1. アリアドネの糸-1
『罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです』
――ローマの信徒への手紙 6章23節
『生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである』
――レビ記 17章11節
* * *
ある日、東南アジア某国で、一頭の牛と一人の少年が残留地雷を踏み、どちらも等しく肉塊と成り果てた事は、ただ彼の家族と彼の村の住人にとってのみ、重大な事件だった。
ここではそんな事は日常茶飯事。いつまでも哀しみにくれる暇さえ彼の家族にはない。
村は貧しく、彼の家族は食い扶持が一人減った代わりに貴重な働き手を一人失ったのだ。
その事件は、暫くすれば大した事でもなかったかのように、埋もれてしまう筈のものだった。
ところが、事件の記憶は突然に忽然と消え去った。痕跡など跡形も残さず。
彼の村は、一夜にして消え去っていた。
早朝に乳や簡単な雑貨を毎日売りにくる少年が、その異変に気付いた。
人間だけが綺麗さっぱりと消え去り、定刻に餌を与えられない為か、農耕牛や豚の不満そうな鳴き声が、村中に満ちていた。
その怪異は、実体が目撃されないまま、現象だけがゆっくりと北上していった。何か、目的でもあるかのように。
同様の現象は、世界の各地で散発的に起こっていた。ある現象は西へ、ある現象は東へ。それらは、ただ一点を目指していた。
* * *
その日、黒崎祥は、寝坊をした。
掛け持ちのバイトの終了は深夜だった。その後はいつもの面子と飲みに行って、適当な時間でネットカフェのビリヤードに場所を移した。家に帰り着いた頃には日は昇り切っていたのだから、寝坊とすら呼べないかもしれない。
彼は何処にでもいる、バイトと遊びにかまけ過ぎて単位の危ない、特にこれといった取り柄もない、普通の大学生だった。少なくとも自分ではそう考えていた。
彼女はあまり長続きせず、現在いない。
彼は、彼女へのプレゼントよりは、自分の履く靴や自分の乗るバイクに(十万単位の)金を注ぎ込み、バイトばかりで会える時間もあまりない。女性の側は、大事にされていないと感じるらしかった。
勿論付き合うとなれば、可愛いとか好きだとか思えばこそだ。だが、彼女だからといって、自分が何に金を使うかまで規定されたくはない。
煙草は吸わない、酒はビールと発泡酒しか飲まない。趣味はブランド靴収集とバイクとルアーフィッシング。好きなお笑い芸人はダウンタウン。サッカーとバスケの中継も好きだ。
容姿は十人並み。筋トレは好きだが、腕っ節には自信はない。
大学は国際政治経済学部だが、別にそれ程興味もない。どれか選ばなくてはならなかったので、消去法で選んだ結果だった。
そろそろ就職活動もしなくてはならないが、別に何がしたいという事もない。
適当にバイトをこなし、好きな物を買い集め、友人と遊び歩く。彼は今の生活が好きだったし、満足していた。
頭脳も運動も、飛び抜けて良くも悪くもない。麻雀はそれなりに強いが、それで飯が食えるほどではない。至って平凡、祥の自分への評価はそれだった。
片付けは得意な方ではない。数日前から脱ぎ捨てた服が丸まって床に固められている。そろそろ掃除でもしなくてはならない。
今日も夕方からバイトだった。午後の講義だけでも受けようかと、祥はもぞもぞと起きだしてシャワーを浴び、身仕度を整えて家を出た。
やや錆付いて軋み始めた安普請の玄関ドアを空けると、外は快晴だった。
白くくっきりと曲線を浮かべた雲が、夏の到来が近い事を教えている。ほぼ真上から照りつける鋭い陽射しが、寝不足気味の目を刺す。
この位の季節が祥は一番好きだ。こんな天気のいい日には、公園の芝生で日光浴するか、友達を誘ってフットサルでもしたい。汗をかいたら、柔らかい風が拭っていってくれるだろう。祥は太陽という奴が好きだった。
大学に到着したのは午前十一時半頃だった。この時間なら、学食が混む前に昼食を済ませられる。
構内に入るが、流石にロビーに人気は殆どなかった。空きマスなのだろう、何人かの学生が、テーブルに本とノートを広げて、黙々と勉学に勤しんでいる。
見知った顔はない。ロビーを素通りしてそのまま学食へと向かった。
思惑通りに広い学食内はがらんとしている。一番乗りかと思っていたが、先客がいた。
悪友その一・佐藤和樹が、気怠げにパック牛乳を音を立てて啜っていた。 Tシャツに、千円セール品と思しき赤いチェックの綿シャツを羽織り、明るいカーキのカーゴパンツ。和樹の服装の路線は毎日ほぼ一貫している。
「お前な……きったない音立ててんな」
「よ、おはよ」
和樹はぼんやりと言葉を返した。酒に弱いくせに一番の飲みたがりだから、昨日の酒がまだ残っているのだろう。顔色が良くない。
「何、もう飯食ったの? 早くね?」
「……食欲なんてねぇよ」
「ふうん。まあ俺はいつも通りカレーを食うけどね」
その言葉に、元々あまり良くなかった和樹の顔色が、更に生白さを増す。
「おま……鬼か……カレーとか匂い考えただけで気持ち悪ぃ……」
「お前が奢ってくれるなら他の物にしてもいいかなと思わなくもない」
「……鬼! 悪魔! おのれディケイド!」
「最後が何だか分かんないけどまあいいや……カツ丼で許してやる」
和樹の言う事は時々よく分からない。ややオタクなので、何かのアニメの台詞なのかもしれなかった。
「マジ門矢士の如く理不尽……」
「もやしは優秀な野菜だぞ? 悪く言うな!」
祥にはオタク話は通じない事は和樹も心得ている。そして何故か、常日頃から、如何に自然に違和感なくオタク知識を会話に織り込むかという妙な目標を持っていて、楽しんでいる風もある。祥も他の友人もその点に関しては華麗にスルーしていた。
祥としては、カツ丼さえ食べられれば文句はない。奢りのカツ丼を有り難く腹へと収めた。
「あー、美味かった。ごっそさん」
「学食でそんなに幸せそうにしてもらえりゃ、俺としても本望だよ」
体を休めていたからか、はたまた牛乳の効果か、和樹の顔色は大分回復していた。
「さって、天気もいいし、遊びにでも行くかな」
「行ってらっしゃい」
「え、祥来ないの?」
「午後のラテンアメリカ経済、これ以上休めないんだよ。坂口の野郎だから代返も無理だ」
そっか、と残念さをストレートに声に滲ませて、ややしょんぼりして和樹が呟いた。
「それより、夏休みの旅行、ちゃんと計画出来てんだろうな」
「大丈夫! この間おじさんに電話したら、俺の友達ならバイトオッケーだって」
「そか、助かった」
祥が尋ねると、和樹は胸を張って経過を報告した。
今年の夏休みは、和樹の叔父さんがやっているという海の家へ、五人程で連れ立って旅行する計画を前々から立てていた。
「けど、折角海に行くのにお前だけバイトかよ……」
「悪いね。秋までにどうしても欲しいブーツがあってさ。一日だって惜しいんだよ」
「まあいいけど。遊ぶ時間がないわけじゃないし、お前らしいっちゃあそうだし」
呆れたように和樹が笑った。
俺らしいって、何だろう。どういうものが、俺らしいのだろう。
自分らしさを他人に規定されるのが不愉快とか、そういう事ではない。
ただ、祥には、何が自分らしいのかという事が、全く分からない。純粋な疑問だった。
考えれば考える程、祥という個人は、皆という、誰なのか分からない集団の中に埋没していった。何も際立った事がないから、埋もれてしまう。
自分が取るに足りない事は祥自身も自覚していたから、埋没しても没個性でも仕方ないとも考えていた。
ただそれでも、例えば和樹が、祥を祥として認識し規定する何事かがあるのだとすれば、それは何なのだろう?
こんな質問は漠然としすぎていて、されても困るだろうから、和樹に質問はしていない。
ただ自分で考え続けて、自分がずぶずぶと、皆というものの中に沈み込むのを、感じている。
そんな事ばかりを繰り返して、黒崎祥は、それなりに普通に、それなりに楽しく、生きていたのに。
* * *
バイトが終わり、夜の十一時。祥と和樹は、駅までの道をややのんびりと歩いていた。
和樹とは、大学に進学してすぐに、今勤めているレストランのバイトで知り合った。それ以来、二年程の付き合いになる。
今日の話題は、和樹が最近ハマっているという洋楽の話。祥は専ら聞き手役だった。
大体は、好きなものが沢山ある和樹が話し役で、何事も興味薄く流してしまいがちな祥が、和樹の話を、僅かな憧れを含んだ相槌で受ける。彼らの間に、自然に出来上がった役割分担だった。
サッカーの話だけは、役割が逆転する。祥の住んでいるアパートは建物は古いが、ケーブルテレビが入っている。ヨーロッパのリーグについてなら、祥は和樹より詳しく熱っぽく語る事ができる。
駅までの近道となる、裏通りを進んで、角を曲がり小さな公園に差し掛かった時だった。
和樹と祥は足を止めて、数秒間そのまま前方を見つめた。毎日のように通るその道に、見慣れない物が落ちていた。
「マネ……キン? かな?」
譫言のようにふわふわと声を押し出して、和樹は足を進めた。
行ってはいけない、その方向に進んではいけない。根拠もなく祥はそう思った。それを告げようとしたが、体は強張り息が荒く、言葉が出てこない。
怖い、と思った。それは、幼い頃に怖い話を聞かされ、布団に入れば闇の中から何かに襲いかかられるのではないかと思い眠れなくなり、トイレに行くのに母親を起こした怖さと似ていた。本能が闇に、闇の中に紛れているものに対し感じる恐ろしさだった。
十メートルほど先に落ちているそれは、脚だったのだ。
右か左かは分からない、膝から下だ。ハイヒールを履いているから、女の脚だろうと思われた。
マネキンなどであろう筈がない。だってその脚の切り口から周囲に、何か黒い液体が流れ出して、水たまりが作られているのだ。
それはおそらく、今が夜で、アスファルトに染み込んでいて、やや離れた街灯のぼんやりとした灯りに照らされているだけだから、黒く見えるのだ。
いや、それにしてもあの脚の周りは、不自然に暗くないか。
行くな、そう言って和樹を引っ捕まえて止めたかったのに、体は動かなかった。
「来るな」
突然、声がした。低めの声、男の声だった。
女の脚の向こう側に、今まで姿がなかった男が唐突に立っていた。
背が高い。灰がかったヘーゼル色の巻き毛、彫りの深い顔立ちに碧色の目。外人だった。
「近付けば君もそうなる。今すぐ逃げるんだ」
男は和樹に向かって話しかけていた。流暢な日本語だった。
そうなる、と言いながら、ゆっくりと女の脚を指差す。
「……えっ」
和樹は脚を止めて、不思議そうに男を見て、脚を見た。
「わ……わ…………なな、な、なんだよ、それ…………それって……」
「人間の脚だよ」
「うわああああぁぁあああっ!」
振り向いて慌てて駆け出して、和樹は脚を縺れさせて転んだ。這いずって前に進みながら立ち上がると、また駆け出す。
ふっ、と、周囲が暗くなった。公園沿いの道に設置された街灯が消えていた。
「間に合った……って言いたいところだったけど、ちょっと遅かったか」
外人の口調は平静でのんびりとしていた。彼は何故、この状況にも全く驚かずあんなにも冷静なのだろう。
急に暗くなったせいで、目が闇に慣れず、辺りの様子は全く分からない。
「祥! 逃げよう、祥って!」
和樹が肩と腕を掴んで耳元で叫んだが、祥の体は相変わらず動かなかった。
変な予感があった。
あの妙な外人。彼の声を聴いてからだ。彼は俺に話があるんじゃないだろうか。全然知らない、会ったこともない外人で、彼は祥にはまだ何も呼びかけていないのに、何故か祥にはその予感があった。
「俺はカイン。君の名前を知らないんだ、教えてくれないか」
「黒崎祥。あんた、何者だ」
「何者……ってなぁ。永遠を旅する男、ってところかな」
外人の声は軽やかだった。
ちかちかと、小刻みに街灯の灯りが戻り、また消えて、明滅を繰り返した。
「……何で、俺の名前なんか聞くんだ。それ、その脚、何なんだよ」
「時が満ちたんだ。君でなければ出来ない事がある。君にそれを頼みに来た」
カインの言う事は、言葉は明瞭だったが意味が分からなかった。それがあの脚と、何の関係があるというのだろう?
一瞬照らされ、見えなくなる。カインと名乗った青年は、まるで何か遠い記憶のように祥の視界でフラッシュバックする。
俺はこいつを、知っているのではないだろうか? 一瞬そんな思い付きが胸を過ぎったが、そんな筈はなかった。今までの人生で外人との接点など皆無だ。
「……そんな、事より、警察だよ和樹。不審者だ」
「あ……ああっ、そうか……」
「奴等は、人間の力でどうにか出来る代物じゃない。やめた方がいいな」
「あんたが猟奇殺人犯っていう可能性もあるだろ」
携帯電話を取り出そうとした和樹が、カインの言葉に動きを止めた。
和樹の指摘にも、カインは拘りなさそうに微笑んだだけで、特に反論は返さなかった。
ぱちりと、女の脚の周りで火花が上がり、側にいたカインの顔を白く照らした。カインはやや、苦しそうに顔を顰めた。
その火花は、脚の周囲の闇から上がっていた。光で、半球型のドーム状に、透明な壁のようなものが浮かび上がる。
「……時間がない。祥、君は狙われている。彼女は不運にも君を探していた奴等に出会い、こんな姿になった、巻き込まれた」
「狙われ……何言って、奴等って何だよ!」
「説明している時間がない。受け取れ」
言ってカインは、手に持っていた何かを放り投げた。胸元に落ちてきたそれを、祥は両手で受け止めた。
それは、掌から少し余るほどの大きさで、薄い箱のような形をしていた。中心に嵌め込まれた青い宝石のような金属のような球体が、暗闇の中にも関わらずぼんやりと光を放っている。その球の周囲は、何か鉱石のような、重く冷たくしっとりとしたもので出来ていて、細かな文様が彫り込まれていた。文字のようにも思えるが、見たことがない。
「……何だよ、これ」
「奴等に対抗する為の、ただ一つの力だ。それを使えるのが今のところ君しかいない」
「何で!」
「君がエレボスの巫女だから」
「……は?」
祥は質問した事をやや後悔していた。あの外人は答えているつもりなのかもしれないが、全く意味が分からない。
不思議な事に、手の中のやや重い物体の中心の青い宝玉、それに灯る光が、段々と強くなっていた。
「何だよそれ……何か、怖い……」
後ろの和樹の声は震えていた。確かに、気味が悪い。祥が手に持った途端光り出すなんて、得体が知れない。
だけれども不思議だった。祥はその光を見て、心が落ち着くのを感じていた。
「それは君のものだ、使い方は分かるな」
カインの質問に、祥は何故か、ごく自然に頷いた。知識や意識よりももっとずっと奥の所で、自分はこれを知っている。
自分は知っている、その事実が一番気味が悪い。
カインはもう祥を見てはいなかった。脚があった場所に両手を翳し、渋い顔をしていた。彼の掌の下で、火花が時々散った。
脚ももう見えない。いつの間に消えたのだろう。いや違う、その一帯が、真っ黒く塗りつぶされているのだ。
「これは……何なんだよ」
「愚かな女が、開けた箱……箱の中には、最後に残っていた、希望だけが……閉じ込められた。それは、パンドラの、箱だよ」
苦しげに、搾り出すようにカインは答えた。ばちばちと、彼の掌の下で火花が幾つも激しく踊った。
やがて、一際大きな火花が弾けて、辺りを一瞬明るく照らし出した。
その光にも照らし出せない、黒いものがいた。
それは塊だ。拘束を解き放って、そいつは形を持つようになっていた。
夜の闇の中で、そいつの黒は底がないように思えた。くっきりとした輪郭を持っている。
膨らんだ腹と胸から、鋭い毛が生えた細い脚が天を目指して伸び、折り返して地に伏している。
巨大な蜘蛛のような闇がそこにいた。それの、頭らしきものは、祥の方を向いていた。
「おおお……お、おい、祥……」
「逃げろ」
「……だって、お前」
「いいから逃げろ! 俺も後で行くから!」
振り返らずに、祥は和樹に怒鳴りつけた。和樹が走り去る足音が、段々と遠ざかっていく。
何故だろう。怖いとは思っている筈なのに、祥は不自然に落ち着いた自分の思考を不思議に思った。
黒いものの頭が、やや傾げられ、口と思しき場所から、何かが飛んだ。
細い管だ。そう思った時にはもうそれは、眼前に迫っていた。
避けられないなどと、本来ならば思う暇もなかったのだろう。だがその思考は、祥の脳裏に浮かんですぐに消えた。
突き飛ばされ祥は弾き飛ばされて、尻餅をついた。すぐに頭を上げると、カインが、今まで祥が居た場所に立っていた。
彼の胸を管が突き抜け、その管を中心として円を描くように、背中から向こうを覗ける穴が、空いていた。
あれは、肺?
ちらと見えた赤黒く収縮する膜を見て、思わずそう想像してしまった。次の刹那、カッターナイフで切ったボール紙のような綺麗な断面からは、夥しい量の血が湧き出して、断面を覆い隠し、あっという間にカインの服を赤黒く染めてしまった。
「それを使って!」
何でもない事のようにカインが叫んだ。当たり前の話だが、胸に穴を開けられて叫べる人間など祥は知らない。
カインは倒れない、目は鋭く眼前の闇を睨みつけたままだった。
「早く!」
鋭い声で怒鳴り、カインが手を胸の前に翳した。どういう訳か手は薄く光を帯びて、その光に触れた部分だけ闇が溶けるように消えた。
滝の流れのように滴っていたカインの血は、何故かもう止まっていて、穴の断面は肉や骨が盛り上がり始めていた。
使い方は分かっている。祥がパンドラの箱を腰に当てると、カインがちらと祥を見た。
「これから君が背負うのは、君自身には何も責任のない、遠い昔に死んだ他人の罪だ! それでも君は戦えるか!」
カインの質問の意味が、やはり祥にはよく分からなかった。使えと言ったのはカインだ。
「……使わなきゃ、どうにもならないんだろう。俺だって死にたくない」
「使えと言っておいてなんだけど、君一人を今逃がす位は出来るよ! それを使えば君はいずれ俺のようになる、それでもいいか!」
今更といえば今更だった。そういう事は最初に言うべきではないか。
「あんたがこれをどうにかしてくれるのか!」
「それは無理だ」
「さっきの口ぶりだと、これ以外にもいるんだろ、似たようなの」
「ご名答だ」
祥に逃げるという選択は浮かばなかった。もし逃げるという選択が出来たなら、もっと前に逃げ出していた。
出来る。根拠のない自信が、パンドラの箱とかいうものを手にした瞬間から心の中に芽生えていた。
あの脚、カインの胸。惨たらしいなどという言葉では追い付かない。
カインは何と言ったか。女性は、巻き込まれたと言わなかったか。それなら、止められるというのなら、止めてみせる。
「やるさ……俺は、俺が生きるために、やる!」
叫びに呼応するように、パンドラの箱からベルトのようなものがひとりでに引き出されて、祥の腰へと巻き付いた。
青い宝玉は光を増し、その光が祥の体を包んだ。光は形をとり、闇へと反転する。
音すら感じさせない黒、ただただ静寂。そんな色をしたプロテクターが、祥の全身を包んでいた。
腰に履いた剣を鞘から引き抜いて、構えた。前に駆け出す。
そんなに速く走れる筈はないのに、数秒で眼前に黒いものの脚と思しき部分が見えた。
剣の払い方も、体が勝手に覚えていた。
横真一文字に剣を振るうと、黒いものの脚はすぱりと綺麗に斬れた。だがそれでバランスを崩すことはなく、別の脚が祥へと振り下ろされる。バックステップを踏むと、祥の体は一気に何メートルも後方へと飛び退った。
息も切れていない。自分の体ではないようだったが、まるで最初から出来ていたかのように、体は自然に動いた。
「おい、何なんだよ、あいつは」
祥の問い掛けに、横のカインが振り向いた。
頭部も完全にプロテクターらしきものに覆われていて、暗闇の中でも僅かな光を増幅して、はっきりと見ることが出来るようになっているようだった。
カインの胸は、既にほぼ塞がっていた。
「あいつは『Μηδαμινότητα』」
「ミダ……何だって? 何を言ってるんだか全然分からない!」
「君に分かる言葉で言うなら、虚無、というのが一番近い。混沌から生まれ、深淵より出ずる者たちだ」
聞いてはみたものの、全く分からない。カインは、分かるように説明する、という事が出来ないのだろうか。
「まあいいや、後でゆっくり聞けばいいんだろ、あんた逃げるなよ」
「逃げないさ。俺は君の側にある事を望んでいるのだから」
やはり答えの意味は分からない。祥は剣を両手で構え直し、掴んだ柄へと意識を集中させた。
――原初の力、全ての源在りし所、彼は汝に何も望まず、故に汝も彼に何をも望まない。
――ただ彼はそこに在り、その大いなる力を示す。
それは言葉として脳裏に浮かんだものではなかった。ただ音として詩として、心を満たした。
黒曜石を彫り研いだような剣は、青黒い光を帯びた。駆け出すと、またあの管が襲い来る。だが、躱せる。すんでで管はアスファルトに刺さった。
一気に飛び上がると、祥は剣を振り下ろした。
四、五メートルほどの高さから、体勢も崩さずに着地すると、頭上の蜘蛛の形をした闇は、真っ二つに裂けた。
ほどなく、溶けるように消えていって、後に残ったのは、巻き添えになった女性とカインがアスファルトの上に零した、大量の血液の跡だけになった。
ぼんやりしていると、街灯の灯りがいつの間にか戻っていた。
パンドラの箱に手を当てると、ベルト部分がやはりひとりでに収納され、プロテクターは瞬時に消え去った。
「あいつらが俺を狙ってる、って、あんた言ったな」
「言った」
「それは、これが使えるからか」
「そうだよ」
カインは、心から嬉しそうに微笑んで、祥を見つめていた。
日本語が流暢なのが、何故かやけに気に障った。息を吐いて視線を逸らすと、膝から下しかなかった脚のことが思い出されて、祥は俯いて目を閉じた。
タイトルはひどすぎるので、後日変更するかもしれません。