみれの従姉であり、この学校の教師である。制服を着ていれば生徒と見間違うような幼い風貌であり、人を驚かせるようなことが好きと性格も若干子どもっぽいため生徒からは親近感を持たれやすいが、芯はしっかりした女性のため生徒からなめられることはない。すみれと黒笹は年が離れているものの、昔から家が近かったことや黒笹が子ども好きだったこともあり本当の姉妹のように仲がいい。聡里も黒笹とは仲がいい方のため、よく彼女からすみれの話を聞いたりしていた。

 慌てながらも嬉しそうに保健室を後にするすみれを見送り、お茶で喉を潤し、一息ついてから次の書類へと手を伸ばした。急患がなければ、終業までに今日のノルマはクリアできそうである。


 世界に愛された少女が、どんな運命を選び取っていくのか、彼女はひとり楽しそうに笑った。

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