2. アリアドネの糸-2
『Wer mit Ungeheuern kampft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird.
Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.
(怪物と戦う者は、その過程で自らも怪物と化さぬよう心せよ。
お前が深淵を覗くとき、深淵もまた等しくお前を覗いている)』
――Jenseits von Gut und Bose/Friedrich Wilhelm Nietzsche
『Gott ist tot! ! Gott bleibt tot! Und wir haben ihn getotet.
(神は死んだ!! 神は死んだままだ! そして我々が神を殺したのだ)』
――Die frohliche Wissenschaft/Friedrich Wilhelm Nietzsche
* * *
物陰からおずおずと現れた人影を見て、祥は目を見開いた。
和樹は躊躇いがちに足を進めると、祥からやや距離をとって立ち止まった。
「お前……逃げろって」
「お前を置いて逃げられるかよ……お前、どうなっちまったんだ?」
「……さあな。俺に聞くな」
和樹は泣き出しそうな顔をしていた。つられて祥も、泣き出しそうな気分になった。
和樹は仲のいい友人だ、気が合うし、いつもつるんでいる。でも、命を懸けるような大切な友達なのかと聞かれたら、すぐにはいとは答えられない。
祥と和樹はいつも、日常の、どうでもいい話ばかりしていた。深刻に悩むという事がそもそも祥にはなかったし、和樹はどちらかというと一人で抱え込んで自己完結するタイプだ。楽しければいいのだから、二人とも、場の雰囲気を重くするような話は避けていたのかもしれない。
そうだ、自分に、心から失いたくない大切なものなど、果たしてあるだろうか。祥はふと考えた。
和樹にとっては、祥は、命を引き換えにしても見捨てられないのだろうか。それとも、それが例えば、祥ではなく、捨てられた犬でも?
自分は和樹の事など少しも分からない。祥は微かに、自分に対する怒りを覚えた。
こんなに、必死に考えた事などなかった。考える必要もなかった。
「俺に分かるように、ちゃんと、説明してくれ。何が起こってるんだ、一体、何だっていうんだ」
祥の声はやや怒りを含んでいたかもしれない。自分でも、不機嫌そうな声だと感じた。これでは八つ当りだ。そう思ったが、コントロールは出来なかった。
「無論そのつもりだよ。有無をいわせず引きずり込んじゃったわけだし。君も、済まなかった。ここだと何だ、場所を移そう」
カインは素直に頷いて、和樹に向かって申し訳なさそうな顔で軽く頭を下げると、歩きだした。彼は白い綿のシャツを着ていたが、胸に大穴が開き、胸から下は、鮮やかな赤に染められている。
彼は、何で平然と生きているのだろう? それもまた分からなかった。
だが、一番分からないのは自分だ。
何故、まるでこうなることが当たり前だったとでも言わんばかりに、こんなに心が静かなのだろう。
見たこともないようなものを見て、訳の分からない怪物に殺されかけて、意味の分からない事ばかり言われたのに。
いつものように、どうでもいい、どちらでもいいと、心のどこかで、思ってしまっているのだろうか。どうせ、どうにもならないから。
そんな自分の感じ方が、祥は何より嫌だった。だけれども、そう感じてしまう事はやめられない。その嫌だという感情すら、どちらでもいいと流される。
俺は、一生懸命喜んだり、悲しんだり、きっと出来ないんだろう。何か大切なものが、最初からないのかもしれない。
一抹の寂しさを感じただけでその感情も流れていった事に、祥はやや苛立ちを覚えて、足音高くカインの後を追った。
* * *
道を歩いても、カインは何故か誰の目も引かなかったし、警察や救急車が呼ばれる事もなかった。
夜とはいえ、繁華街が近いためか、それなりに人通りはあるし、車の往来も途絶えないのにだ。
「君達もさっき、最初、俺がいるのに気付かなかったろう? 位相を少しずらしてやれば、普通の人間には分からなくなるのさ」
相変わらずカインの答えは意味が分からなかった。
やがて彼は、あるビルの中へと入っていった。
古ぼけた雑居ビルだった。人二人がすれ違うのがやっとかと思われる、狭く傾斜の急な階段を昇って、カインは三階にある一室の鍵を開けると、中へ入った。
電気を付けると、机が幾つか並び、何百冊もの本が本棚に収まりきらずに高く積み上げられていた。カインは奥に入り、すぐに出てきた。服を着替えたようで、紺色のTシャツを着ていた。
「……ここが、あんたの家?」
「仕事場だよ。翻訳やってるんだ」
周囲の様子にもカインの答えにもぽかんとするしかない。まさか仕事を持っているのだとは思わなかった。
「そこに座ってて。一応お客さんだからね。夜中だからコーヒーはまずいか。お茶が……あっ、昆布茶でもいい?」
「……何でもいいよ」
乱雑にビニールのパッケージやカップなどが積み上げられた棚をがさごそとまさぐって、カインが明るい調子で訪ねる。
あんな光景を目の当たりにしたばかりの人間の言動としては、不適当だった。
カインはあれについて良く知っている様子だから、もう慣れっこという事なのだろうか。
「はいお待たせ」
向かい合わせに置かれたソファ、その間にあるテーブルに、昆布茶が並々と注がれたマグカップを置いて、カインは祥と和樹の向かいに腰掛けた。
一口啜る、落ち着く味はする。喉を滑る昆布茶の香りと温かさは、心地いい。
「さて、どこから話せばいいんだろうな。最初からでいいかな。暫く今の状況と繋がらないけど、我慢して聞いてもらっていいかな?」
祥はその言葉に頷いた。今までのやりとりから、カインに簡潔な説明は期待していない。
「ありがとう。さて……それじゃ。まず、最初に、宇宙にまだ何もなかった時の話から」
「そんな所からかよ!」
暫くは今の状況と繋がらないとは言われた、確かに言われた。それは認める。
だが何故、宇宙創成の話からなのか? あまりにも理解出来ない。
「うーん……ちょっと退屈かもしれないけど」
「……分かった。最後は繋げろよ」
渋々頷くと、カインはにこりと笑って、ようやく話し始めた。
宇宙に最初に現れたのは、大地、愛、深淵、そして混沌だった。混沌という言葉よりは、何か割れ目のような、境界を破るもの、とでも言った方が適当かもしれない。
カオスは神々が存在出来る空隙を生み、夜と幽冥を生んだ。
まずニュクスとエレボスが結ばれ、古き原初の神々が次々に交わりあるいは一人で子を成し、新たな神が生み出されていき、世界は光と闇を得て、時を運命を紡ぎ始めた。
やがて、ガイアの恵みのもと、旧き原初の神々と共に生きる人間たちが現れた。
彼等は不死ではなかったが不老。地は耕さずとも実りを生み出し、人は怒りも妬みもなく生きていた。それを、黄金時代と呼ぶ。
黄金時代を生きていた種族――黄金の種族はやがて、大神ゼウスがオリュンポスの実権を握ると、じきに滅びた。何故滅んだのかは分からない。
だが、彼等は完全には滅びてはいなかった。旧き神アトラスの加護を得た、アトランティスという島で、彼等は細々と幾代も命を繋いでいた。
アトランティスに住む黄金の種族はアトラスを祀っていたけれども、他の神々を崇拝する者もいた。その中には、最も旧き神の一人であるエレボスを崇拝する者たちもいた。
アトランティスは、忘れ去られた島だった。黄金の種族は戦いを好まず、身を守る術もない。
だが、アトランティスは神々の怒りを受けて、大津波に飲み込まれ、一夜にして滅びた。
彼等は、望んではならないものを望み、作ってはならないものを作ってしまったからだ。
黄金の種族は不老で長寿だったが、不死ではなかった。好奇心と探究心から、神々と同じに不死を得ようとする者たちがいた。
彼等は、アトランティスで豊富に産出されたオリハルコンという金属を使って、一つの装置を作り上げた。
オリハルコンには不思議な力があった。力場を安定させる力。外部から別の力を加えればそれは、膨大な運動エネルギーを発生させて力場を不安定にし、捻じ曲げ引き寄せ、ある地点、ある次元と別の場所とを繋ぐ装置として働いた。
人の最も重い罪とは、神をも恐れぬ好奇心に他ならない。彼等は、決して呼んではならないものを呼び出した。
それが、虚無。カオスから生まれ、タルタロスより這い出てきたそれらに、人間の『死』だけを喰わせる。死を喰われた人間は、死を失って死ねなくなる。
それを行い制御するための装置が、祥に渡されたものだった。
実験は失敗した。這い出てきたのは虚無だけではなかった。
迷妄、労苦、飢餓、無法、復讐、諍い、憎悪、猜疑、病苦、貪欲、傲慢、嫉妬、殺人、貧困。それから、それから。
ガイアや不和が産み落とした様々な異形の神々が産み出した想念。タルタロスへと沈んでいたそれらが形をとり、冥府の底から溢れ出した。
這い出たものは制御出来ず、その場の人々を悉く喰らい無へと還した。
アトランティスは湧き出したものによって、大混乱へと陥った。装置を持って逃げ出した者が、程近い所にあった神殿へと逃げ込んだ。
神殿は神の加護によって結界が張られ、守られている。一人の巫女が装置を受け取った。
彼女の仕える神は原初の幽冥を司る神、エレボス。タルタロスとはしばしば混同されるほど近しい、旧き神だった。
彼女は装置に、彼女が仕える神の加護を与え、虚無を深淵の向こうへと送り返すことが出来るようにした。
皮肉にもそれによって、装置は完成した。装置を用い、形をとった虚無を送り返すことは出来た。だが装置を動かしているのは、オリハルコンの働きで装置内へと呼び込まれた虚無の力だった。それを用いた者は、装置の本来の働き通りに、代償として『死』を喰われた。
人が不死を得た事に神々は怒り、アトランティスは海の底へと沈められた。
「そして、『死ぬこと』を喰われてしまったのが、俺」
祥も和樹も、どう返答していいのか分からず、二人揃ってぼんやりとした顔でカインを見た。
今のは神話の話ではなかっただろうか。
それに登場していた人物が、自分ですと言われて、どう反応すればいいのか。
「……まあ、信じられないよね。それが当然だ。だけれども本当の事だからどうしようもない」
言ってカインは拘りなさそうに笑った。
「それで、アトランティスが沈んだ時に、そこに住んでいた人々も波に攫われて、大体は溺れ死んでしまった。エレボスの巫女もだ。彼女は忘却の河を渡り、幾度も生まれ直した。ある時は小さな虫だったし、ある時は鵲だった。ある時はサバンナを駆けるガゼルだったし、蛙だった事も、名前もつけられていない花だった事もある。そして、今は君だ」
* * *
昆布茶は冷めていた。藻のようにも見える成分が沈殿し、透き通った抹茶色の液体の中で、ゆらゆらとたゆたっている。
オリハルコンで作られた鎧。エレボスの加護があって初めて、使役出来る力。
暗闇、幽冥の神の加護が、あの鎧の色を漆黒に染めている。
「本当は、俺が片を付けられれば一番いいと思う。君には本来は何の関わりもないことだ。だけれども、奴等は死を喰らって力にする。死ねる者でなければ、パンドラの箱は動かせないんだ」
「俺が、彼女を間違える筈はない。そして君があれを使えたことこそ、何よりの証拠だ」
だから、俺に何をしろって?
すっかり熱を失った昆布茶を一息で飲み干して、祥は、やや斜め下を見て目線は合わさないまま口を開いた。
「そんな昔の事は分からないし、昔あんたが追い返したんだろ。何でまた出てきてるんだ」
「目的は分からない、誰かは知らないが、呼び出している者がいるからだ。そいつらは、君がパンドラの箱を扱えることも知っているようだ」
幾らだって湧いて出てくる、きりがない。
あんなものに命を狙われ続ける。これから、ずっとだ。
さっきは切羽詰ってもいたから、勢いでやってしまったけれども、こうして落ち着いてみれば、やはり理不尽だという思いの方が先に立った。
目の前で穴の開いた胸があっという間に塞がったのでなければ、カインの話した事だって、気違いの妄想で済ませてしまえた。
「……何で、誰かが呼び出しているって言い切れる?」
「タルタロスというのは、どんな怪物でも自力で這い出せる場所じゃないからだよ。冥府の底、いや底のない奈落だ」
古い蛍光管の灯りは、ひどく青白く、空になったマグカップをテーブルに置けない祥の手を照らした。
「……祥、どうなるんだよ。なんだよそれ、意味分かんないよ。なんで祥が、あんなのに狙われなきゃいけないんだ? 何も悪い事なんかしてないだろ?」
ぼそぼそと低い声で、和樹が言った。その言葉は祥の気持ちを代弁していたし、日常の感覚を持つ者であれば誰もが思うことだったろう。
それを聞いて、カインは、少し困ったような寂しそうな、そんな風に眉根を寄せた。
「こんな言い方をすると、怒られちゃうかもしれないけど……。偶然でもあり必然でもあるとしか言い様がない。俺は神じゃない、出来る事があるとすれば、祥が戦う手助けをする事だけだ。幸い頑丈なんでね、盾役にはもってこいだし、長い事生きてるお陰で、多分、色々出来る事はある」
「あんた、ふざけんなよ! そんな事言われたって、何で祥がそんな目に合わなきゃいけないかに答えてないだろ!」
「他人が答えられる答えなんてないんだ。それは祥が自分で見つけるしかない、俺は手助けしかできない」
興奮して怒鳴りつけた和樹に、カインはごく静かに答えた。今まではずっと柔らかかった彼の表情は、硬く厳しくなっていた。
視線の強さに和樹は気圧されて、黙りこくってしまった。
「……和樹、もう帰れ。今まで、ありがとな」
「何……言ってんだ? お前?」
「あんなのに狙われてるのに、他の人間巻き添えにしたくない。お前の事もだ。大学もバイトももう行かない。お前ともこれっきりだ。図々しいかもしれないけど、この事は黙っててくれ」
わりとあっさりとその結論は、祥の口から自然に出てきた。それに自分自身では驚きは抱かなかった。
巻き添えにしたくない。それが大切だからなのか、それとも関心が薄いからなのかは自分では判然としなかったが、どちらにせよ巻き込みたくないのだから、同じ事だった。
寂しい、助けてほしい、感じていないといえば嘘になる。
だけれどもきっとどうにもならないのだし、心のどこかでどうでもいいとも思っているのだろう、きっと。
ただ、誰にも迷惑だけはかけたくない。脚だけなんて、それすら消えてしまうなんて。あんな思いはもう沢山だった。
「あんたの力も借りる気はない。あんたの事好きになれそうにないし、付きまとわないでくれ」
一方的に告げて、祥は立ち上がって早足に部屋を出た。
「待て、おい祥、待てって!」
後ろから和樹の声が追いかけてくる。逃げ出す為に、祥は走り出して、足をもつらせ転びそうになりながら階段を駆け下りた。
どうしてだろう。目尻がじとりと濡れた。
三段ほど階段を飛ばし飛び降りて、祥は目尻に滲んだ涙と思われるものを拭って、走り出した。
行くあてなんてある筈もない。だけれども、どこか、ここではないどこかに、行かなければいけない。
誰も分からない場所へ、誰とも関わらなくてもいい場所へ。
体力には割と自信があったのに。胸苦しくて、息が詰まった。荒い息を吐き、吸いたくもない排気ガスだらけの空気を吸い込んで、祥は闇雲に、方角も分からないで走っていった。
冒頭の名言集は、何だろう……しっくりくるネタがなかったらなくなると思います。
相変わらずいいタイトルが思い付きません。困った……。