祈る国家 交渉を忘れた国のかたち
※この物語はフィクションです。登場する国家・政党・個人・出来事などは、すべて創作に基づいており、実在のそれとは一切関係ありません。
本作は、ある架空の近未来において、「交渉力を失った国家」がどのようにして不平等な条約に追い込まれ、国民と国家の尊厳を損なっていくかを描いた政治サスペンスです。
もし、交渉とは「お願い」になり、外交とは「服従」へと変わってしまったら――。
架空の政権「民自党」と、仮想大国「アメリカ」大統領デラノとの通商交渉を軸に、日本の行方と内部の構造的腐敗を暴いていきます。
読みながら、「これは本当にフィクションなのか?」と少しでも疑っていただけたら、作者として本望です。
プロローグ 交渉なき国に生きる
交渉とは、何かを譲り、何かを得る行為だと、誰もが思っている。
だが――
この国では、誰が、いつ、何を交渉していたのだろうか?
いつからか、日本は交渉しないことを美徳とする国になった。
「波風を立てるな」
「空気を読め」
「お上に任せればいい」
そんな言葉が、礼儀や常識として、無数の口から繰り返された。
結果、日本は交渉せずに「差し出す」国になった。
外交でも、経済でも、技術でも、労働でも、
国民の未来すら、ろくに議論されることなく交換条件にされていった。
「仕方ないだろう」
「アメリカ相手に逆らえるわけがない」
「中国とはうまくやらないと」
そう言って、誰も責任を取らず、誰も説明しようとしなかった。
気づけば、私たちは「何を得たのか」ではなく、「何を失ったのか」すらわからなくなっていた。
ある日、発表された日米交渉の「成果」は、25%→15%の関税削減。
だが、専門家は言う。
「それはもともと2.5%だった。実質的に6倍の増税だ」と。
私たちは、得をしたように見せかけられた損すら、笑って受け入れた。
また別の日、閣僚が誇らしげに語る。
「アメリカに80兆円を投資して、90%の利益をあちらに還元することで、日米関係は深化した」と。
それを、テレビは「歴史的な合意」と報じた。
その裏で、交渉の席ではお願いしかできなかったという。
「我々は特別な国だ。だから特別扱いしてほしい」と繰り返すだけだったと。
交渉というより、儀式だった。
未来を差し出す儀式だった。
これは、そんな交渉のない国家で生きる人々の物語だ。
怒りを押し殺し、矛盾を呑み込み、沈黙という選択を繰り返す国民の物語。
だがその中で、たったひとり、沈黙を拒んだ者がいた。
「なぜ、何も言わないのか?」と問うた者がいた。
その声は、誰の耳にも届かないように見えた。
だが、誰かの胸の奥に、深く刺さっていた。
交渉のない国家で育った世代が、初めて言葉を持とうとする。
沈黙の国が、言葉に揺らぎはじめる。
この国は、果たして声を取り戻すことができるのか?
それとも、沈黙を正義としたまま、未来を閉ざしていくのか?
その答えは――これを読んだ、あなたが決めてほしい。
第1章 サミットの笑顔
第一節 偽られた成果
熱気のこもる会場に、フラッシュの嵐が降り注いでいた。
世界経済サミット――。各国首脳が並ぶ舞台の中央で、ヒノモト国・石谷総理は、アメリカ大統領と握手を交わし、笑顔を見せていた。背後の巨大スクリーンには「歴史的合意達成」の文字が踊る。
「関税25%から15%へ。自動車税も27.5%から15%に!今回の交渉は大成功でした!」
帰国後、石谷総理が記者会見で高らかに語ったその言葉は、テレビ・新聞・SNSを通じて全国に拡散され、人々の耳目を集めた。ニュースキャスターもコメンテーターも、一斉にこう評した。
「日本外交、久々の快挙ですね!」
だが、その裏側を知る者の顔は、決して晴れやかではなかった。
「……それ、ウソなんですよ」
通商政策局・対米交渉チームに所属する烏丸圭は、霞ヶ関の薄暗いオフィスでPCの画面を睨みつけながら、同僚に漏らした。手元の正式合意文書に記された数字は、世間に伝えられたものとは全く異なる意味を示していた。
「最初にアメリカが勝手に上乗せした脅しの関税を、少し引いただけ。それをあたかも『下げてもらった』かのように報じるなんて……逆に、元の10%や2.5%が、15%に引き上げられたんだよ、実質は」
同僚は苦笑する。
「上がってんのに、下がったって言ってるって? バカバカしい……」
圭は、胸の奥が煮え立つのを感じていた。
交渉の現場にいた彼だからこそ知っている――今回の合意は、交渉などではなく、一方的な譲歩の連続だったということを。ましてや、交渉団の赤嶺大臣が、アメリカ側に何度も「特別扱いしてくれ」とお願いを繰り返す様を目の当たりにした時の、あの屈辱。
ヒノモト国が、かつて誇った技術立国としての矜持も、外交の信頼も、すでに音もなく崩れかけている。
「笑ってる場合じゃない……何やってんだよ、俺たちは……」
テレビ画面の中、国旗を背に笑う石谷総理の顔が、圭の目には滑稽な道化にしか見えなかった。
この国は今、国民を成果という名の幻想で包みながら、静かに交渉力と尊厳を失いつつある。
第二節 八度目の渡米
空港の灰色の空が、まるで未来を暗示しているかのようだった。
烏丸圭が赤嶺大臣に同行するのは、これで八度目のワシントン出張だった。日本の財務省や経産省から選抜された交渉官チームは、今回こそは具体的な成果をと意気込んでいた――のは、初回だけだった。
赤嶺大臣は、専用車に揺られながら原稿を読み上げた。
「今回も特別なパートナーとしての誠意を見せて、向こうの譲歩を引き出す。大統領にもこの文言を伝える。いいね?」
圭は反射的に返答できなかった。
誠意――それは、具体的な交渉カードもなく、ただの外交辞令を繰り返すだけの、内容空っぽな言葉だった。
米通商代表部との会合室。
アメリカ側代表は、表情を崩さないまま、赤嶺大臣のお願いを黙って聞いていた。
「ヒノモトは米国にとって特別な投資国です。我々は80兆円規模の投資をすでに約束しており、これは……」
会議室の空気が冷えていくのを、圭は肌で感じていた。向こうの補佐官の一人が、資料を閉じて腕を組む。アシスタントの女性が時計をチラリと見た。誰も言葉にしなかったが、空気は明らかだった。
「またお願いか」
3回目以降の交渉では、ある米高官があからさまに席を外し、「彼とはもう話す意味がない」と漏らしたとも聞いた。
交渉など、初めから成立していなかったのだ。
帰国機の中、圭は赤嶺大臣の眠る姿を横目で見つめながら、自分の胸に問う。
(あれは、交渉じゃなかった。ただの、土下座だった――)
しかも、成果ゼロのまま帰国しても、メディアは総理の記者会見を垂れ流すだけ。
「関税引き下げ」「日米友情」「歴史的合意」……その言葉の裏に、実際に何があったのかは、誰も知らない。誰も、知ろうとしない。
圭は歯を食いしばった。
「……これで、国の経済が守られてるって言えるのかよ」
その問いに答える者は、機内のどこにもいなかった。
第三節 敵は内側に
帰国から数日後。烏丸圭は、永田町の控室で一枚の資料を前に黙り込んでいた。
――「対中経由ルート遮断協力の要請」。
それが、アメリカ政府が日本に突きつけた本命だった。
中国企業がデラノ政権の制裁を逃れるために、日本国内に迂回拠点を設け、そこから世界へ製品を輸出する――そのルートを断つこと。すなわち、日本が「チャイナ包囲網」に加わるかどうかが、交渉の本質だった。
だが、ヒノモト政権はこの件を、まるで存在しなかったかのように無視した。
「理由? 言うまでもないさ」
そう言ったのは、圭の上司であり、通商局内でも最も冷めた現実主義者として知られる男だった。
「この国の政治家の多くは、チャイナマネーに尻尾振ってる。特に、財務省寄りの与党議員連中はな。国内の再選、企業献金、何より……還付金の構造がある」
「輸出還付金……ですか」
圭が思わず繰り返すと、男は肩をすくめた。
「国民の消費税を大企業に払い戻して、その大企業が政治献金で民自党を支える。その金でまた選挙に勝つ。そんな構造を、アメリカに指摘されたらどうする? こっちは関税で文句言ってるくせに、自分たちは実質的な補助金制度を続けてるってことだ」
圭の背筋に寒気が走る。
アメリカは、ヒノモトの制度の歪みまで見抜いていたのだ。
表向きは友好国、裏では信頼も透明性もなく、骨の髄まで既得権益に絡め取られた国家。
「チャイナには何も言えず、アメリカにも誠意を示せず、国内は利権の鎖で動かない。こんなの、国家の体をなしてない」
その言葉は、思わず口をついて出た。
だが、室内には冷たい沈黙だけが残った。
圭は思い出す。
ちょうどその頃、かの親中派の大物議員――元幹事長の後任が、堂々と北京を訪問していた。デラノ政権の対中制裁が最も厳しくなっていた時期に、だ。
テレビではその訪中を戦略的な友好と称え、ニュースは相互理解の深化と称した。
だが、圭にははっきりと見えていた。
それは国家の交渉不能という、最大の敗北だった。
「俺たちは……何のために交渉してるんだ……」
自問に答える声は、やはりどこにもなかった。
第2章 嘘で塗られた成果
第一節 国民は知らされない
朝のテレビから、音楽付きのニュース速報が流れていた。
「昨日、石谷総理はアメリカとの通商合意について、『日米関係の絆の象徴であり、自由貿易の未来を開くもの』と語りました」
笑顔の総理が映る。隣には大統領。まるで友人のように肩を組み、親しげに談笑していた。
アナウンサーが明るい声で続ける。
「自動車関税の大幅引き下げや、農産物の関税撤廃が合意され、日本企業の海外展開に追い風となりそうです!」
スタジオのコメンテーターは笑顔で頷き合っていた。
「いやあ、うまくやりましたねえ、今回は!」
「ようやく日本も、対米交渉で結果を出せるようになってきましたよ」
烏丸圭は、その映像を無音で眺めながら、カップのコーヒーを握りしめていた。
その手は、わずかに震えていた。
(どこまで、嘘を重ねるつもりなんだ……)
事実は違う。
「関税引き下げ」などというものはなく、むしろ引き上げだった。
交渉ではなくお願いだった。
合意ではなく譲歩だった。
それなのに、画面の中では、あたかも歴史的な快挙かのように報じられている。
政権が嘘をついた。
メディアがそれを拡散した。
国民はそれを信じた。
そして――誰も、怒らない。
霞ヶ関の通商政策局では、すでに成果報告書のドラフトが回覧されていた。
そこには、美辞麗句の羅列が並ぶ。
「戦略的連携」「パートナーシップの深化」「アジアの安定的成長の礎」――まるで詩のような表現だった。
「おまえ、目立ったことするなよ」
同僚が圭の耳元で呟いた。
「本当の数字を話すと、飛ばされるぞ。誰も損したくないんだ」
圭は黙って頷いた。
だが、その胸の奥には、確かに何かが蠢いていた。
怒りではない。悲しみでもない。
疑問だった。
(……このままでいいのか?)
正しいことを言えば潰される。
黙って従えば生き残れる。
そんな空気が、この国を包んでいる。
いや、もう随分前から――すでに、そうだったのかもしれない。
報道の中の総理は、笑っていた。
だが、その笑顔の下にある数字は、国民の財布と未来を切り取る刃に他ならなかった。
第二節 沈黙の対価
「おもしろい男がいるらしいな。通商局に」
地下書庫のような一室に、低く響く声が落ちた。
そこにいたのは、無所属の議員・天野宗一郎だった。
異端の告発者として知られる男。与党からも野党からも距離を置き、メディアでは常に厄介者扱いされている。
だが、政界の一部ではこう呼ばれていた――「最後の真実屋」。
その天野が目をつけたのが、烏丸圭だった。
きっかけは、小さな内部資料だった。
圭が削除し忘れた非公式メモ。その中にあった、交渉の真実を示す「元データ」のコピー――実際の関税率の変遷と、その印象操作の過程を示す表は、天野のもとへ、どこからともなく届いた。
「……おまえ、命を懸けるつもりあるか?」
初対面のその質問に、圭は答えられなかった。
ただ、天野の目を見た。
そこには、利害も駆け引きもない、まっすぐな意思だけがあった。
「おまえが見たもの、聞いたこと、記録に残っているものを、国会で明かしてくれ。録音でも記録でも、何でもいい。俺が引き受ける」
「でも……そんなことをしたら、俺は……」
「潰されるか? たぶんな。出世は消えるし、左遷、監視、身内にも圧力がかかる。だが、それが沈黙の対価だ。おまえが黙れば、この国はこのまま変わらない」
圭の喉が乾いた。
言葉を出そうとすると、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
確かに、彼は見たのだ。
お願い外交の惨状を。
成果の捏造を。
親中派の微笑を。
そして、国民が偽りの希望に酔わされていく様を――。
目を閉じると、テレビで笑う石谷総理の顔が思い浮かんだ。
あの無邪気な笑顔が、なぜか怖かった。
「おまえが何も言わなければ、また来年も同じ会見が開かれる。数字はごまかされ、国民は何も知らないまま搾られる。永遠にだ」
天野の言葉は、鋭利な刃物のように、圭の良心を切り裂いた。
「それでも黙るなら――黙ったまま、死ぬ準備をしておけ」
圭はゆっくりと、うなだれた。
その沈黙こそが、自らにとって最も重い選択であることを、ようやく理解し始めていた。
第三節 記録という反逆
深夜の通商局。
蛍光灯の白い光の下、誰もいないフロアに、烏丸圭のキーボードの音だけが響いていた。
彼は、あるファイルを探していた。
会談第3回(録音草稿)関税推移 内部比較版天野議員提出用――メモ書きのように存在する非公開フォルダ。官邸が改ざんを恐れて保管を渋っていた、本物の記録。
その中にあった音声ファイルを開いた。
《私どもとしては……貴国に対し、これまでの投資、そして友好関係を前提に、関税面での柔軟な対応を……》
《我々は、お願いを聞く義務はない。何を提供できるのか?》
赤嶺大臣と米代表の声。
緊張した空気。沈黙。大臣の困惑。そして、「誠意」という言葉の繰り返し――。
圭は、イヤホンを外した。
吐き気がした。
(これが、交渉の正体か……)
あまりにも情けない。
この国の大臣が、国民の税金で何度も渡米して、相手にお願いして、拒否されて帰ってきた。
その事実が、削除されようとしている。
代わりにテレビでは、嘘の数字と笑顔だけが流れている。
「……ふざけるな」
圭は、USBにその音声ファイルを写しながら、すぐに別のフォルダを開いた。
そこには、消費税還付金の実態をまとめた内部資料があった。
《還付金流入経路:企業A〜Z/政治献金ルート/見返り案件》
《再選支援との相関図》《財務省ヒアリング記録抜粋》……
(これだけの構造が、知られずに存在しているのか)
国民から集めた消費税。
それを企業に返し、企業が政権を支える。
その政治家たちは、中国に頭を下げ、アメリカには誠意を唱える。
圭の手が止まった。
背後に――誰かの視線を感じた。
振り返る。誰もいない。
ただ、オフィスの出入り口の方から、微かに足音が聞こえた気がした。
(……まさか)
監視は、すでに始まっているのかもしれない。
圭は、USBをポケットにしまい、資料の一部を手帳に書き写すと、データの痕跡を全て消した。
気配が濃くなっていく。
しかし、怯えている暇はなかった。
真実を隠す国家に対し、個人ができる反逆は、記録することから始まる。
翌朝、圭は天野議員に一通のメールを送った。
件名:ご相談の件について
本日中、音声と資料の一次提出が可能です。場所は、例の喫茶店で。
送信を押した瞬間、圭は小さく息を吐いた。
もはや、戻る道はない。
だが、その一歩が、この国の未来にとって唯一の交渉になるかもしれないと、彼は信じていた。
第3章 密約と告発
第一節 影の手
地下鉄のホームは朝の通勤客でごった返していた。
その雑踏の中、烏丸圭は、背中に視線を感じていた。
ただの思い過ごし――そう思おうとするたびに、背後の気配は濃くなる。
(……つけられている?)
昨日、天野議員に音声と資料の一部を手渡した。
喫茶店の個室。監視カメラの死角。あらかじめ電波遮断ポーチも使った。抜かりはない――はずだった。
だが、朝の出勤途中、電車を降りた圭のスマートフォンが再起動を繰り返した。
手帳に挟んでいた資料のコピーが、帰宅時にはわずかに位置がずれていた。
そして今、雑踏の中で、明らかに異物のような視線を背中に感じる。
「……始まったか」
小さく呟いたその声は、騒音にかき消された。
だが、圭は確信していた。
国家が動き出した。
天野議員からのメッセージは、簡潔だった。
「確認済。内容は確か。だが、対価は覚悟せよ」
同じころ、国会内では別の動きが始まっていた。
首相官邸・特別広報室。
政権与党・石谷政権の中枢に近い部屋で、数人の男たちがモニターを囲んでいた。
「烏丸圭……か」
低く発せられたその名に、重い沈黙が落ちた。
「なぜ彼が……?」
「第6回会談の音声を保持していた。内部で何者かがフィルタを抜けたらしい。情報源の洗い出しを急がせろ」
「天野と接触していた形跡あり。議員会館の出入り記録が残っている」
会議室に響くのは、粛清の準備のような冷徹な報告ばかりだった。
「このままでは、還付金構造も中国ルートの黙認も、すべて表に出る」
「叩け。徹底的に。社会的に死んだことにしてやれ」
「ただし、静かに、だ。選挙が近い」
一方その頃、天野宗一郎は、国会内の控室でひとり音声を再生していた。
お願い外交の記録。関税の事実と虚偽説明。議事録にはないやりとり。
そして、還付金の不自然なルートを示す内部資料。
天野の目は、獣のように鋭くなっていた。
「これを、国会で出す……いや、その前に、動きが来るな」
政治の世界は、告発者を潰すことに慣れている。
メディア操作、SNS工作、関係者の誤解、経歴の再調査、失言の編集。
全ては、静かに、確実に、社会的な死へと導くための手口だ。
だが、それでも彼は覚悟していた。
(この国には、まだ声がある。隠せないものもある)
その声を手にした者が、今、踏み出そうとしていた。
第二節 切り離される者
月曜の朝。通商政策局のオフィスに入った瞬間、空気が変わったことに圭は気づいた。
同僚たちは一斉に目をそらし、コピー機の前でヒソヒソと話す声が止まる。
席に着くと、圭のメールアカウントは無効になっていた。
ネットワークにもログインできない。
内線は切られ、電話も鳴らない。
「……あからさまだな」
そう呟いた声に、誰も返さない。
上司は不在。隣席の同僚も、朝から出勤していないらしい。
机の上には、匿名のメモが一枚――
誰が見てるかわかってるか?
文字は整っていた。だが、そこに込められた敵意は、はっきりしていた。
昼休み、携帯電話が鳴った。
「おたくの部下さん、なんか最近不穏な動きしてるそうですね」
低くくぐもった声だった。
無言で通話を切ると、すぐに別の番号から着信。内容は同じ。
身辺調査、取材要請、過去の論文の剽窃疑惑――根拠のない噂が、圭を包囲し始めていた。
その夜、圭は実家の母からの電話を受けた。
「圭……何かあったの? 変な人が来て……息子さんの仕事についてお話がって……」
背筋が凍った。
「……ごめん。何も言えない。でも、俺は……ちゃんとしたことをしてる。間違ってない」
母の声は震えていたが、何も聞かず、ただこう言った。
「……圭、身体だけは気をつけて。どんなに正しくても、命あってのことよ」
その言葉が、心に刺さった。
(本当に、俺は誰のために、何のために……?)
正義? 国益? 政治の浄化?
いや、それらは建前にすぎない。
本当は――あの日、テレビで笑っていた総理の顔が、あまりに空っぽに見えたからだ。
誰も怒らず、誰も疑わず、誰も真実を追わない。
それが、耐えがたかったのだ。
(俺は、黙る大人になりたくなかっただけだ)
圭は、立ち上がる。
ロッカーの奥にしまっていた録音機と、天野に渡していない本物の全データが入ったSDカードを手に取った。
「……やろう。潰れるなら、納得して潰れる」
もう後悔はしない。
彼が立ち向かうのは、失われた交渉力ではない。
嘘を受け入れることに慣れすぎた、この国の空気そのものだ。
第三節 真実はここにある
国会の予算委員会室。
照明がまぶしく、空調の風は冷たいはずなのに、圭の手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。
傍聴席に圭の姿はない。
彼は別室に待機していた。
この日、登壇するのは――天野宗一郎。国会でも数少ない爆弾処理係の異名を持つ男だ。
静かに、天野が立ち上がる。
議場にざわつきが走る。
「本日、私はある事実を持ってここに立っています。
日本政府が交渉に成功したと自賛する日米通商合意、その実態に関する記録です」
大臣席がざわつく。
石谷総理が、小さく首を傾げる。
赤嶺大臣は、無表情のまま資料に視線を落とすフリをしていた。
「まず、音声記録を――再生します」
議場に、あの音声が流れた。
《我々は、お願いを聞く義務はない。何を提供できるのか?》
《……友好国としての、誠意を……》
《それは交渉ではない。ただの希望だ》
凍りつく空気。
議員席の一部が騒然とする。
天野は、言葉を選ぶように口を開いた。
「我が国の交渉は、交渉と呼べるものではなかった。
そして、それを成功と偽り、国民を欺いた責任は、誰が取るのか」
議長が慌てて制止を入れる。
「天野議員、これは……!」
「静粛に! これは国民の権利だ。
我々が支払っている消費税が、どこに流れているか。
誰が中国へのルートを黙認し、どの企業が恩恵を受け、どの政党がその金で選挙に勝っているか――全て記録がある」
モニターに映し出された表。
企業名と政治献金、還付金額、立法支援履歴、訪中議員団の名簿――。
そこには、この国の密約構造がはっきりと刻まれていた。
赤嶺大臣が立ち上がる。
「そのようなもの、捏造された……!」
「ならば、国民の前で調査を拒否するのですか?」
天野の問いに、答える者はいなかった。
別室のモニターを見つめていた圭の目に、涙が浮かんだ。
あの音声。
あの数字。
この国の誰も怒らなかった事実を、ようやく誰かが突きつけた。
彼は誰かを倒したかったわけではない。
ただ、嘘に慣れた空気を、少しでも動かしたかっただけだった。
モニターの向こうで、天野が最後に言った。
「――これは、たったひとりの若い官僚が記録した交渉なき国家の記録です。
我々は、まだ真実を語れるのか。語らないまま、国を任せるのか。国民の皆さんに問います」
その言葉が終わるころ、議場には、言いようのない沈黙が立ち込めていた。
交渉ではないお願いが、ようやく日の下に晒された。
第4章 広がる静寂
第一節 誰も見なかった国会中継
翌朝。
テレビは、ワイドショーの特集で賑わっていた。
大型連休直前のレジャー情報、人気スイーツランキング、芸能人の離婚話題。
どのチャンネルを回しても――あの告発は、報じられていなかった。
「昨日の国会? ああ……少し変わった人がまたなんか言ってたってやつね」
会社の給湯室で、OL風の女性が同僚と話していた。
「また天野? やだねぇ」「ああいう人、正義感強いっていうか、ちょっと怖いよね」――笑いながら、彼らはカフェの新メニューの話に戻った。
一方、SNSでは「天野議員の国会爆弾発言」が一部で拡散されていた。
だが、それは「陰謀論扱い」のタグをつけられ、検索アルゴリズムの深い海へ沈んでいった。
音声データの抜粋も、無許可転載として削除。
還付金構造の図解は「情報の信頼性に疑義あり」として警告付きに。
圭のスマートフォンに通知が鳴った。
[投稿が削除されました:ポリシー違反]
[あなたのアカウントは一時的に制限されています]
圭は何も言わず、通知を閉じた。
天野議員の元には、複数の「勧告」が届いていた。
「会派内でのバランスを取ってほしい」
「やり方が強引すぎる」
「次の選挙が危うくなる」
会派を問わず、彼を利用価値のない危険物とみなす声が、党派を越えて広がっていた。
「やっぱり、こうなるか……」
天野はひとりごちた。
かつて、多くの官僚や政治家が同じ目に遭って消えていった――彼は、それを知っていた。
真実は、騒がれなければ存在しないに等しい。
圭の声は、確かに国会で響いた。
だが、その音は、テレビのスピーカーから流れなければ、社会には届かない。
圭は、マンションの一室でPCを見つめながら呟いた。
「本当に……誰も見てないのか」
アクセス解析は無慈悲だった。
動画再生数:312回。
RT:9。
コメント:0。
まるで、この国全体が交渉の不在を見なかったことにしようとしているようだった。
その夜。
圭の元に、一本の電話が入る。
「あなた、見てますよ。あんまり動くと、今度は家族がどうなるかわかりませんからね」
圭は、言葉を失った。
声を上げても、何も変わらない。
むしろ、潰される。
そんな静寂の正体が、今まさに、社会を包み込もうとしていた。
第二節 かすかな火種
木曜の朝。
圭は自宅マンションのポストから、身に覚えのない封筒を見つけた。
差出人の名前はない。
中には、手書きの短い手紙と、コンビニのコピー用紙が数枚。
「あなたの言ったこと、本当だったんですね。
私の兄は、米国の下請けで働く町工場の経営者でした。
あの関税が上がった日から、納品数は激減し、半年後に倒産しました。
テレビは交渉の成果って言ってたけど、うちは現実を食らいました。
真実を言ってくれて、ありがとうございます。どうか、ご無事で。」
震える文字だった。
だが、その言葉には、何よりも確かな実感があった。
手紙と一緒に入っていたのは、経産省に提出された「中小製造業経営困難報告書」の写し。
データ上では「景気は横ばい」と記されていたが、添付された自由記述欄には、切実な悲鳴が綴られていた。
「注文が消えたのに、補助金は出ない」
「投資は都市部ばかり。地方は見捨てられた」
「ニュースの話と、現実が合わない。嘘ばかりだ」
圭は思った。
(彼らは見ていたんだ。だが、言葉を持たなかっただけだ)
同じ頃。
天野宗一郎のオフィスにも、封筒が届いていた。差出人は高校教師。
「公民の授業で、あなたの国会質問を教材にしました。
生徒のひとりがこれって、日本って植民地ですか?と聞いてきました。
私は答えられませんでした。
ただ、こういう議員がいることを、彼らに伝えたかったんです。」
天野は封筒を静かに閉じた。
「火は、消されても、種は残る」
かつて自分が、誰かの言葉に心を動かされたように。
圭の告発も、決してゼロにはなっていない。
その夜、圭は一つの投稿を見つけた。
「あの議員の話、うちの取引先でも話題になってた。
工場の親父があれは本当だって言ってたよ。
テレビで言わないのが怖いんだって。」
コメント欄は数えるほどだったが、すべてが真っ白ではなかった。
「よくぞ言った」
「信じてる」
「消されるな」
圭は、画面を見ながら、胸の奥で何かが燻っているのを感じた。
まだ終わっていない。
まだ、この国には聞こうとする耳が残っている。
第三節 言葉では足りない
「届いてはいる。けど、それだけじゃ、変わらないんだよ」
天野宗一郎は、重たい口調でそう呟いた。
告発の余波は、政界の内部で一部波紋を広げた。
与党内でも「このままではまずい」とする若手議員の声が上がり、報道機関の一部も水面下で取材を始めたという。
だが、表面には何も現れなかった。
既存の仕組み、言葉、手順――すべてがこの国の静寂に吸収され、消えていく。
「音声も資料も、今のままじゃ印象操作って言われる。だったら……目に見えるものにしないと」
圭が口にしたのは、新たな構想だった。
ビジュアル化。
圧倒的なデータとロジックを、誰が見ても理解できるかたちに変換する。
還付金の流れ、対米譲歩の履歴、政治資金の回転図、中国企業の経由ルート――
それらを、映像として編集し、可視化して公開するという計画。
「視覚は、言葉より早い。目で見せて、そうだったのかと腹に落ちるものを作る」
それは、官僚らしからぬ提案だった。
だが、圭はもはや官僚であることよりも、真実に背を向けない人間であることを選んでいた。
「一緒にやろう」
天野はそう言って手を差し出した。
「この国が、もう一度自分で考える場所になるために」
圭はその手を握った。
その時、彼の背中には、誰かが貼った内部告発者の烙印も、裏切り者の影も、もう感じられなかった。
数日後。
圭と天野は、データ可視化のプロジェクトチームを極秘に立ち上げた。
匿名の技術者、フリーの編集者、退職済みの旧友、大学ゼミ時代の同期――わずかなつながりを辿りながら、国家のからくりを解剖する作業が始まった。
社会は沈黙している。
だが、データは嘘をつかない。
そして――数字と記録が、武器になる時代が来た。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
第1章から第4章では、「お願いしかできない交渉」の実態と、それがいかに国民の目に成果として誤認されるか、その裏側を描いてきました。
形だけの記者会見。空虚なスローガン。すり替えられる数字。
しかし、本当に恐ろしいのは、その背後にある「無関心」と「諦め」かもしれません。
次回、第5章以降では、密約の真の代償が明らかになります。
フィクションだからこそ描ける、リアルな構造。ぜひ引き続きご覧ください。