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考察と統失の妄言      :約2500文字

作者: 雉白書屋

「じゃ、かんぱーい…………って、おい、飲まないのか?」


 おれは、口をつけかけたビールのグラスをそっと下ろした。

 向かいに座る大崎はテーブルに両肘をつき、自分のグラスをただじっと見つめていた。

「おれ一人でグラスを掲げてバカみたいじゃないか」と、おれはおどけるように言ってみたが、大崎は微動だにしない。聞こえていないのか、聞こえていても反応する気がないのか、判別すらできなかった。

 この夜、おれは友人の大崎に誘われ、駅近くの居酒屋に来ていた。だが、待ち合わせの時点からどうも様子が変だった。おどおどして、歩く速度も妙に速くなったり遅くなったりと一定ではなかった。一緒に歩くのが、少し恥ずかしかったほどだ。

 そもそもあまり気乗りはしなかった。というのも、大崎は数か月前に会社を辞め、『動画配信で食っていく』と宣言していたからだ。これまでも何度か飲みに行ったが、話題は決まって仕事の愚痴ばかり。だが会社を辞めた今、共通の話題がなくなり、何を話せばいいのか見当たらない。

 おれはとりあえずグラスに口をつけた。


「このビール……妙じゃないか?」


「え?」


 グラスをテーブルに下ろし、小さく息をついた。そのときだった。神妙な顔のまま、大崎がちらりとこちらに視線を向けてきた。


「妙って、何が?」


「この泡だ。まったく動かない」


「泡? そのうち消えるだろ」


 おれは大崎のグラスを見やり、そう言った。確かに泡は、まるで広告の写真のように整った輪郭を保っていたが、気にするほどのことでもない。


「たしか、ビールの製造には微生物が関わっているはずだ。この泡一つひとつが命だと仮定するなら……」


「は?」


 大崎は口元に手を当て、何やら低い声でぶつぶつと呟き始めた。おれの存在など最初からなかったかのように、完全に自分の世界に入り込んでいる。 

 いったいなんなんだ……あっ、そういえばこいつ、『考察系』の動画を上げていたな。前に一度だけ見たことがある。

『このシーン、背景の時計の針が止まっているんですよ。これは時間のループを示唆していますね』

『実はこのキャラ、もう死んでます。証拠は第三話のこのカット』

 そんな調子で、子供向けアニメをやたら神妙な顔で語っていた。正直見ていられなかったが、視聴回数はそれなりに回っているらしい。

 待てよ、考察……まさか、これもそれなのか?


「この居酒屋の内装……実にオーソドックスだ。低い天井、淡い照明、打ちっぱなしのコンクリートの床、木目調の壁。壁に貼られたメニューは手書きだ」


「まあ、安い店がいいかなって思って選んだんだが」


「入口の薄汚い紺の暖簾……あれは外界と内側を隔てる結界の役割なのか? 必要以上に情報を入れないための……」


「薄汚いとか言うなよ。店の人に聞こえるだろ」


「赤い提灯は意識を吸い取るための装置……疑問を抱かせないために、か」


「ただの目印だろ」


「この床のシミ……以前、別の店でも見た覚えがあるぞ……」


「どこもこんなもんだろ……というか皮肉か?」


「お通しか……“サービスです”という顔をして、きっちり料金を取るなんて妙だ……」


「それはまた、ちょっと話が違わないか?」


「呑みの締めはラーメン……なぜなんだ」


 大崎は止まらなかった。まるで何かに取り憑かれたように、独自の“考察”を次々と吐き出していく。おれは適当に相槌を打ちながら、運ばれてきた料理をつまみ、ビールを喉に流し込んだ。

 だが、徐々に味がしなくなっていった。それも当然かもしれない――おれは今、目の前で一人の友人を失いつつあるのだから。

 ああ……どうやら大崎はいかれてしまったらしい。

 仕事を辞めた不安からなのか、それとも、もともとそういう資質があったのかはわからない。あるいは作品を考察し続けるうちに、現実と妄想の境目が溶けてしまったのかもしれない。

 おれは何も言わず、グラスをそっとテーブルに置いた。


 ……なあ、大崎。アニメや映画なんて、そんなに深く考えなくていいじゃないか。あれは人を楽しませるために作られたものだろう? 斜に構えて揚げ足を取るような見方で語れば、確かに「すごい!」「気づかなかった!」なんて褒められたり、「さすがだな」なんて、わかったふうな顔で頷かれるかもしれない。今、そんな連中に崇められて、気分がいいのかもしれない。

 でもな、大崎。お前がそうやって自由に妄想を広げられるのは、作品そのものが持つ寛容さのおかげなんだ。創り手が説明し尽くさず、設定をガチガチに固めず、あえて隙を残してくれている。その余白があるから、想像の余地が生まれるんだ。

 したり顔で考察して、「これは矛盾だ」「破綻している」なんて、自分を賢く見せたり、誰かを言い負かすための材料にするよりも素直に笑って、泣いて、驚いて、楽しんだほうがきっと幸せなんじゃないか?

 なあ、大崎、大崎よ……。ここはおれが払うよ。お前のポケットから、くしゃくしゃの千円札が出てくるの見たら、たぶんおれ、泣いちゃうからさ……。

 そんなことを心の中で語りかけているうちに、視界の端がじんわりと滲んできた。 


「――で、グランサトリウム構造的におかしいんだよ。この現象はさ」


「ああ、そうだな……」


「お前、本当にわかってるのか?」


「ああ、わかってるよ。……なあ、そろそろお開きにしようか。割り勘じゃなくていい。おれが払うから」


「まあ、お前しか食べてないからな」


「うるさいな。お前の話のせいで、味なんか全然しなかったぞ」


「だから、それがロスターミナルなんだって」


「もういい、もういい。宇宙人の電磁波攻撃みたいな話はもうたくさんだ。はっきり言ってお前、一度ちゃんと病院に行ったほうがいいぞ」


「そんな話はしてないだろ。俺はこの世界そのものがおかしいって言ってるんだよ」


「今度は政治系の陰謀論かよ。もう勘弁してくれ……」


「違うって。だから、この世界には観察者がいるって話だよ」


「はいはい、宇宙人な」


「だから、宇宙人というか、別次元の存在というか……とにかく、この世界は誰かが作った物語なんだよ。味がしないのも、おそらく作者がそれを食べたことがないからで――」


 おれは両耳をぎゅっと塞ぎ、壁のほうへ体を向けて大きくあくびをした。もううんざりだ。聞きたくない、聞きたくない。

 何度かあくびを繰り返していると、視界の端に大崎が呆れたようにため息を吐くのが見えた。

 耳から手を離す。大崎は再び自分の世界へ入り、ぶつぶつと呟き続けていた。

 おれはテーブルに片肘をつき、皿に残っていた鯨の腸の塩辛を箸でつまむと、口に放り込んだ。

 味はしなかった。

 でも、いい。こういうのは味そのものより、雰囲気を楽しむものだ。


 なあ、そうだよな?

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