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№6 素晴らしきかな、人間

№6 素晴らしきかな、人間

 主人を殺して自由の身となり、騎士団から逃げ回っていたジョンは、はじめのうちは野生動物のような暮らしをしていた。


 動物を襲って食い、小川で水を飲む。


 ほとんどケダモノに近い生活を送りながらも、ジョンは考えていた。


 ちからをつけろ、と神の声は行っていた。


 ちからとはなにか。


 もちろん、屈強な肉体や強力な魔法、知恵や知識といったものも含まれるだろう。


 しかし、ジョンの求める強さとは、主人を殺したときのあの感覚だった。


 みずからの道をみずからの手で切り開く覚悟。


 そうして勝ち取り、前へと進む。


 そんな精神こそが強さだと、ジョンは思っていた。


 とはいえ、小柄な元奴隷の少女がこんな野生動物のような暮らしをしていて『精神的な強さ』というものを唱えていても、まったく説得力がない。


 説得力を持たせるためには、肉体的にも知的にも強くならなければならないのだ。


 決意したジョンは、森の中にある山小屋の扉を叩いた。


 出てきたのは隠居の身らしい老婆だった。


 真っ裸で汚れていてぼさぼさの髪をした野生児そのもののジョンを見て、老婆はひどく驚いた。


「あなた、どうしたの!?」


 その質問に、ジョンはただ『奴隷元を逃げ出してきた』とだけ答えた。凌辱未遂や大量虐殺など、老婆には刺激が強すぎるだろう。それに、バカ正直に答えて騎士団に通報されてしまえばおしまいだ。


 さいわいにも老婆は善良な人間らしく、それ以上は詮索もせずにジョンを山小屋に上げてくれた。まずは清潔なタオルで全身を拭き、老婆が昔着ていたのであろう服を着せてくれた。


 簡単なスープとパンを供されたときは、生まれて初めて料理というものを味わって、ジョンは少し泣いてしまった。


 何杯かスープをおかわりして、ようやく腹が膨れたジョンはすっかり人間らしい落ち着きを取り戻していた。


「安心なさいね。ここは私ひとりだけだし、元の奴隷小屋に戻そうなんて思っていないから。どういう事情があって逃げ出してきたのかはわからないけど、気が済むまでここにいるといいわ」


 この世界に生まれてこの方、こんな風にひとりのひととして尊厳を払って接してもらったことはなかった。いつも家畜のような扱いで、尊厳をすり減らしていった。


 そんなジョンだが、こういう時にどういう反応をすればいいのかは、普通に生きていた前世の記憶で知っている。


「……ありがとう、ございます……」


 蚊の鳴くような声音で、今回の人生で初めてのお礼を口にする。老婆は一瞬驚いたような顔をしたが、やがて微笑んでジョンの頭を撫でてくれた。


「こんなに小さい女の子が、よく奴隷労働なんて耐えられたわね……さぞかしつらい思いをしたでしょう。ここで会ったのも何かの縁、あなたが気に入ればこの小屋にいくらでもいていいのよ」


「……ありがとう、ありがとう……」


 それしか言語を知らない赤子のように、ジョンはかすれた声で繰り返し繰り返しお礼を言った。初めて人間らしい扱いをされて、感謝の念しかない。この老婆には対等以上の敬意を払わなければならないということは、ジョンにもわかった。


「さあ、逃げ回る生活は疲れたでしょう。まだ夕方だけれど、うちのベッドは大きいから、あなたくらいの女の子がひとり増えたって問題ないわ。早くおやすみなさい」


「……はい」


「ああ、そういえばあなた、名前はあるの?」


 老婆に問われて、ジョンは一瞬迷った。


 ジョン・ドゥーという名は、殺戮の果てに己につけた名だ。なにも事情を知らない老婆に伝えていいものか、と。


「……ジョンです。ジョン・ドゥー」


 結局、他に気の利いた偽名も思いつかなかったので正直に名乗っておく。


「ジョン、ねえ……女の子につける名前ではないけれど、いい名前だわ。名前も聞けたことだし、もう眠りなさい、ジョン。明日からこの世の中のことを教えてあげる。その代わり、お手伝いもしてね」


 にっこり笑う老婆に、ジョンはこくりとうなずいて返した。


 清潔なシーツが敷かれたベッドはふかふかで、昨日まで地べたに転がっていたジョンにとっては天国のように感じられた。


 あまりのここちよさにすぐに眠気がやって来る。


 ここへ来てよかった。そう思いながら、ジョンはこの世界に来て初めてぐっすり眠った。


 


 翌日から、約束通り老婆からいろいろと教わった。


 読み書きや計算はもちろんのこと、一般常識や教養なども懇切丁寧に説明してくれた。最初の一歩は難しくてジョンもくじけそうになったが、ある程度の読み書きができるようになると本が読めるようになった。老婆が持っていた本を片っ端から読み漁り、ジョンはみるみる知識を蓄えていった。


 芋の皮むきや水汲み、床掃除など、老婆のためにジョンは懸命に手伝いをした。手伝いが終わると、決まって他にやることはないかと老婆に尋ねた。老婆は笑って、お茶にしましょうか、と言うのがお決まりだった。


 朝昼晩ときちんとした料理が出てくる。それだけでもジョンにとっては驚くべきことだった。料理という概念は前世で学習していたが、この世界にもちゃんと存在するのだと知って感動すら覚えた。


 味覚も次第に開発されていき、うまいまずいがわかってからは、ジョンも料理の手伝いをするようになった。老婆といっしょに作った料理は格別においしいような気がした。


 夜は老婆といっしょに大きなベッドであたたかい布団に包まって眠る。これまで安眠とは程遠い生活をしてきたジョンは、夜眠りについてから朝目覚めるまで一度も起きることがなかった。おはよう、お寝坊さん、と老婆にいつも起こされていた。


 そういう『当たり前』の積み重ねが、ジョンの人間性を徐々に回復させていった。自分は家畜ではなくれっきとしたひとりの人間なのだと思い出せるようになったのだ。


 尊厳でメシは食えないが、尊厳なくしては生きていけない。そんな風なことを誰かが言っていたような気がする。これも前世の記憶だろうか。


 やはり、あのとき主人を殺害するという道を選んだことは間違いではなかったのだ。レールを外れて初めて、ジョンは人間として生まれ直した。


 笑うことを思い出し、泣くことを思い出し、怒ることを思い出し、楽しむことを思い出した。かつて人間だったころ、当たり前のようにやってきたことを、ようやく思い出すことができた。


 はじめはおっかなびっくりだったが、慣れてくると老婆とコミュニケーションも取れた。マトモな人間など周囲にはいなかったせいで、ひどく戸惑うこともあったが、少しずつ人間らしい反応や受け答えというものを学習していった。


 人間、人間、人間!


 なんと素晴らしいことか!


 ただのケダモノではなく、ひとりの人間としてこの世に生を受けたしあわせを、ジョンはひたすらに噛みしめていた。


 奴隷のままならば一生わからずに終わっていただろう。しかし、ジョンはこの手で勝ち取ったのだ。このしあわせは他の誰でもない、自分が血にまみれた手でつかんだものだ。


 やさしい老婆とのしあわせな時間は、ジョンに人間のすばらしさを教えてくれた。人間であることの価値を思い知った。


 うまれてきてよかった、と初めて思うことができたのだ。


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