第2話 灰色狼
ミノタウロスは、両手に斧を持ってボス部屋を出た。
あれほど強硬に通過を拒んだ出口が、あっけなく通れた。
出口をくぐり抜けると、左右に岩の回廊が続いていた。
左側に向かって歩く。
ほどなく道は左右に分かれた。
右の道を選ぶ。
いくつかの分岐を過ぎたあと、前方に気配があった。
薄暗い通路の向こうに、一対の眼が光っている。
と思うや、相手が駆けて来た。
灰色狼である。
攻撃しようとしている。
ミノタウロスは身をかがめ、右手の斧を狼の頭にたたきつけた。
だが、当たると思った打撃は空を切った。
狼は半歩手前で軌道を変え、右足をかすめて通り過ぎたのである。
すぐに狼は、反転して攻撃してくるであろう。
すばやく振り向いたとき、右足に痛みが走った。
右膝からくるぶしにかけての肉が、えぐられている。
ちっぽけな狼に傷をつけられ、ミノタウロスの視界は怒りで真っ赤に染まった。
飛びかかって来た狼を迎撃すべく、斧を横なぎに振るう。
しかし、今度も敵をとらえることはできなかった。
狼は壁面に飛びつき、突き出た岩を踏み台にしてミノタウロスの喉笛に噛みついたのである。
普通の相手であれば勝負を決したであろうこの一撃は、しかし狼の失策となった。
ミノタウロスは、恐るべき反射神経で顎を伏せて喉を守った。
狼がミノタウロスの頑丈な顎をかみ砕きかねた一瞬、ミノタウロスは斧を手放すと、両の手で狼の頭をつかみ、そのまま岩壁に突進した。
「ギャイン!」
岩壁にたたきつけられた狼は、悲鳴を上げた。
すかさず、狼を抱え上げ、頭突きで狼を岩壁にたたきつける。
鋼鉄をねじり合わせたような2本の角が、狼の腹部をあっさりと貫いた。
狼の体液が顔と体に降り注ぐのも構わず、繰り返し、繰り返し、狼を岩壁にたたきつけ続けた。
どすっ。どすっ。
びちゃっ。びちゃっ。
狼の腹は大きく裂け、内臓があふれだしてきた。
ミノタウロスは、頭突きを続けた。
もがく狼の爪に腕や胸をえぐられても、ひるむ様子もない。
やがて狼は、あがきをやめ、けいれんを始めた。
そのけいれんも、ほどなく止まり、狼はまったく動かなくなった。
と、急に狼の姿が消え、ミノタウロスは、したたかに岩に頭を打ち付けた。
狼は、いったいどこに行ったのか。
ふと下を見ると、赤い小さなポーションと、銀貨が何枚か落ちていた。
俺が欲しいのは、こんな物ではない。
ミノタウロスは、とまどい、怒った。
勝利の報酬は、あの狼の肉でなくてはならない。
肉だ。肉だ。
あの肉を食らわねばならなかったのに。
あれは俺の物だったのに。
飢えはいっそうひどくなるばかりだった。
ミノタウロスは、斧を拾い上げ、迷宮の奥へ進んだ。
いた。
先ほどと同じ灰色狼である。
その俊敏性と狡猾さは、すでに学習した。
ミノタウロスは、左手の斧を喉の前に構え、右手の斧を敵のほうに向け、油断なく狼の動きを見つめた。
すばらしい速度で走り寄った狼は、接触する直前に左に身をかわした。
そこに、すっと右手の斧を突き出す。
斧の切っ先が、狼の右頬に食い込む。
刹那、右手の斧を引き、左手の斧を、狼の首に振り下ろした。
狼の首が跳ね飛び、胴体は床の岩盤に打ち付けられた。
肉だ。
ミノタウロスの眼が歓喜の色をたたえた。
しかし、今度も、絶命した狼の姿は消え去り、あとには青い小さなポーションと、数枚の銀貨が残された。
ミノタウロスの顔が、怒りにゆがむ。
何だ、これは!
またも俺から戦利品を取り上げるのか!
ふざけるな!
肉をよこせ!
ミノタウロスは、青いポーションを踏みつぶすと、さらに奥へと進んだ。
すぐに三匹目の狼に出遭った。
今度は、こちらから駆け寄った。
左手でフェイントの攻撃を仕掛け、狼を右側に誘導して、その鼻面に右手の斧を叩き込んだ。
狼は、真っ二つに切り裂かれた。
肉だ。肉だ。
肉をよこせ。
変な物に変わるんじゃないぞ。
お前の肉を、俺によこせ。
相手を見かけた瞬間から、心の中で叫び続けた。
今度の狼は、姿を消すことなく、血だまりの中に沈んでいる。
斧で肉を切り取り、口に運んだ。
かみしめて飲み込んだとき、何とも言えない充足感がミノタウロスをひたした。
肉だ。肉だ。
狼の肉をむさぼった。
半分ほどの肉を腹に収めたとき、またも狼の姿は消え、数枚の銀貨が残された。
腹は満ちた。
それなのに飢えが収まっていないことに、ミノタウロスは気づいた。
斧を両手に持って立ち上がると、次の敵を探して歩き始めた。
それから十数度、狼と闘った。
たいてい狼は一匹であったが、時には群れで行動していた。
五匹の群れに出遭ったときには、連携攻撃にとまどい、たくさんの傷を受けた。
狼が死ぬと、赤いポーションか青いポーションと銀貨が残る。
死骸は血痕もろとも消え失せてしまう。
しかし、死骸が残るよう念じながら殺すと、しばらくのあいだは死骸が残る。
幾度かは肉を食らった。
食べることに飽きると、ただ殺すために闘った。
次の敵を求めて歩いていると、前方から戦闘の気配がした。
近づいてみると、人間が狼と闘っていた。
人間は一人である。
男で、皮の鎧を身に着け、剣で闘っている。
回廊には、二匹の狼が、血まみれになって転がっている。
剣士が倒したのであろう。
二匹の狼は、動くこともできないほどダメージを受けている。
三匹の群れと遭遇し、二匹を倒し、最後の一匹と闘っているのであろう。
だが、剣士も相当に傷ついている。
顔には幾筋もの裂傷が走り、服は血に染まっている。
左手は、動かせないほど傷を受けているのか、だらんと垂れている。
いっぽう、狼のほうも相当な痛手を受けているが、動きは素早い。
低い位置から威嚇すると、すきを見ては剣士に飛びかかり、肉をかじり取る。
と、剣士がミノタウロスに気づく。
目が驚愕に見開かれた。
現在の敵でさえ、ようやくしのいでいるのに、新たな強敵が近づいて来たのである。
この場にいるはずのない恐るべき敵が。
絶望を感じて当然ではある。
しかし、ミノタウロスには、この闘いに参戦するつもりはなかった。
弱っている獲物を倒しても仕方がない。
それよりも、人間が灰色狼と戦っている、その技に興味があった。
剣士は、刃先を狼のほうに向けてはずさない。
狼が爪や牙で攻撃をすると、手首をひねり、剣の角度を変えて、攻撃を受け、そらす。
最低限の動きで、攻めをしのいでいる。
体力を温存するためでもあろうが、あれならば大きく体勢が崩れることもない。
体の端をかすめるような攻撃は無視している。
そのため、傷は少しずつ増えているが、体の中心に来る攻撃は防ぎきっている。
ミノタウロスに、分析的に男の動きを理解できるほどの知力があったわけではないが、学ぶものがあると感じ、闘いの行方を見守った。
決着は突然であった。
剣士の体がぐらりと揺れたのを見逃さず、狼が飛びかかった。
ミノタウロスは、それが人間の仕掛けた罠であると気がついていた。
剣士は、剣で小石を弾いて狼の顔に当てた。
すかさず、動かないはずの左手を、狼の喉に突き込む。
手の骨がかみ砕かれる音が聞こえる。
そのとき、剣は狼の腹部に差し込まれ、びりびりと音を立てて股までを一気に切り裂いた。
狼の飛びかかった勢いに押され、剣士は仰向けに倒れ込んだ。
その体の上にのしかかった狼は、すでに事切れていたのであろう。
剣士の腹に、赤いポーションと、数枚の銀貨が残された。
剣士は、剣を手放して、赤いポーションを右手でつかむと、仰向けのままミノタウロスのほうを見ながら、飲み干した。
全身の傷が見る見る癒やされていく。
ぐしゃぐしゃになった左手さえ修復されていくのが見える。
剣士は、剣を杖に起き上がり、瀕死の二匹にとどめをさした。
一匹は銀貨と赤ポーションに、一匹は銀貨と青ポーションになった。
剣士は、二つのポーションをすぐにあおった。
傷はさらに治り、気力さえ取り戻したように見える。
そうした行動を取るあいだ、注意をミノタウロスからそらすことはなかった。
ミノタウロスのほうでは、闘いが終わるとともに興味を失っていた。
剣士が完全には復調していないのは明らかであり、殺すに値する強さを感じなかったのである。
続いて剣士は、落ちていた銀貨を拾い集めた。
抜き身の剣を右手に持ち、巨大な敵をにらみながら、回廊の奥に後ずさって行く。
と、剣士の姿が横穴に消えた。
ほどなく気配が消えてしまう。
不審に思って近づくと、横穴と見えたものは、上方に続く階段であった。
ここは何度か通ったはずなのに、階段があるとは気付かなかった。
きびすを返し、生まれた部屋に戻ると、眠りについた。