夜更け過ぎのホットココア
ホットココア
コン子さんが小学校へ通い始めてから迎える最初の週末。午前授業も今日、金曜日で最後だった。来週からは給食が始まり、いよいよ学校生活も本格的に始まってくる。友人関係も上手くいっているようで毎日楽しそうな彼女を見ているのは俺としても気分が良い。
そうして眠りに着いた夜更け過ぎのこと。
いつもは一度眠りに着いたら朝まで起きないコン子さんが布団から抜け出したことに気付いて俺は意識が浮上した。
静かに彼女の気配を追っていると、そのまま部屋を出て階段を降りていくのがわかる。気にはなったけれどこんな日もあるかと俺は布団の中でゴロゴロと寝返りを繰り返してコン子さんが戻ってくるのを待っていた。
けれど彼女が部屋を出て行ってから十分程が経ち、二十分が経っても一向に戻ってくる気配がなくて、心配性と笑われる覚悟を決めながら俺も布団を抜け出していた。
「コン子さん……?」
「あれ、烏くんだ」
寝室のある二階から降りて一階の台所に来てみれば、本来の大人の姿に戻ったコン子さんがいつもは台にしている木箱に座ってこちらを不思議そうに見上げている。
そんな様子を見て思わずいつもの癖で目を合わせるようにしゃがんだ俺に、彼女はクスクスと小さく笑った。
「心配性だなぁ」
「……自覚はあります」
この人を見ているとどうにも不安に駆られてしまうことがある。それは前の世界で感じていたものではあるけれど、少し時間が経った今でもあの頃の気持ちは俺の中に残っていた。
山の社に一人、訪れる人々の為に来る日も来る日もただそこに座り続ける姿を見ていたから。たまにこちらに向けられる目が羨ましそうに揺れていたことも知っているから。だから、どうしても気になってしまうのは仕方がないと思うのだ。
木箱に座ったままのコン子さんは膝の上で合わせた指先を遊ばせながら目を細めて静かに口を開く。
毎日幸せだな、と考えていたら胸がいっぱいになってしまったと。そう告げた彼女の声は落ち着いているのにどこか影を帯びているように俺には思えた。
「食べたいものが自由に食べられる。お友達とたくさんお喋りができる。心配してくれる人がいる。これって凄く幸せなことなんだなって。そう思ったら眠れなくなっちゃって」
「それは……」
ふにゃりと笑った彼女はきっと自分が消えた元いた世界を気にしているのだと思う。人々の生活を支え続けていた存在が突如として消えた世界が今後どうなっていくのかを憂いているのだと思う。
そんなものはそこに生きる者たちが自力でどうにかしていくべき事柄だというのに。全てを放棄した今でも彼女の中の使命感は、その心を縛り続けている。
俺は、それが、許せない。
「コン子さん」
名前を呼ぶ。
彼女がこの世界で生きる為に二人で考えたその名前を。
見上げたところにある蜂蜜色の綺麗な瞳が真っ直ぐ俺に向けられていた。そこに自分だけが映り込んでいる事実に優越感を覚えるのは俺が抱える感情故か。そんなことを考えつつ、俺は彼女の手を包み込むように触れた。この胸の内に宿る熱が伝われば良いのにと思いながら。
「明日……いえ、日付は変わっているので今日ですね。今日は一緒にショッピングモールに行く約束ですよ。俺の知識が足りず待たせてしまいましたが、貴女のやりたいことがようやく始められる」
野菜を育ててみたいという彼女の些細な願いを叶える為に園芸店で必要なものを揃える。それからちゃんと専門家に話を聞くことも忘れないように。
その他にも目的はいろいろあるけれど、今日のこの外出はコン子さんにとっては小学校に続く一大イベントと言っても過言ではない。
彼女はこの世界に来てからまだ人混みには行ったことがなかった。だからモールに着いたらきっと驚くに違いない。目を輝かせてあらゆるものに興味を抱くに違いない。それこそ小さな子供のように。
コン子さんはまだこの世界のほんの一部しか知らないんだ。もっともっとたくさんのものを知っていけば、いつかは元の世界のことなんか忘れてしまうかもしれない。俺はそれで良いと思うから。
「大丈夫です。俺は何があっても貴女から離れません」
「……本当に?」
目線は彼女の方が上だというのに、俯きがちに見上げるその瞳はどこか不安気に揺れている。いったい何が気になっているのだろうと思わず俺が首を傾げると、コン子さんは一度唇を引き結んでから再び口を開いた。
「私がずっと子供でいたら、烏くんは他の人を好きになっちゃったりしない?」
「他の人……?」
「ほ、ほら、その……スーパーの店員さん、とか……」
「スーパーの――ああ、那珂さんですか。って、もしかして……」
それを気にしていたのだろうか?
那珂さんの話をコン子さんにしたのはパンケーキを作ったあの時だけだ。確かに少し気にする素振りはあったように思えるが……まさかそこからずっと考えていたのかと俺は思わず目を瞬かせる。
ほんのりと頬を染めて目を逸らしたコン子さんは、俺が思っていた以上に俺を想ってくれている。それをこの時の俺は改めて気付かされたのだ。
いつもは人間の子供の姿だから全くそんな素振りは見せないのに。なんだか心臓が握りしめられたような気持ちになった俺はそのまま開いた口が閉じられずに間抜けな顔を晒していた。
「今が幸せすぎるから。いつか離れていってしまうものもきっとあるんだろうなと思うの。それが、烏くんかもって」
彼女はそう言って、俯く。赤みがかった黄褐色の柔らかい髪がはらりと顔にかかるのが見えた。
「そうなったら……私には、キミを止められる資格がないよ」
その口元に笑みを浮かべながらもコン子さんは目を伏せた。それがまるでいつか来るかもしれないそんな未来を見ないようにしているみたいに俺には感じられたんだ。
けれど。
「あの。万が一そんな状況になったら殺してでも止めてください。ああ、いえ。死んだらお側にいられませんので半殺し程度でお願いします。というかあり得ません。考えるだけ無駄かと」
「えっ」
俺の淡々とした言葉にパッと瞼が持ち上がる。その目が映した俺はきっと。
「俺は、貴女しか見えていませんよ」
いつもの、心配性の烏くん、ではないのだろうなと、思う。
それでもいい。他の誰でもない彼女を不安にさせてしまうくらいなら、俺はその原因を排除することも厭わない。もし、彼女が望むなら――
「信じられませんか?」
そう問えば、すぐさまクスリと笑みが返ってくる。
どうやら俺が何を考えているかコン子さんにはわかってしまったらしい。ダメだよと言われたので俺は素直に頷いた。
本来烏天狗というものは皆、山を守る役割を持って生まれてくる。その為ならなんだってやるのが俺たちで、山や自然を害するものと判断すれば、それが例え厄災だろうが妖怪だろうが人だろうが構わず排除するようになっている。本能とでも言うべきか。
俺はその本能が生まれつき他の奴らよりも弱かった。
そう、思っていたのだけど。
仲間たちから後ろ指を刺されながらもお役目を放ってふらふらしていた俺がある時出会ったのが、山の社に暮らす天狐だった。その姿を初めて見た時の衝撃は忘れない。
俺はその時に気が付いた。俺という烏天狗が守るべきものはここにあったのだ、と。
彼女を護り、助けることこそ俺の生まれ持った役目である。それは世界が変わっても変わらないものの一つだった。
だから、俺が彼女の側を離れることなどあり得ない。ましてや人間に心変わりなんて。それこそ天地がひっくり返っても、絶対に。
「……ありがとう、烏くん」
「いえ。信じてもらえたようで何よりです」
さて、と立ち上がった俺はそのまま冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出した。
「ホットココアでも作りましょうか。心を落ち着けてよく眠れるように」
「ふふ、お願いします」
笑顔のコン子さんにまた頷いて、俺は早速作業に取り掛かる。
用意するのは牛乳と純ココアと蜂蜜、それからほんの少しの塩。
まずはマグカップに牛乳を注ぎ、電子レンジ600Wで二分程温める。次にもう一つのマグカップに純ココアをスプーンで二杯。そこに蜂蜜と温めた牛乳を少し。ペースト状になるまで混ぜて、残りの牛乳を少しずつ加えながら更に混ぜていく。
そうしてもう一度電子レンジで温めて、最後にほんの少しの塩を加えればホットココアの完成だ。
「熱いので気をつけてくださいね」
「はぁい」
木箱に座るコン子さんにマグカップを手渡して、ふーふーと水面に息を吹きかけている姿を見ながらもう一度、同じ手順で自分の分のホットココアを用意した。
口に含んだホットココアは温かくて程よく甘い。じんわりと内側に染み渡るその熱と甘さに、俺たちは同時にほぅっと息を吐いていた。




