春の山辺に降る雪は
1
もしや私は、ガーラの神に嫌われているのであろうか。
と、アルスは思った。
初めてここに来たときと同じく、いくらも山を登らないうちに吹雪に見舞われたからである。
季節も、同じ春。
自分が山に入ったことで大神のお心を乱したとすれば、申し訳ないことである、などと考えをめぐらせていた。
即席の小さな避難所の中で、アルスと、カジャと、ボランテが、身を寄せ合って暖を取っている。
カジャは、アサシンであり、スカウトとしても優秀なSクラス冒険者である。
バルデモストとフェンクスの戦争が始まったころ、アルスの父パンゼルの護衛として雇われた。
パンゼルに近侍するうち、冒険者と雇い主という以上の絆が生まれた。
父の死を母に伝えたのは、この男であろう、とアルスは見当をつけている。
たぶんそのとき、この男は死のうとした。
だが、母に何かを言われ、死ぬことをやめ、母に仕えるようになった。
アルスがゴラン家の当主となりバヌースト侯爵を継いでからは、アルスのそばを離れない。
ゴラン家の臣となって二十年を超えるのに、アルスはこの男の私生活について不思議なほど知らない。
静かな男である。
いっぽうのボランテは、相変わらず陽気ではあるが、いささか英気に欠けると感じるのは気のせいであろうか。
やはり、ヒマトラと離れて寂しいのであろう。
ボランテという名も、ヒマトラという名も、ともに偽名であることは、八年前にパーティーを組んだときに分かっていた。
海の彼方から来た異人たちとの戦争に二人は駆けつけてくれ、大きな戦力となった。
ヒマトラの強大な魔法攻撃は、射程の長い異人たちの兵器の、その射程圏外から届いた。
ボランテの臨機応変な攻撃は、能く異人たちの意表を突き、強靱な装甲を切り裂いた。
この二人と、巨漢戦士のウォーヴァルガン、剣聖ジャル・ドル・バザの弟子と友人たち、それに腕利き冒険者たちで編成した部隊は、やがてバヌースト突撃隊と呼ばれるようになった。
苦戦を続ける北部同盟にあって、バヌーストの正規騎士団と並び、異人たちと互角以上に戦える数少ない戦力として、戦線を支え続けたのである。
戦争が終わり、アルスの取り持ちで二人は結婚した。
アルスは二人に家を立てさせ、家名を与えた。
縁をつないでくれた水の精霊にちなんで、パクサルドという家名を。
二人とも、ボランテとヒマトラという偽名をすっかり気に入っていたので、それを本名とした。
天衣無縫なボランテは、意外なことに、けじめに厳しい母エッセルレイアに、なぜかひどく気に入られた。
誰に対してもあけすけな言い方しかできないヒマトラは、これもアルスにとって意外なことに、気品と高雅を絵に描いたような妻セルリアと親友となった。
意表、ということなら、ラウラサリム姫に勝る者はないが。
突然、手兵を率いて駆けつけ、傭兵としてお使いいただきたい、報酬はアルス殿の子種を、とラウラが言い放ったとき、アルスは思考が止まるという経験を知った。
隣でにこやかにほほえんでいたユリウスは、当然ながら、直ちにそのことを娘のセルリアに知らせた。
セルリアは、エッセルレイアと謀議をめぐらせた。
翌週、部隊再編のためバヌースト城にアルスが帰還したとき、そこには結婚式の準備が調えられていた。
侯爵家当主であるアルスが申請すらしていないのに、結婚許可証も用意されていた。
ということは、王もこの企てに参画している。
アルスはセルリアと、簡略ながら正式の婚礼を挙げた。
ユリウスの長女であるセルリアとは幼なじみであり、いつかはアルスと結婚するものと、誰もが思っていた。
当人同士もそう思っていたから、この結婚に不思議はないが、ラウラがきっかけを与えてくれたことは間違いない。
ラウラをまさか前線に出すわけにはいかなかったが、後方支援にも、指揮能力を持つ上級騎士を必要とする場面はいくらでもあった。
ラウラ姫は、しばらく騎士として存分の働きをみせた。
物資の運搬に、民衆の移動と保護に、赤き鎧に身を包んで八面六臂の活躍を見せる南国の美女は、庶民と兵士たちから絶大な人気を勝ち取った。
人々を守ろうとするひたむきな姿には、見る者の心を打つ何かがあった。
アルスが南方諸国にとっての大陸融和の象徴であるとすれば、ラウラ姫は北方諸国にとってのそれに近い。
人々は彼女に、砂漠の騎士姫とか、暁の戦女神など、あまたのあだ名を奉った。
ラウラ姫が参じたのは、まだ異人たちとの戦い方が分からず連敗を続けていたころであったから、街を捨てて逃げる人々に勇気を与える彼女の存在は、実にありがたいものといえた。
ただし、人気の弊害もあった。
彼女を名指しして支援部隊の派遣を求める諸侯が増え、彼女を手元に引き留めようと工作をする諸侯も現れてきたのである。
戦況が好転してきたころ、ラウラ姫はバヌーストの後宮に入った。
理由はよく分からないが、こののちバルデモスト王国では、貴族たちが娘を騎士にすることが流行した。
後宮に入ることについては、初めエッセルレイアが難色を示した。
ラウラは、父であるビア=ダルラの君公からの、生まれた子はゴラン家の一切の権利を放棄するとの誓詞を持参したが、エッセルレイアが問題にしたのは、そんなことではなかった。
エッセルレイアは、パンゼルの孫が一人でも多く生まれてほしいと願っている。
そしてその孫たちが力を合わせてゴラン家を繁栄させることこそが、エッセルレイアの希みなのである。
結局、二人以上の子を産み、ビア=ダルラ君公の後嗣となる者以外をバヌーストに残すという条件で、ラウラの後宮入りを認めた。
肝心のセルリアは、ラウラのけなげさにすっかり打たれたようで、ひどく仲良しになり、砂漠の都市でのアルスの英雄譚を繰り返しせがんだ。
セルリアから、ビア=ダルラにはアルス様の神像があって参拝が絶えないそうですといわれたとき、アルスは、かの地には二度と行かない決心をした。
2
戦争は三年で終わった。
アンポアンで平和条約が結ばれた。
初期の抵抗拠点となったリガが破壊し尽くされたのに比べ、異人たちがあっさり奪って本拠地としたアンポアンは、不思議なほど荒れていなかった。
異人たちは船と武器と知識と人材を提供し、その代わり、彼らの望む安住の地を大陸に得られることとなった。
アルスは、最大の功労者として、六国の王の名により大陸守護騎士に叙せられた。
二年間、戦後処理に追われた。
東方航海の企てが立てられ、その準備にもあたらねばならなかった。
そして、二十四歳になったアルスは、あらためて勅命を受け、迷宮の王との決着をつけた。
そのあと、アルスは、神々に謝儀を奉ずるため巡礼に赴く、と周囲に告げた。
旅がアルスをいかに成長させたかを知るエッセルレイアは、ただちに賛成した。
巡礼先は、大陸東端の岬に立つ竜の神殿である。
アルスなしでは復興も、外交も、探検航海の準備も進まない、と反対する者は多かった。
街は破壊され、人は死に、田畑は荒れた。
ここ二年での復興には目覚ましいものがあるが、それだけに混乱も大きい。
領地の再建は、ようやく軌道に乗ったところである。
異人たちの知識と文物は、各地の復興に非常な勢いを与えてくれているが、反面、能力の高い異人の取り合いが、危うく紛争になりかかることもある。
特に、造船と海運技術については、特定の君公に預けるわけにいかず、北部同盟全体で抱え込むしかなかった。
ゴルエンザ帝国にも、異人の船と技術者を振り分けてはいるが、もともと大型船の造船所と熟練した船乗りは北部に多い。
アンポアンには大陸中から若者が集い、異人たちの技術と知識を吸収しようとしている。
その集約とも呼べるのが、今進められている、異人の船を改造しての冒険船の建造であり、その総監がアルスなのである。
兵器についても同様ではあるが、こちらは、製造の基礎となる設備や技術を育てるのに年月がかかる。
当面は、異人たちから得た現物を運用し、他の大陸からの輸入の途を探ることになる。
他大陸の国家と出合うときには、侮られないだけの武威が必要であるが、異人の武器の程度の低い模倣では、敬意が得られるわけもない。
であるから、魔法と恩寵武器および特殊スキルを主軸に部隊を編成し、異人たちの助言を受けつつ戦略を研究しているが、中核となるのは、大戦で最も活躍した兵団、すなわちバヌーストの騎士団なのである。
幸い、異人たちの移住地選定という最大の案件は、ユリウスが抱えてくれている。
異人たちは、アンポアンを含む海岸沿いを希望したが、これはバルデモスト王国にとっては許容できず、その東側にある村をいくつか割譲し、さらにその南に連なる辺境を開拓して国を作ることを提案した。
これにゴルエンザ帝国が異を唱えた。
気候のよい南部内陸部の土地を提供する、と申し出たのである。
ゴルエンザ帝国の莫大な財政援助がなければ、大戦を戦い抜くことはできなかった。
戦後復興についても同様である。
したがって、ゴルエンザ帝国の意向を無視しては事を進められないが、異人たちを完全に自国内に取り込んでしまおうという意図が明白すぎて、とても受け入れられない。
各国に分割して迎えるべきであると主張する国も多い。
異人たちの移住地決定は、大陸全体の将来にかかわる重要案件であり、着地点は容易には見いだせないであろう。
これをユリウスが担当してくれることは、アルスにとって、まことにありがたい。
が、現状の問題は多岐にわたる。
異人たちとの戦争を通じて大陸北部は大同団結し、南部諸国とも協力関係を築くことができたが、異人たちの脅威がなくなった今は、連携が崩れてしまうおそれがある。
アルスはその連携の象徴のような存在であり、外交上の役割に期待されるところも大きい。
また、戦中戦後の混乱に乗じて不穏な動きをみせる諸侯諸族もあり、バヌーストには、援兵を求める使者が絶えない。
このような状況であるから、神殿に参拝するにせよ転送魔法を使用して日子を短縮すべきである、という意見が強いのは当然であった。
代参を立てるべきである、と言う者もあった。
しかし、アルスは、彼らにこう説いた。
巡礼とは、単に目的地に着けばよいというものではない。
大地を踏みしめて道を歩み、風を浴び、神々の恩寵を身いっぱいに受け止めながら、おのが足により感謝を刻み込む行為なのである。
始祖王は、建国のあと、足の裏に剣で傷を付け素足で神殿に詣でたという。
血を大地に染み込ませるとともに、大地の恩寵が体に入りやすくするためである。
ガーラ山脈のあの斜面を、大峡谷の底を走る道を、東海の砂浜を、かつて受けた恩寵の数々を思い起こしながら私がみずから踏みしめる以外、わが国が、大陸全体が受けた恵みに報謝するすべはない。
全行程を徒歩で進むわけにはいかないが、主要な場所では馬車から降りて歩くことにした。
また、剣聖の墓所への移動と、ジャン=マジャル寺院への移動および帰国については、転送魔法を使用することになった。
多くの供物を運ぶため、また直閲家当主にしてただ一人の大陸守護騎士たる格式もあり、馬車の数もそれなりに増えた。
いざ随行を選ぶとなると、これがまた大変だった。
大陸最高の英雄が、修行の足跡をたどり、神々との出合いを振り返る巡礼である。
随行を希望しない者など一人もなかった、というのが正しい。
巡礼に強く反対した者たちが、真っ先に随行を申し出た。
なぜか異人たちも、こぞって同行を申し入れてきた。
どう考えても留守居に決まっているエッセルレイアまでが、候補者名簿にこっそり名前を潜ませていた。
ボランテは、当然随行するという余裕の態度を見せ、周囲のひんしゅくを買った。
ヒマトラは、自分もついて行くと最後まで駄々をこねたが、妊婦を同行させるわけにはいかなかった。
優先して随行に加えたのは、アルダナ出身の剣士たちである。
剣聖の声かけにより駆けつけてくれた剣士たちのうち、半数が死んだ。
生き残った者の半数が、そのままアルスに仕えることを望んだ。
ほかの者もアルスのもとに残りたい願いはあったが、家や家族や主家との関わりもあり、帰国せざるを得ない。
アルスの家臣となった者も、巡礼のあと、一度アルダナに返すことにした。
異人との大戦が始まったとき、剣聖自身も参戦を希望したが、病の床についており、かなわなかった。
勝利の報を聞いてから、静かに息を引き取ったという。
墓前で語りたいことが山ほどある。
アルダナに行くとなれば、アルダナ王の招待も断れないし、そうするとまた王女たちの集団求愛を受けることになるが、致し方ない。
アルスの巡礼を聞きつけて、諸国諸侯から招待が相次いだ。
最低限の訪問で済ませるよう、調整させた。
随行員には、ナーリリアとその夫も含まれている。
流れ者の薬師ふぜいが、なぜこの栄えある随行に選ばれたか疑問に思い、名のある薬師や医療神官を推薦する貴族もいた。
アルスは、この者たちはもともと竜の巫女と縁あるもので、さる大神の導きにより参じてくれたのであるから、竜の巫女にお返しするのである、と説明した。
アルスが、南方諸国を回る修行の旅をしたことや、その旅の中で数々の奇瑞に出遭ったこと、モンスターに襲われる旅人や隊商、さらには都市国家までを救った武勇伝などは、ザーラという変名とともに、老アルカンとユリウスにより広くさりげなく流布された。
それは南方諸国との連携を取りやすくするための工作の一つであったが、そのおかげで、ザーラが旅で出会った人々が、海から来た異人たちと戦う若き救国の騎士の正体をそれと知り、駆けつけてくれたのである。
ナーリリアとその夫も、そうである。
正体がラミアという妖魔であるところの、この美女は、若々しいままであるため、一か所に長くとどまれない。
夫と共に大峡谷の村を出て、はるばるフェンクス諸侯国の寒村に落ち着きかけたころ、大戦が始まった。
異人たちは、アンポアンを拠点として、そこからバルデモスト王国の王都を陸路目指すとともに、海上戦力をフェンクス諸侯国に回して、港を襲い、防御しようとした戦船をことごとく海に沈めた。
異人たちは、そこに大陸最大の海軍力があることを承知していたのである。
人々は、フェンクス側からも異人が上陸してくるものと恐れ、内陸部に逃げた。
ナーリリアたちも一度は流民となったが、しばらくして、作りためた薬を持参して、バヌーストにザーラを訪ねたのである。
私は、このおなごの年齢を追い抜いてしまったな、と感慨にふけるザーラに対し、ナーリリアは、うちの人がどうしてもあんたに恩を返すべきだっていうもんだから、と妙に言い訳がましく協力を申し出た。
ナーリリアの薬は、神竜たる旧主からの直伝である。
その高い効能は、たちまち周囲の専門家たちの注目の的となった。
ナーリリアは、ありふれた薬草を秘薬に変える精製と調合を教えた。
調子に乗って墓穴を掘り、よりによって高位の神官に正体を知られるという失態を演じたが、アルスから多少脚色された真相を聞かされたその神官は、では私が監視いたしましょうといい、それからナーリリアをいいようにこき使った。
ナーリリアは、アルスから水の精霊パクサリマナの話を聞いて、泣いた。
そして、竜の巫女が旧主カルダンの娘であると知るや、戦争が終わったら巫女様のもとに行ってお仕えする、と言い出したのである。
ナーリリアは、バヌーストでできた友人たちと、涙ながらの別れをした。
くだんの神官は、人前で美女に抱きつかれるという経験をすることになった。
このとき、ナーリリアは、折り返しバヌーストに戻ることになるとは、思ってもいない。
3
竜の巫女とは手紙を何度かやり取りしている。
竜の神殿に参拝するには、隠された二つの目的がある。
一つは、亡きアレストラとの約束を果たすことである。
竜の巫女の父であるアレストラが、愛していると娘に伝えてほしいと、この世から消え去る最後の瞬間に、アルスに言い残した。
直接竜の巫女に会ってこの恩人の言葉を伝えなければならない。
そして、人にして神霊の高みにまで上り詰めたアレストラの偉大さと優しさを、アルスの目で見たその人となりを物語るのだ。
もう一つは、バルデモスト王の勅使として、ミノタウロスの祭祀を請願することである。
請願の勅許を得るには少なからぬ労を要した。
討伐に向かった騎士たちを皆殺しにしたこともさりながら、パーシヴァルを殺したのがミノタウロスであることを、王は忘れたことがない。
それでも、かの者が邪神を倒して大陸を救った事実は動かない。
王の説得には、ユリウスがあたった。
かの怪物の武徳をたたえれば、すなわちわが父や騎士らの名誉となるのです、というユリウスの言葉が、王の心を溶かした。
ただし、邪神のことは一般には公表できないから、主要な諸侯以外には詳細は知らせないことになった。
請願のめどが立ち、神殿に打診しようとした矢先に、竜の巫女から手紙が届いた。
そこには、猛き武神のしるしを奉納すべし、と書いてあった。
つまり、竜の巫女は、アルスがミノタウロスの右角を持っていることを知っている。
竜の巫女に訊けば、ミノタウロスがあのあとどうなったのかを知ることができるのであろうか。
迷宮の王との闘いは、折にふれて思い出す。
互いの手の動き、足の動き、技の応酬。
すべてはアルスの脳裏に刻み込まれ、色あせることはない。
二度とあのような闘いをすることはないであろう。
あの日、多くの人々に見送られて、アルスはサザードン迷宮最下層に降りた。
ミノタウロスの前に立ったとき、目の前の怪物こそ、かつて共に邪神と闘った英雄である、と知った。
知って、使わないつもりでいたボーラの剣を抜いたが、それでもなお目の前の異形の戦士におのれが及んでいない、と感じた。
アルスもあのときのアルスではない。
異人たちとの大戦でいくども死地をくぐり、武技と心胆を練り上げてきた。
亡き父と見まがうばかりの偉丈夫へと成長し、基礎体力の向上も著しい。
年齢は、父がミノタウロスに挑んだと同じ、二十四歳。
絶頂期を迎えた体躯に大陸守護騎士の装備をまとい、メルクリウス家の五つの恩寵品とボーラの剣を装着すれば、その姿は神話の戦神そのものである。
そのアルスにしてなお、勝ち目は薄い、と判じざるを得なかったのである。
命を諦めねば闘えない相手であると覚悟し、地上に残した者たちに心でわびて、すべてを捨てて闘った。
三度、ミノタウロスの大剣をエンデの盾で防いだとき、ミノタウロスは一歩下がって、いぶかしげにアルスを見つめ。
そして、笑った。
笑い声を立てたわけではないが、確かに笑った。
私が誰であるかを識ったのだ、とアルスは思った。
闘いは熾烈を極めた。
ありとあらゆる技を、アルスはふるった。
指輪の魔力は使い果たし、盾は割られた。
だが、最後にアルスは、ミノタウロスの大剣を折りくだき、右腕を斬り飛ばし、右角を付け根から切り落とした。
そして、ボーラの剣を、深々と魔獣の心臓に打ち込んだ。
ミノタウロスがアルスの父に与えた神剣が、ミノタウロスの命を奪ったのである。
命が終わろうとする瞬間、ミノタウロスは、激しく身をよじった。
アルスの血まみれの手から、ずるっと神剣が抜け、神剣の恩寵を失ったアルスは、疲労のあまり身動きもできない。
ミノタウロスは倒れながら、左手に握った剣のつかでアルスの頭をくだいた。
ともに、ポーションを使う力さえ残ってはいなかった。
ミノタウロスの巨体が倒れ伏し、目から光が失われるのを見届けてから、折り重なるようにアルスも倒れ、意識を失った。
死んだはずのアルスが目覚めたとき、そこには見覚えのある角だけがあった。
その後、ミノタウロスを見たという報告はない。
やはりミノタウロスは死んだのであろうか。
だが、サザードン迷宮十階層のボス部屋には、今も主がいない。
また、右角だけが残っていることは、いかにも不思議である。
ミノタウロスが真実死んで消滅したなら、この角も消えるはずである。
ドロップ品が何もないというのも異常である。
何より、あれほどの大敵を倒したのなら当然起こるべきはずのレベルアップがない。
レベルアップがないにもかかわらず、アルスは生き返り、傷痕さえない。
何か特別な神々のおぼしめしが働いている、としか思えない。
この出来事をどう受け止めるべきか、アルスには分からない。
その思いをユリウスに打ち明けると、英明な主家の当主は、いつものように明快な導きの言葉をくれた。
かの偉大なる人外の英傑を神霊として祀るべきである、と言ったのである。
まさにその通りだ、とアルスも思った。
アルスは想う。
迷宮探索がただちに終焉に向かうわけではない以上、邪神がよみがえることもないとはいえない。
いつか再び迷宮の王が闘うときがくるのではないか、と。
バヌースト侯爵領は、バルデモスト王国の北の端にある。
王都で王に謁見し、国境付近まで南下したあと、徒歩で国を出た。
再び馬車に乗り、ガーラ大山脈の麓に着いた。
ここからは、ただ二人を供として、徒歩で登る。
といっても、さすがにガーラ越えはできない。
数日を山で過ごして、馬車隊が待つ場所まで戻るのである。
ガーラの山に入るとき、アルスはウォーヴァルガンも誘った。
この巨人戦士は、元傭兵だったが、ゴルエンザ帝国の貴族の怒りを買い、罠にはめられて剣奴に落とされた。
妻子を連れて脱走した山の中で、狼に襲われ、さらにガーラの養い子と呼ばれる神霊に取り囲まれて、案内人をすべて殺された。
子どもらも傷つき、死をも覚悟し始めたとき、通りかかったアルスに命を救われたのである。
この戦士が、山神ガーラとアルスの縁をつないでくれたともいえる。
だが、ウォーヴァルガンは、随行はお許し願いたい、と言った。
自分は聖域を血で汚した者であり、山に足を入れないことでガーラ神様への畏敬を示したいと思うのです、ということであった。
その考えにも首肯できるものがあったので、アルスはウォーヴァルガンを馬車の護衛に残した。
ウォーヴァルガンの妻は、バヌーストで魔法使いの部隊に入り、主城に常勤している。
男の子は、ボランテに剣才を認められ、内弟子のようになっている。
女の子は、火系の魔術に並外れた才能があるとかで、ヒマトラが引っ張り回している。
バヌーストで三番目の子が生まれ、アルスが名付け親となった。
その子だけではない。
この数年で、アルスは驚くべき多数の子の名付け親となった。
一人一人の名を覚えている。
その子たちを、すべての臣下と領民を、心から愛しいと思う。
そう思える自分に育ててくれた旅に、アルスは一生感謝し続けるだろう。
4
吹雪は収まった。
アルスたちは、スープを作って、ゆるりと食事をし、じゅうぶんに体調を調えてから出発した。
いかほども進まないうちに、前方に争いの気配がした。
駆けつけてみると、予想通りモンスターであった。
エッテナである。
だが、エッテナが襲っている相手は予想外である。
少年である。
黒い髪の、おそらく十歳になるかならないかの少年を、エッテナが襲っている。
いや。
襲っているのではない。
闘っているのだ。
エッテナは、どういう理由でかは分からないが、腰から下がつぶれている。
雪の上に血の跡を残しながら、長く強い両手で移動しつつ、少年をたたきつぶそうとしている。
少年は、エッテナから逃げつつ、振り返っては矢を射ている。
あれは、ティリカの弓だ。
と、アルスは気付いた。
ティリカの弓は、張りの強さを調整できるから、子どもにも使えなくはない。
だが、高価な品であり、山に住む子が持てるようなものではない。
また、エッテナはスノー・オーガとも呼ばれる凶悪な魔獣であり、上級騎士ででもなければ一対一で闘える相手ではない。
年端もゆかぬ少年ともあれば、間近にその恐ろしい姿を見ただけで全身を凍り付かせてたたずむほかない。
が、少年に恐れの色は見て取れない。
死に直面しつつ、心気が強く澄みきっているのが、離れた位置からも看取される。
そのことが、救助に駆けつけようとしたアルスの足を止めた。
アルスは、手でボランテとカジャの動きを制した。
もう少し少年の闘いを見届けたい。
少年は、ひるむことなく、タイミングを計っては怪物の顔に矢を撃ち込んでいく。
矢は、しばらくすれば消え、少年の背負う矢筒に新たな矢が補充される。
一本、また一本と、矢が怪物の顔に撃ち込まれる。
腰から下がつぶれている怪物は、雪の中で速くは移動できない。
それでも、逃げながら振り返っては弓を撃つ少年は、次第に追いつかれていく。
助けるべきか、とアルスは思案したが、なぜか窮地にあるはずの少年が勝つような気がしてならない。
と、大胆にも少年は、振り向いて弓を構えたまま立ち止まって大きく息を吸い、怪物のさらなる接近を許した。
アルスはわずかに目を見開いて、少年の挙動を見守る。
まさに、怪物が少年を攻撃の間合いに捉えたとき。
少年の放った矢が、怪物の右目から脳に突き抜けた。
少年は、勝ったのである。
が、命を失って倒れかかる怪物に、少年は押しつぶされてしまった。
雪の中のことであるから大きなけがにはなるまいが、と思いながらアルスは近寄り、怪物を少年の上からどかした。
少年の目が、まっすぐにアルスの目を見返す。
先ほどからそうではないかと思っていたが、このときアルスは確信した。
この子は、十歳ではない。
七歳だ。
八年前の私とシャリエザーラとの出会いによって生まれた子だ。
では、七歳の子が、一人でエッテナを倒したというのか?
少年を助け起こしながら、アルスは、
「見事な手並みと胆力だな。
だが、子ども一人で狩るには、エッテナは手強すぎるのではないか?」
と声を掛けた。
「雪崩で岩に腰をつぶされてた。
離れた所から弓でとどめを刺そうと思ったんだ」
と物怖じしない声で、少年は答えた。
「なるほど。
毛皮が欲しかったのか?」
「毛皮ならある。母さんが持ってる。
肉が欲しかったんだ」
しっかりした受け答えと、声色の涼やかさ、みずみずしい生気が、アルスの胸に言いようのない喜びをかき立てる。
「うむ。
エッテナの肉はうまいな。
そのままでは少し臭みがあるが、燻製にすれば最高のごちそうだ。
エッテナの肉が好きなのか?」
「食べたことない。
母さんが好きなんだ。
時々、エッテナの肉はおいしいんだよって、本当に幸せそうな顔で言うんだ。
母さんも、エッテナは燻製がいいって言ってた。
エッテナが死にかかってるのを見て、母さんに食べさせてあげられるって思って。
おじさん、燻製を作れるの?」
「作れるとも。
この少し上に、燻製を作るにおあつらえの岩穴がある。
その近くには、燻し木にもってこいの木も生えているはずだ。
肉を切り分けて持って行こう。
皮もきれいに剥いで、なめしてあげよう」
「おじさん、手伝ってくれるの?」
「うむ。
だが、その前に、首を落として血をしっかり抜いたほうがいいな。
やってみるか?」
とアルスは言いながら、特殊インベントリを開き、ボーラの剣を取り出して、少年に差し出した。
後ろでボランテが、えええっ、本気かよ、と驚いているが、気にしない。
むろん、七歳の子にエッテナの首が落とせるはずもない。
そもそも、このような重たい物を持ち上げることもできないだろう。
少年もそんなことはじゅうぶん分かっているはずだが、剣の輝きが少年の中の何かを呼び覚ました。
一歩前に出ると、アルスの手から、今は大陸に名高い神剣となった、この神銘恩寵品を受け取った。
持った瞬間、少年の目が光を放った。
いや、目だけではない。
その全身から光があふれ出るかのようである。
アルスは、神剣が恩寵を発動させたのを感じた。
そして、不安定な雪の中に立つ七歳児が、よろめきもせずボーラの剣を持つのを見て、息を飲んだ。
隣では、カジャが、みじろぎもせず少年を見つめている。
この子をバヌーストに迎えよう、とアルスは決めた。
それがシャリエザーラの願いでもあろう。
でなければ、平地の民の言葉を、これほど上手に話せるようにはしない。
むろん、シャリエザーラにも来てもらう。
もし、本人がどうしても山にとどまりたいと望んだら、この山に別邸を建てよう。
そして私は、冒険船に乗り込んで、遙かな航海に出るのだ。
そう未来を思い描いた。
東の海を探検する船と乗員は、着々と準備が進んでいる。
戦闘要員の公募枠選抜のための武闘競技会も開催される。
アルスは探検隊の指揮官となることを求められている。
それはアルス自身の願いでもある。
だが、母エッセルレイアは、それを許していない。
無理もない話ではある。
妻のセルリアは男児を産んだが、まだ幼く、健康に育つかどうかは分からない。
ラウラは女児を産み、第二子はまだ得ていない。
この状態ではアルスを帰還も定かでない旅には出せない、とエッセルレイアが思うのは当然である。
だが、この子を連れて帰れば。
母は一目で、父の孫であると知るだろう。
大喜びで迎えてくれるに違いない。
この子は、たくましく、健康である。
身も心も。
正妃はセルリアであるから、名義上の母はセルリアとなり、私の長男として、爵位継承の第一資格者となる。
この子がバヌーストに来てくれれば、私は冒険の旅に出ることができる。
少年が、倒れたエッテナに近づく。
そして、驚くべきことに、ボーラの剣を高々と頭上に振り上げた。
美しい刀身が、陽光をきらりとはじく。
明らかにこの少年は、剣の技を持たない。
にもかかわらず、剣を両手で構えたその立ち姿は、自然で力強い。
剣が振り下ろされ。
エッテナの太い首を、ただ一太刀で切り落とした。
これはあまりに予想外で、アルスは驚愕を禁じ得なかった。
まさか、本当に切り落とすとは。
しかも、ただの一振りで。
アルスの父がミノタウロスと出合い、一撃を打ち込んだのが、やはり七歳である。
神剣に認められたことで、この少年が正しくパンゼルの血を継ぐことは、いよいよ明らかである。
だが、この子は、それ以上のものを受け継いでいる。
英雄の血と、そしておそらく運命も。
アルスは、全身を稲妻が走り抜けるのを感じた。
天啓のように、思いが浮かんだ。
この子を連れて行こう。
冒険の旅に、どこまでも。
なぜ、置いていく必要がある。
何を守ろうというのだ。
バヌーストは、これから交易の要地として栄える。
かつてのような武力は必要ない。
では、これからのゴランは、何をもって王家とメルクリウスに仕えるのか。
他の大陸との交流。
海図の作成と交易路の確立。
特産品の調査。
文化の吸収と文明の発展。
海の向こうの新たな領地の開拓。
人と人との絆を結び、新しい世界を切り開くのだ。
冒険にこそ、これからのゴランの使命がある。
行こう。
皆で行こう。
ゴランのすべてを率いて、海の彼方に行こう。
誰も残る必要などない。
皆で一緒に行けばよいのだ。
大いなる旅により、この子も、私も、わがゴランの誰もが成長していくのだ。
ガーラの神は、そのために、まさに今、わが息子と出会わせてくださったのだ。
やっと答えを得たアルスの耳に、雪を踏む足音が聞こえた。
忘れるはずのない、懐かしい足音が。
振り向けばそこに、記憶通りの笑顔があった。
(了)




