買い物と雨
野菜を育てたい、とコン子さんは言っていた。
だから俺は洗濯物を干した後、早速近所のスーパーにやってきた。コン子さんはお留守番だ。
朝のゴミ出しの時に少し話をした近所の人が「今はスーパーでも園芸用品が買えるのよ」と言っていた通り、入り口の外には鮮やかな植木鉢がずらり。袋に詰められた土まで売っている。気にして見ていないとあることにすら気付かないものだなと思う。一つ扉を潜れば陳列された野菜の種が――
「凄いな……」
何故同じ野菜でこれだけの種類があるのだろう。
短い?長い?太い?細い?小さい?大きい?色が違う?
いや、大根は大根だし、人参は人参じゃないか。何があったんだお前たち。
初心者なのだから苗を買って育てるという選択肢もあったはずなのに、この時の俺の頭からは完全に抜け落ちていた。
少し遠出をしてショッピングモールの方まで行かないと園芸店のあるホームセンターには行けないからな。
今日の空は雲が多く、お昼頃からは雨だとコン子さんも言っていた。少しくらいなら大丈夫だろうと外に出してきてしまった洗濯物が気になって仕方がないのである。
「あの、」
一人で考えていても埒が開かないと気付き、俺は近くにいた店員に聞いてみることにした。
「今から育てるのに適した野菜がどれかわかりますか?」
最早丸投げである。若い女性の店員は俺の質問に一瞬戸惑った様子であったが、すぐに落ち着いて種のパッケージに手を伸ばしていた。
女性がパッケージの裏を見ればそこにはしっかりと説明が書かれている。なるほど、これを見ればよかったのか。
「ええっと、今から種を植えられるのでしたら夏野菜がいいんじゃないでしょうか。ピーマンとか、ナスとか、あっ、トマトは初心者でも育てやすいって聞いたことがありますよ」
「トマトか……」
言われて赤や黄色のトマトが描かれたパッケージを見てみる。すると初心者でも育てやすいという女性の言葉を体現するように、明らかに他よりも種類が多い。
ミニ?中玉?大玉?
確かにトマトにはサイズはあるが、育てやすさ的にはどうなのだろう。幾つか手に取って裏の説明を読んでみると、大体のものに作りやすいの文字がある。本当だろうな?
思わずまた店員の女性に目を向けると、少し首を傾げながらも記憶を辿ってくれたらしい。
「ミニトマトの方が育てやすいって聞いたことがあるような?」
「そうですか……」
曖昧な情報でも無いよりは有り難い。
俺は少しの間幾つかのトマトの種のパッケージと向き合い、そして普通にミニトマトと大きく書かれたものを選ぶことにした。最初から冒険は良くない。それだけはわかったからだ。
「ありがとうございます、助かりました」
「いえ、上手く育てられるといいですね!」
応援していますと言って去っていく女性店員の背中に軽く頭を下げてから、俺は買い物籠にミニトマトの種の袋を一つだけ入れるのだった。
ついでに数日分の食材も買い足しておこうと店内を回り、結局持っていったエコバッグがパンパンになるまで買ってしまった帰り道。
どんよりと曇った空にそろそろ降り出しそうかと駆け足でコン子さんの待つ家に向かう。
飲み物のパックが数本入っているのだが重さは特に気にならない。腕力には自信があるもので。これは俺がコン子さんより優れている数少ない部分と言えなくもない。昔は岩だろうが軽々と持ち上げていたからな。それをあの人が面白がってぶら下がって遊んでいたっけ。
そんなことを考えながら辿り着いた家の門を潜った時だった。
「あっ!からすくん、おかえりー!」
「コン子さん……?」
頭上から声が降ってきて軽く驚いた。どうやら二階のベランダに出ているらしい。そこには物干し竿があって、今は洗濯物かかっているはずで。
「いまね、せんたくもの、いれちゃおうとおもって――」
「危ないッ!!」
ベランダには柵がある。けれどコン子さんは洗濯物に手が届くようにと台を足元に置いていて、体の半分以上は柵の上から出ている状態だった。
そんな場所でふらりとよろけた体が柵を越えてしまったのを見た瞬間、俺は手に持っていたパンパンのエコバッグを放り投げて駆け出していた。
昨日はゆで卵を作ったから卵が切れかけていて、だから補充しておこうと十個入りのパックを買ったことなど最早頭には残っていない。
周囲に人の目があるかもしれない日中だということも、ここが俺たちが生まれ育った世界ではないことも。こと時の俺は忘れていたんだ。
変化の術を解いて文字通り空を駆けた俺は、空中でその軽い体を受け止めた。
ぽつり、ぽつり。
降り出した雨が頬を掠める。まだ小雨だが風も出てきたことだしこの様子だとこれから荒れるかもしれない。そんなことをぼんやりと思った。
地面に降りて、膝を付いて、コン子さんを抱えていた腕を下ろすと、軽い少女の体はするりと離れていってしまう。その呆気なさに、そもそもこの高いから落ちたところで、どうにかなってしまうようなお方ではなかったことを思い出した。
「……すみません。慌てる必要、ありませんでしたね」
この世界に来てから約一年。
幼い子供の姿をした彼女をずっと側で見続けていたからだろうか。どうやら俺は本当にこのお方をただの人間の子供のように思ってしまっているらしい。なんて、烏滸がましい。
やるせなくて、思わずため息を吐いた。
ああ、エコバッグを投げてしまった。せっかく買った卵が割れて大変なことになっていそうだ。どうしよう。
そうして視線が投げたエコバッグを探し始めた時、ふと視界に入ってきた足が子供のものではなくて。変化の術が解けてしまっていますよと、言おうとして顔を上げたのだ。
「――――――」
頭が真っ白になるとはこのことか。
後の俺はそう思った。
しゃがんだ状態の俺よりもずっと背の高い彼女が背中を丸めている。頬に触れる温かい手のひらも子供のものなんかじゃない。
視界いっぱいの彼女の顔。わかるのは赤みがかった黄褐色の髪色と、その目が閉じられていることと、肌を掠める彼女の柔らかい髪くらい。
あとは、ふんわりと触れるだけの柔らかい唇の感触とか……。
「烏くん」
ようやく焦点が合った。少し離れたコン子さんの蜂蜜色の瞳が揺れているのがわかる。そこには俺しか映っていなくて、なんだかこの世界にたった二人だけになってしまったような気分になった。
「助けてくれて、ありがとう」
それは、あの日――俺たちがこの世界に来た日に、聞きそびれてしまった言葉だった。
人間に幸福を与えるために祀り上げられていた彼女が。
全てを投げ出してしまいたいと、願った彼女が。
俺なんかに助けを求めた彼女が。
ずっと、言えずにいた言葉だったのを俺は知っている。
ベランダから落ちかけたのを助けただけだ。あの時の続きなんかじゃない。それはわかっていても、胸に込み上げてきてしまうもの確かにあったんだ。
「…………はい」
だから俺は、笑顔を返す。
「ご無事で何よりです」
貴女の笑顔が護れたのなら、俺が犯した大罪などどうでもいいことだと思えるから。
ふにゃりと緩み切った顔で笑ったコン子さんは、雨の中でも綺麗な人だった。
「あっ、卵!ああっ、それよりコン子さん変化の術を!って俺もか!はっ――洗濯物!!」
そんな少しだけ慌ただしい雨の昼間。




