挿話8
レベルアップが起こり、脇腹の傷も消える。
ミノタウロスは、ふと右の角にさわってみた。
半ばで切り取られたままである。
これは、あの男につけられた傷だ。
このぶざまな角にふれるたび、憤怒が吹き上がる。
やつを殺すまで、この傷は治ってはならない。
大きく息を吸う。
胸が熱く焼けるのは、空気が不浄であるからだけではない。
次なる敵を求めて、青い石を踏んだ。
出た所は、水の中であった。
かつて潜ったことのある泉の清涼な水とは、まるで違う。
白く濁って、生臭く、目を開けているのが苦痛であるような、腐った水である。
さして得手ではないが、泳ぐことはできる。
空気を求めて浮上しようとしたとき、何かに右足首をつかまれた。
見定める前に、右手のシミターを振って、その何かを斬った。
水中で動きは悪いが、断ち切れた。
斬撃を繰り出す際に、ぼこぼこと空気を吐いた。
青い石を踏む前に、大きく息を吸い込んでいたことが幸いした。
ミノタウロスは、人間には考えられないほどの肺活量を持つ。
しかし、無限に水の中にいられるわけではない。
この一呼吸分の空気を消費し尽くす前に、この敵を倒さねばならない。
足首をつかんだのは、ぬめぬめとした巨大な触手であった。
見れば五十歩ほど向こうに、ミノタウロスの何十倍もある巨大な怪物がいる。
その怪物から何十本という触手が生えていて、その一本が足をつかんだのである。
いまや、十本以上の触手が、ミノタウロスをつかもうとしている。
これを何とかしないと、浮き上がることもできない。
それにしても、ここに出てくる化け物どもは、どいつもこいつも生きている気配のしない、腹立たしいやつらだ、とミノタウロスは思った。
ぬめる水に動きを妨げられながらも、右手のシミターで四本、左手のシミターで二本の触手を斬り落とした。
左右同じ手数を出したのであるが、左の攻撃は、一度は触手をはじくにとどまり、四度目の斬撃は食い込んだままである。
左手のシミターは格段に切れ味が落ちるため、これは致し方ない。
左手のシミターを食い込ませた触手が、透明から白色に変化する。
シミターを引き戻そうとするが、引きはがせない。
新しい触手が伸びてきて、左手と左足に巻き付く。
見た目はぬるりとした質感であるが、実際につかまれると、ざらりとして痛い。
もう二本右から来たが、これは斬り落とした。
左手と左足が、突然激しく痛む。
ぼこぼこと泡を吐きながら、触手三本を斬って、体の自由を取り戻す。
さわられた部分の皮膚がどろどろに溶けて、一部骨がのぞいている。
左手のシミターは、先のほうが腐食している。
どうも触手は、透明のときはつかむだけだが、白く変色すると、物を溶かすようである。
何かをつかんだときには、接触した部分だけを白くできるらしい。
さらに、ミノタウロスは気が付いた。
最初に斬った触手は、本体のほうに引き戻されていたが、修復されて、また伸びてきている。
今、十何本の触手が、大きく回り込むように、ミノタウロスに近づいてくる。
息も苦しくなってきた。
ミノタウロスは、右手のシミターを左手に持ち替えると、右手を左肩の上に差し入れ、収納袋から、一本の剣を取り出した。
メタルドラゴンからドロップした剣の一つで、特殊攻撃ができる。
伸びてきた触手の三本を左手のシミターで斬り落とし、右手の剣の特殊攻撃を発動しつつ、触手に切りつけた。
濁った水中に、電撃が光る。
電撃は水中を走ってミノタウロスに、ばちっと衝撃を与えるが、肝心の触手はさしてダメージを受けたように見えない。
触手が二本、右足と右手にからみつく。
左手のシミターで右手の触手を斬り落とすと、右手の剣を、右足を溶かそうとしている触手に突き入れて、電撃を発動した。
今度は激しい反応があった。
右足にからんだ触手は、はじけて切れ、本体とすべての触手が、びくびくっ、と大きく震えた。
触手は、ミノタウロスを嫌がるかのように、一斉にさっと引いた。
命もないくせに、痛がることはできるのか、と思うと、ミノタウロスの腹立たしさは、いっそう募る。
と思うや、巨大な本体が、ぐわわ、と起き上がり、ミノタウロスさえ一呑みにできそうな口が開いた。
丸い口であり、外側から中心に向かって、剣のような歯が百本余りも生えている。
今までよりはるかに多くの触手が伸びてくる。
触手が十何本、一斉にミノタウロスにからみついた。
そして怪物は、ミノタウロスを引き寄せた。
触手は透明なままである。
長い距離を、ミノタウロスは抵抗もせず、怪物の顎に運ばれていく。
口は収縮しながら、獲物を待ち構える。
いよいよ口の直前に、ミノタウロスが来ると、くわっ、と口を大きく開けた。
そして、この大きな餌を、口の中に、ぐいっ、と差し込んだ。
ミノタウロスは、右足と左手のシミターを、怪物の歯に引っかけ、自分の体を怪物の口の中に押し込んだ。
怪物の口が閉じられ、ミノタウロスの右足首が、切り取られた。
その痛みにも構わず、ミノタウロスは、右手の剣に雷撃を発動させ、怪物の口の中に突き立てた。
ばちばちばちばちばちっ。
いったん真っ暗になった口の中で、怪物の赤い口腔を照らしながら、電撃が暴れ回る。
ミノタウロスも、その電撃に撃たれ、最後の空気をはき出しながら、身もだえしている。
怪物の消化液が、容赦なくミノタウロスを溶かす。
もはや肺内にはひとかけらの酸素もない。
頭は割れるように痛み、体はねじ切れそうである。
だが、ミノタウロスは、一切に構わず、最大出力で電撃を放ち続けた。
どれほど地獄の時間が続いたか、どこかで何かがはじけるような音がした。
急に怪物は力を失い、口が開いた。
その口を通して見る水底に、青い光が灯っている。
ミノタウロスが、必死に青く光る石にたどり着いたときには、レベルアップも終了し、体は元に戻っていた。
半ばで斬り落とされた右の角を除いて。