4. engua para d' atē-1
『汝等は徴と奇跡を見ざれば信ぜず』
――ヨハネ福音書 4章48節
『師よ。あなたは神が愛だと言われる。だがこの苛酷な現実に神の愛はどこにあるのでしょう。現実には神は黙っているか、怒りしか見えないのです』
――イエスの生涯 第十章 逮捕の夜/遠藤周作
* * *
光田葉子さんは、綺麗な人だった。
目元が涼しげで、頬や顎がほっそりとしているから、冷たい印象を受けてもおかしくはないのだが、円に近く膨らんだ唇の愛らしさが、その印象を抑えていた。
葉子さんは、この事務所で、主に事務処理とか、渉外活動や営業を担当している。
彼女は知的だった。事務所に届く新聞を読むのは、事務所の主ではなく葉子さん。暇な時には、金子光晴やら吉本隆明やら横光利一の文庫本とか、外国の学者の本と思われる分厚いペーパーバック(もちろん英語)なんかを広げている。
年齢は、失礼に当たるから聞けないが、見た感じでは二十代半ば。読書と観劇が趣味というインテリっぷりだけれども、台湾の某アイドルグループにハマり、追っ掛けに近い活動もしていると、こっそり聞いた。この事務所がそんなには忙しくないから、そういう活動も出来る。
名前を教えてもらって祥が真っ先に思い出したのは、あしたのジョーに出て来る白木葉子だった。
その話をしたら、よくそんな古い漫画を知ってるわね、と半ば呆れられた。何の事はない、ケーブルテレビのアニメ専門チャンネルでは、そういった過去の名作も沢山流されているので、それで見たのだ。
有名大学出身、留学先もアメリカの一流大学。こんなうらぶれた場所にいるのが、極めて不自然に思える人だった。
なんでも、この事務所の主に協力するのが、彼女の家に代々伝わる家憲なのだとか。やや遠い祖先がひとかたならぬ恩義を受けたらしい。
だから彼女は、この事務所の主が、老いも死にもしない事を知っている。
そして黒崎祥が、巻き込まれ已む無く戦っている事も。
それにしては、彼女は容赦がない。祥は徹夜に近い状態で、夜が明ける少し前にようやく眠ることができたのだから、もう少し寝かせておいてくれてもいいのに、容赦なく揺り起こされる。
「ちょっと、何時だと思ってるの? そんなに寝てばっかりいたら、牛になっちゃうよ」
「……十時、ですよね……分かりました、起きます、から」
怠そうに呟いて、祥はもぞもぞと起きだした。
帰ってきてすぐに眠りに入る、という訳にはいかなかった。こういう時には、のび太のいつでも何処でも一瞬で寝られる特技が心底羨ましくなる。
生命が存続の危機に晒されて、脳から何某かのホルモンやら興奮物質が分泌されているのかもしれない。寝転んでみても動悸は激しいし、目が冴える。
無理矢理寝たら、寝覚めは最悪だ。あまり寝た気もしない。
夢など見るべくもない。きっと見たとしても、とんでもない悪夢になってしまう予感があった。
ここに来て一週間。奴等が現れたのは一度。
昨日(というか今日未明)は、蠍の形をしていた。
もう日付も変わって寝ようという頃に現れた。何だかんだで帰って来られたのが、朝日が昇る少し前。
現在祥は、利便性を第一として事務所に寝泊りをしている。ここは事務所だとカインは言ったが、奥には彼の部屋がある。正確には事務所兼住居だった。
この事務所の隣が空室なので、契約が済み次第引っ越してくる予定だったが、今はまだ契約が完了していない。今日か明日には書類を交わす予定だった。
とにかく、そんなこんなで、祥はソファで寝ていた。ベッドを半分貸すかとカインに実に愉快そうに聞かれて、丁重にお断りした。
それが葉子さんのベッドだというのならば考えなくもなかったが、葉子さんは勿論別の場所に住んでいる。
殺される、そんな恐怖を抱くような余裕も、まだない。
奴等は巨大だったし、ただ存在を消そうとそれだけを指向した動きは無機質で不気味で、得体の知れない、言葉になる前の恐ろしさが胃の奥から止めどなく沸き上がった。
蠍の奴の鋏を、祥は避け切る事が出来なかった。体はやはり勝手に動いて、避け切れないながらも直撃はしなかったし、あのプロテクターには、どういう仕組みかは知らないが、奴等の攻撃を中和する働きもあるらしく、右肩から下が消えたり、胸に穴が開くという事はなかった。
カインの解説によれば、その効果はある程度までに限られるので、直撃を受けてしまえば分からないという話だった。
相変わらず涼しい顔をして解説するので、腹が立つ。
何回、あれを使うと死ななくなるのかも聞いたが、分からないと言われた。
「死も、表象としての死という概念の奥に、本質としてのイデアを持っている。その、目には見えないイデア界に実存している君の死について、どれくらいの量があるかとか、どの程度の期間で食い尽くされてしまうのかなんて、分からない。人によって違うし増えたり減ったりするし」
相変わらず説明は意味不明だったが、分からないという事は分かっただけでも良しとすべきなのだろうか。
当たり所が悪ければ祥は消されるし、いつまで戦えるのかも全く分からない。今日死んでも、死なない体になってしまっても、どちらも不思議はない、という事だった。
不思議な事だが、実感が湧かない。その事実は、確かに重いし恐ろしいけれども、掴み所が全くなくて、ぼんやりとしている。
死んでしまうという実感が湧かないから、生きたいという思いにも実感が伴わないのかもしれない。
どこか他人事を脇から眺めているような気持ちを織り交ぜて、祥はそんな分析をしていた。
この騒動の元となっている、虚無を呼び出している何者かの探索については、目立った進展は今のところなかった。
誰が何処で、何の為に。祥を狙っている以上敵は近くにいるのだろうとカインは言ったが、推測に過ぎなかった。
カインによれば、奴等を大量に呼び出すにはそれなりの規模の術式とそれなりの広さを持った場所、そして規模に見合うだけの量の生贄が必要となるという。
本来ならばその術式は実現しない筈だった。古代アトランティスにおいて、その術式を成り立たせたオリハルコンは、アトランティスの大地と共に海の奥底へ沈んでしまったのだから。
それにしても生贄だなんて、嫌な感じのする言葉だった。
人間かもしれないし、何か動物なのかもしれない。涼しく言われたのもまた面白くない。
大規模な術式と大量の生贄。あまりに漠然とした手掛かりだったが、情報収集を行っているのは葉子さんだった。
正確に言えば彼女ではなく、彼女の実家が、それを行っていた。
葉子さんは気さくな人なので忘れそうになるが、彼女の実家は、大手都市銀行・ひかり銀行を筆頭とする光田グループの宗家。彼女は次女だった。
本人の言動だけではなく、周囲の人間まで漫画っぽく嘘臭いだなんて、本当にどうかしている。
葉子さんはいい人だったのだが、いつもうっかり忘れそうになる彼女の出自にはどうしても馴染めなかった。
* * *
今のところは、明るい内に帰りさえすれば、昼の行動には特に制限はない。
名目上とはいえ雑用係として雇われた祥は、参考書籍なのだろう、数冊の本を買い求めるべく、大きな本屋へとバイクで向かっていた。
あの事務所で使うような本は、大抵は普通の書店には置いていない。
普段はネットショップを利用しているが、買い忘れや急に必要になったものなどを買う為には、郊外にある大きな書店に出向く必要があった。
こうしていると、夜の出来事など、全て夢だったのではないかという気さえしてくる。
自分でも知らなかったが、案外調子がいい所があるようだ。
大通りは車が多いので、一本外れて本道と平行に走る脇道を進む。
角を曲がると、やや先で、車道のど真ん中に屈み込む人影があった。
対向車線に車はいない。避けられない事はなかったが、もしかしたら具合が悪くなって動けないのかもしれない。顔が分からないのではっきりと判別できないが、体型などを見た感じでは女性のようだった。
減速して、祥は人影からやや離れた路肩にバイクを停めてキーを抜くと、駆け寄った。
「どうしたんですか、大丈夫ですか?」
近づいて声をかけると、女性は顔を上げた。
「……私は、何とも、ないです」
祥はびっくりしてその女性を見つめた。息が漏れて、バイザーの口元がやや曇る。
彼女は泣いていた。ぽろぽろ零れる涙を、拭う様子はなかった。
若い、女性。くっきりとしたラインの目元は、吊り上がりも垂れ下がりもしていない、濃い睫毛は上げていないのだろう、やや大きめの瞳に濃い影を落としていた。
睫毛だけでなく、総じて化粧っ気は薄い。眉だけは、剃っているためかくっきりと描かれている。
鼻と口は小振りな作りで、肩にかかるほどのセミロングの髪型。首など、片手で掴めそうなほど細く見えた。
彼女がしゃがみ込んだその向こうに、固まった血がこびりついて、頭から何かはみ出している、小さい猫が落ちていた。
猫の目はまるで生きているみたいに開いていて、どこかうっとりと夢でも見ているような、そんな色をしていた。
何に驚いたのかが、祥自身にもよく分からなかった。
車に轢かれてしまったのだろう猫の亡骸には勿論びっくりした。それを見て、こんな車道のど真ん中で泣き続ける彼女にも驚くし、何か他の事にも驚いているような気がするが分からない。
「……えっと、とりあえず、ここだと車の邪魔になっちゃうから」
「でも……この子……このままじゃ」
「市役所に連絡したら引きとってくれるよ」
「えっ、そう、なんですか?」
祥が頷くと、女性の涙が零れる速度は、やっとゆっくりになっていった。彼女はしゃくり上げながら、ハンカチをバッグから取り出して、そっと自分の涙を拭っていた。
携帯電話を取り出して市役所へと連絡すると、担当に繋がれ、二十~三十分ほどで引き取りに来てくれる手筈となった。
電話を終えて携帯電話の終話ボタンを押し、ポケットに仕舞うと、路肩に寄った女性がこちらを見ていた。
「あの……ありがとうございます。私、邪魔でしたよね?」
「ううん、ここあんまり車通らないから、避けられないって事はないし。でもちょっと危ないかもね」
「えっと、もう、大丈夫ですよ。お急ぎじゃないですか?」
「うん、全然。一人だと不安だろ? 俺も付き合うよ」
「あ……ありがとうございます……。あっ、私、水原眞弓っていいます」
「あ、どうも……俺は、黒崎祥、です」
唐突に名前を告げられて、祥がやや怪訝そうにすると、女性は慌てた様子で、目線を右に左に振った。
「えっと、あの……今日はちょっと無理なんですけど、後日きちんとお礼したいので、あの……ご連絡先、伺ってもいいですか?」
意を決した様子で、水原は早口でそう言い切ると、必死な様子でまっすぐ祥を見た。
そこまで大した事をしたわけでもないので、困惑はあるのだが、それよりは水原と名乗った女性の様子がおかしくて、祥は笑いを漏らした。
「いいよ。お礼とかは、別にいらないけどね」
笑顔で答えると、水原も安心したように、口元を綻ばせた。
携帯電話の電話番号とメールアドレスを交換すると、水原は心なしか嬉しそうに、登録されたアドレス帳を眺めていた。
それを見て悪い気はしない。寧ろ、ともすれば、好意を向けられているのだろうかという(恐らくは)勘違いも芽生える。
じきに市役所の車が来て、猫は回収されていった。用事があるという水原は、何度も礼を言って、やや早足で駅の方向へと駆けていった。
それは、急に変わらざるを得なかった祥の日常の中で、少しだけ以前に戻れたような気にさせる、ちょっとしたハッピーな出来事に違いなかった。
だけれども、そんな上向いた気分が、いつまでも続くはずもなかったのだ。
* * *
時刻は二十一時を回って少し経った。
近い、とだけ言って、机に向かってキーボードを叩いていたカインが立ち上がった。
さっさと歩き出しドアを出て行く。何をするでもなくソファに体を横たえていた祥も、慌てて立ち上がって、その背中を追いかけた。
カインが先行するのにはいくつかの理由がある。奴等の存在を感じ取れるのが彼であるという事が一つ。
訓練次第で恐らく祥も出来るようになるとは言われたが、あまり気乗りがしなかった。出来るようになればこうしてカインに頼る事もなくなるのだろうが、いくら決意したとはいえ、祥はそもそも、戦いたくないのだ。気乗りなどする筈がなかった。
もう一つは、彼が、他者が立ち入る事が出来ない結界を張る術を心得ている事による。奴等の周りに張ってしまえば、周囲に誰も入って来られなくなり、巻き込まれる人は生まれないという寸法だ。
結界とか何とか言われても、祥に想像出来るのはせいぜいが、ゲームでそういうものがあったような気がする、程度だ。実感や現実味は湧かない。
近いのであれば、バイクを出す必要はないのだろう。ビルを出るとカインは大股で走りだした。祥も慌てて駆け出す。
この辺りは雑居ビルとマンションが混在しているから、夜九時頃であればまだ人通りはそれなりにある。急かされるように走っていく二人を、行き過ぎる人が不思議そうに見つめた。
祥は、夜の間、こちらから奴等が徘徊していないかを探しに行く事を提案したが、却下された。
奴等は祥を目指して来る。下手に動き回りすれ違うよりは、地利に明るい場所で迎え撃つ方が得策、というのが理由だった。
奴等はいつ、どこに現れるのか分からない。現れるのかどうかすら分からない。
言いたい事は分かるが、納得できなかった。
奴等がどこから来ているのかを祥は知らない。もし自分を探している間に、前のように、巻き込まれている人が出ているのならば。
嫌だった、そんなのは我慢ならなかった。祥に何か責任があるわけではないだろう、見も知らぬ、顔も名前も知らぬ人だ、そもそもそんな人がいるのかどうかすら分からない、いわば仮定の人だ。
それでも。その仮定の人がもし本当にいて、巻き込まれてしまったら。そう考えると、居ても立ってもいられなくなった。
角を曲がって、尚も駆ける。古めのマンションが立ち並んだ通りの、二十メートルほど先だろうか、街灯が点滅していた。
そいつは、既にある程度の巨大さをもって、宙に浮かび上がっていた。そいつには、翼竜のような形にも見える、立派な羽があった。
小振りな頭が恐らくあり、眼がある。全身が黒いのだから、暗がりの中で、黒い頭の中の黒い眼が判別できる筈はないのだが、他の部分よりも一段と濃い闇は、祥に向けられた。
足が竦む。走っている間握り締めていた掌には汗が滲んでいた。息が浅い。
まただ。また動けない。慣れるなんて事はあるんだろうか。正体が分かれば慣れる事が出来るのかもしれないと思ったが、虚無とかタルタロスとかそんなものは、いくら話を聞いたところで結局は分からないのだ。怖いものというのは、恐らく、全く分からないから、或いは分かりそうなのにどこかで決定的に分からないから、怖い。
奴等は、動作に音を伴わない。目の前の奴も、羽ばたいているのに空気を震わせていない。
「あなた達、逃げて! 早く!」
女の声がした。何で、どうして。祥は焦って、声のした方向へと首を向けた。
若い男と女が一人ずつ、ビルの影にいた。女は、ピストルを奴へと向けて構えていた。
逃げなきゃいけないのはあんたらだ。そんな事を言い出すわけにもいかず、祥は困惑して、カインを見た。
* * *
北野京子と東誠二がその現場に居合わせたのは、全くの偶然によるものだった。
ここ数週間ほど、世界各地で村ごと人間が消えてしまう事件が相次いでいる事は彼らも知っていたが、二人が所属する警察署の管轄内である、この近辺でも行方不明者が急増していた。
明らかに通常では有り得ない増え方であり、二人は行方不明者の捜索の為、目撃情報を聞き込みして回っていた。
捜査を開始してから三日ほどになるが、未だ目立った成果はない。時間も遅くなった為、車を停めた駐車場へと向かっていたところだった。
主に大通りで通行人から話を聞いていたが、コインパーキングはやや奥に入った所にある。大通りから歩いてきた二人は、古びたマンションが立ち並ぶ通りの角を曲がった。
やや先に女性が立っていた。別に不思議ではない。まだ時間も九時になるかならないか。大通りも仕事帰りの人々が行き交っていた。
女性と分かったのは、彼女がくすんだグリーンのチュニックを着てミュールを履いていたからだ。
だが、おかしいのだ。女性の肩から上が、見えない。
不審に感じて北野京子は足を止めた。何がおかしい? 女性はまるで、黒い袋を頭から被ったようだ。古くなっているのだろうか、街灯が点滅している。
その不可解さが何なのか分からない。だが、全身の毛穴が開いていって、体温が急激に下がっていくような感覚があった。
「……何だ?」
やや後ろを歩いていた東誠二が歩を進めようとしたのを、北野は手で制した。
袋をかぶっているのでも、何でもない。あれは、肩から上が、ないのではないか?
そう思った刹那、女性の肩から上を覆う黒が一気に腰の辺りまで伸びた。そして、女性の腰から下と、それから、肘から下の腕二本、手に持っていたバッグがアスファルトに転がった。
何か、細長い赤白いものや、赤黒い塊が、べちゃりと散らばった。あれは、腸や肝臓それに脂肪、ではないだろうか?
「東君!」
咄嗟に、北野はホルスターから拳銃を取り出しながら、道脇へと駆けていた。呼び掛けられ東は慌ててその後を追う。
あれは、良くない。危険だ。何なのかはよく分からない、そんな事しか感じられなかった。もし彼女に警察官としての正義感や責任感がなければ、全速力でその場から逃げ出していただろう。
ビルの影から覗くと、女性の下半身は見えなくなっていた。明滅する街灯の光も、それを浮かび上がらせる事はない。彼女が居た場所は、ただただ、黒い闇に包まれていた。
瞬きも出来ず二人がその場を見守る。やがて、闇は宙に浮かび上がって、はっきりと分かるような形をとった。それには、始祖鳥や蝙蝠のような翼があった。
地面には、彼女の落としたバッグと、赤黒い血痕だけが残されていた。
かちゃりと、東が拳銃を構える音がした。銃など効くのだろうか。分からない、よく分からないが、北野と東を守るものはこの拳銃しかない。
そんな時に、息を呑む二人が隠れるビルの、目の前の何か分からないものを挟んで反対側から、青年と外人が、息を切らせ駆けてきたのだった。まるでここを目指してきたかのように。
北野が呼びかけると、青年は、困惑しているようだった。それはそうだろう、目の前にこんなよく分からないものが居ては。
「δεν μπορείτε να δείτε και να αγγίξετε, γιατί καλύπτεται από το σκοτάδι του άβυσσο.」
外人が手を軽く上げて、何か言ったようだった。助けを求めているのだろうか、逃げろと言った言葉が分からないのだろうか? そう思った時には、駆け込んできた二人は北野の視界から消えていた。
二人だけではない。宙に浮かび上がった、あの闇のようなものも。
「…………何? 何なの?」
「さあ……」
街灯は明滅を続けているが、女性の落としたバッグももう消えている。不思議な事に血痕も見えない。
「これ……もしかして、行方不明事件……ですかね?」
東が、力のない語調で口にしたが、北野に答える言葉などある筈もない。今目の前で起きた出来事が、本当にあった事なのかどうかすら、分からないのだ。
しばらく二人は、何もなくなった夜の道を、ただ見つめていた。
* * *
黒光りする、濡れたアスファルト。側に転がった白い合皮のバッグ。
それだけ見えれば、何が起こったのかを想像する材料としては十分だった。
「何で……そうやって、お前ら……お前ら!」
何に腹が立っているのか、よく分からなかった。目の前のものになのか、後手に回らざるをえない状況になのか、カインになのか自分になのか。
もうどうしようもないのだと思った。無くなってしまったものを取り戻す術などない。
神がどうとか言うのなら、何でこんな事になるのだろう。人が愛されていないからか。人を救わないのか。
争って傷付けるから、身勝手で愚かだから、見捨てたのか。こんな事をどうして、許せるというんだろう。
それは翼をはためかせた。高度を上げていく。祥は腰に下げたポーチから、「箱」を取り出した。
それが滑空して迫ってくる頃には、漆黒の鎧に包まれた右手が、思考は伴わないで剣を抜いていた。
頭上を払うが、それは急激に上昇して、刃は届かなかった。そのまま頭上で旋回を続け、様子を伺っている。
マンションの二階か三階ほどの高さだった。飛ぼうとすれば、奴は、さらに舞い上がる事も可能だろう。
「君は飛べるよ、飛んで!」
カインが叫んだ。うるさい、としか思えなかった。だけれども駆け出す。
助走をつけて飛び、電柱を蹴り、向かいのマンションの壁を蹴った。飛んだ軌道上に、それの姿が見えた。飛べた。
見えた、と思ったその時、空気が撓んで大きく揺さぶられた。強い風、いや違った。耳をつんざくような、高い高い金切り声のような音が、額から頭の後ろへ通りすぎていった。簡単に吹き飛ばされて、体の自由が利かず落下する。
何度か空中で回転して、アスファルトに叩きつけられるのだけを避け、よろけながら着地した。勢いが余り、後ろに倒れこんでややアスファルトを転がされる。
「……おい! どうすんだよ、これ!」
「射抜け。使い方は知ってるだろ?」
苛立たしげに祥は叫んだが、返ってきた答えは淡々として短かった。
射抜く。そうやって言われると、祥は使い方を知っているのだ。今までそんな知識など頭のどこにもなかったのに、自然に浮かび上がってくる。
カインにも腹が立ったが、自分が知っている事には尚更腹が立った。勝手だ、皆勝手で、都合も考えようとしない。自分勝手で。俺もだ。
剣を左手で逆手に持ち、掲げた。
――彼は全ての源、全てはそこに還り、そこに眠らん。
――されば、闇は光に、水は土に、剣は弓に。汝望むままに。
ブラックライトのようにほの青く光った左手の剣は、弦の張られた弓と一本の矢へと、姿を変えていた。
矢を番え右手で弦を引く。固い弦を引く右腕に、全ての腹立たしさを込めたかった。
上空で旋回していたそれは、やや上へと浮遊した。また降下してくるつもりなのかもしれない。だがもうそんな事はどうでも良かった。
引き絞られた弦が限界まで張られ、鏃に鋭く光が灯った。
それが急降下を始め、祥はそれを見てから右手を離し矢を放った。
一瞬だった。上空で、夜の闇より暗い闇が弾けて、拡散した。音はなく、散らばっていった。
* * *
「何でだよ……」
帰り道を半分ほどまで来たところで、祥はようやく口を開いた。
それまで、目線を逸らして、眉を寄せていた彼に、カインは特に何も声をかけていなかった。
「何が?」
「何でこんな事になっちゃうんだよ」
拗ねた子供のように、やや震えた声で、祥は呟いた。
歩きながらカインはちらりと祥を見たけれども、すぐに目線を前に戻した。
「何か原因や理由があると思ってるのか?」
「あるだろ、普通」
「敢えて探すとすれば、俺達の力が足りないから、という事になるだろうね。でも俺は、君は精一杯やってると思ってる」
「……だって、もっと早く着いてたら」
「夜の間奴等を探す事を言ってるなら、それは非効率だって説明したと思うよ。もし、奴等を探すためにもっと遠い場所にいて、着くのがもっと遅れたら、あの二人はどうなってた?」
「黙れよ! あんたそうやって、効率だの非効率だの、何でそんな事言えるんだよ!」
立ち止まった祥に怒鳴りつけられて、カインも足を止めた。
「何で、何で、どうして、あんたの言う通り神様ってやつがいるなら、こんなの、何とかしてくれりゃいいだろ! 何なんだよ!」
昂った気持ちを、何にも通さずそのまま、口から叩き付けるように祥は怒鳴った。それを聞いてカインは、言われた事がやや意外だった、というような、怪訝そうな顔をしてから、息を一つ吐いた。
「……君の神様ってのは、随分都合がいいんだな」
「何……!」
「神様が奇蹟でも起こしてくれて何もかも上手くいくんだったら、そもそも君はこうして戦っちゃいない、俺がこうしてる事もなかった。君は神様の救いって奴が、自分の都合通りに事が運ぶようにしてくれる事だと思ってるようだけど、それは勘違いだ」
「……じゃあ、何なんだよ、何してんだよ!」
「何もしやしないさ。神は常に沈黙でもって答える」
「……助けて、くんないのかよ……いるんだろ、神様……」
「君の期待するような助け方は、してくれないだろうね。君の言ってる事は、免罪符を買えば天国に行けるって言って売りつけるのと大差がない。免罪符を買った連中が、そのお陰で天国に行けたと思うかい?」
カインの言う事は、いつも通り意味が分からなかった。もうそんな事はどうでも良かった。ただ、こんなのは嫌だった。
誰でもいいから、誰かにどうにかしてほしい。今すぐに。
そうだ、誰でもいい。
誰か、などという人は誰もいはしない。ひどく悔しくて、祥は顔を歪めて、側の塀を殴りつけたけれども、右手がすりむけて血が滲んだだけだった。
こんなしんどい思いしてまで書くのやめようって数年前思ったのにまた繰り返している私って……。
そして出来はしんどさとは別に比例しない罠。すいません相も変わらずgdgdで……。
もうちょっと明るい場面も挟めればいいんですけど、何か考えたいなぁ。