わたくしが育てた最強に可愛い妹と婚約者ですがなにか【電子書籍化】
「この子がわたくしの妹? 何の冗談ですの」
見るからに見窄らしい、襤褸雑巾のような子供が?
貴族の生まれだというのに、庶民の方がいい服を着て健康そうに見える。
怯えたような緑色の目を潤ませるガリガリに痩せた子供を見て、わたくしは形のよい眉をひそめた。
「認めませんわ」
「エリンお嬢様」
「このような者、わたくしの妹だなんて認めません」
床に這いつくばって怯えた目をする子供の前で仁王立ちになり、厳しく宣言したわたくし。
それはわたくしと彼女が初めて顔を合わせた十年前のこと。
そして今。
「お姉様…お姉様とジャスパー・キャットウェル様との婚約を、破棄してください」
床に膝を突いたわたくしの前に立ち感情を押し殺した声を出す彼女。
わたくしエリン・アヴァスは、妹となったアイリーン・アヴァスを見上げながらあの日と逆転した立ち位置に感慨深い物を感じていた。
だがしかし、それどころではない。
「…アイリーン。あなた、他に言うことがあるでしょう」
「何もありませんわ。お姉様、婚約を破棄してください」
「本当にそれ以外言うことは無いの?」
「あるわけがありません。お姉様、私が冷静でいられる内に婚約を破棄してください」
「それを言い出している時点で冷静ではなくてよ…アイリーン。落ち着きなさい」
言いながら、私はそっと彼の肩に手を添えた。
「あなた本当に、わたくしの膝で休んでいたところをあなたにソファから引きずり下ろされて呆然としているジャスパー様への謝罪はないの?」
「私如きに引きずり下ろされるような男、お姉様に相応しくありません!」
問題のジャスパー様は、床にひっくり返ったまま目を白黒させてぽかんとしていた。
そう、わたくしが床に膝を突いているのは、ソファから転がり落ちた婚約者のジャスパー様を心配してのこと。
ちなみに何が起きたのかというと、疲れが溜まってしょぼしょぼしていたジャスパー様を、わたくしが婚約者として癒やすべくソファで膝枕をしていた…ただそれだけだ。
だがそれが、アイリーンにとっては気に食わないことだった。
「お姉様のお膝は、私だけの物だったのに…! 少なくともこの時間は私だけの物だったのに! 婚約者だからってアポなしで来て、私とお姉様の時間を邪魔するなんて…!」
妹は、立派な淑女…ではなく、立派なシスコンへと成長を遂げていた。
「だ、だって俺、婚約者だし」
やっと身を起こしたジャスパー様は、おどおどと肩を竦ませながらアイリーンへ言い返す。アイリーンの緑の目がギラリと光り三角になった。ジャスパー様の悲鳴が響く。
「婚約者だからこそ許せない! お姉様のお膝の柔らかさを堪能した後頭部に呪いをかけるわ! そこだけハゲればいい!」
「なんて恐ろしい呪いをかけるんだ!」
「呪えませんから落ち着きなさい」
蒼白になって後頭部を押さえるジャスパー様。冷静に声を掛けるわたくしを振り返る青い目は涙で潤み、今にも零れ落ちそう。
うん、可愛い。
ジャスパー様は一つ年上ですが細身で、常に眉が下がっている困り顔が定着している柔和な男性です。茶髪に青い目の、整った顔立ちですがどこにでもいる貴族的な男性。
それがわたくしの婚約者、ジャスパー・キャットウェル侯爵令息。
彼はそのなよなよした外見から、多方向から仕事を任されることが多い。そこそこ器用に熟せてしまう器用貧乏も相まって、彼はいつも困るほど忙しかった。そう、本当にいつも困っている。
「アイリーン。ジャスパー様は今、仕事をしない権威だけある生徒会長と問題ばかり起こす新入生に挟まれてお疲れなの。副会長にも目を付けられて、お家でも上のお兄様が駆け落ちしたとかで混乱しているし、とてもお忙しいの。意地悪をしてはだめよ」
「お姉様はいつもその泥棒猫の肩を持つ!」
泥棒猫と罵るアイリーンこそ猫のように毛を逆立てている。
「婚約者として、疲れている相手を癒やすのは当然のことよ」
「そうやってお世話する気でしょう! 私にしたみたいに! 私にしたみたいに!」
アイリーンはそう言って地団駄を踏んだ。
「疲れた身体に優しい料理をふーふーあーんで食べさせて! 温かいお風呂にゆっくり浸からせて! 寝付くまで添い寝してお腹をポンポン叩くんでしょう! 私にしたみたいに! 私にしたみたいに!!」
「えっ?」
「当然でしょう。わたくしの婚約者ですもの。わたくしがお世話をするわ」
「えっ!?」
地団駄を踏むアイリーンと真顔のわたくしを交互に確認するジャスパー様。青くなったり赤くなったり忙しい。本当に忙しい人だわ。
でもってちょっと期待してわたくしを見るので、アイリーンの目は吊り上がっていく。
「お姉様に、こんな世話を焼かせるなんて許せない…! お姉様には、お姉様の手を煩わせない自立した男性こそが相応しいのよ…!」
「う、確かに俺は彼女に頼りきりだが君の言い分は…っ」
「何よ!」
「うっ」
女性に強く出られないジャスパー様は、睨み付けてくる三つ年下の女の子にも強く出られない。
「アイリーン。本音は?」
「婚約者がそれじゃぁ妹の私がお姉様に甘える時間が減るじゃない!」
「ほらね知ってた!」
「何よ!」
「アイリーン」
名前を呼べば、きゅっと小さな唇が噛み締められる。大きな緑の目は潤んでいて、こちらも今すぐこぼれそう。怒鳴って感情が高ぶっている証拠だ。
「ジャスパー様は、本当にお疲れなの。今は譲って頂戴」
「うー…っ私だって私だって私だって、お勉強がんばったのに…っ」
「そうね。いい子…今日は一緒に湯浴みしましょうね」
「ぶ!?」
わたくしの隣で真っ赤になって噴き出したジャスパー様はこの際見ない。わたくしが見るのは、わたくしの言葉に喜色満面になった妹の顔だけ。
「絶対よ!? 約束よ!」
「ええ、約束よ」
「なら譲ってあげるわジャスパー・キャットウェル様! 次にアポなしで来たら噛みついてやりますからね!」
「淑女としておやめなさい」
「ごめんあそばせ!」
そう言って軽やかに退室したアイリーン。謝罪させることはできなかったけれど、退室させることは成功した。
噴き出して咳き込んでいたジャスパー様は、顔を真っ赤にしながらよろよろ立ち上がってソファに普通に座った。わたくしもその隣に座る。
「膝枕の続きはいたしますか?」
「ごめん…今は無理…」
真っ赤な顔を隠すように両手で包み俯いているけれど、隠れていない耳が目立つほど赤い。
湯浴みの話題くらいで真っ赤になるなんてとても初心な人だなぁと、わたくしは思わずほっこりした。
「あ、あのさぁエリン…俺、確かにアポなし訪問だったけど…将来の義妹に婚約破棄を勧められるほどの大罪だった?」
顔を隠したままボソボソと問われ、わたくしは一つ頷いた。
「あの子にとってはそれ程の大罪でした」
「うう、そうだったの? 前から嫌われていると思ったけど、もしかしてこれ決定打? 俺やっちゃった?」
「いいえよろしいのです。少しずつ、あの子も覚えなくてはいけませんから」
「え、なにを」
きょとんとする彼に、わたくしは小さく微笑んだ。
「わたくしのいない生活を」
エリン・アヴァスが七歳のとき。
わたくしは誇り高き侯爵家の一人娘だった。
銀色の巻き毛はお母様。緑の瞳はお父様から譲り受けた、アヴァス侯爵家の唯一の後継者…と、信じていた。
そう、別邸に忍び込むまでは。
侯爵家には本邸と、その隣に別邸がある。
といっても庭の木々に遮られ、存在を忘れられたぽつんと建つボロ小屋に近い建物だ。
その昔、侯爵家が医療が未発達だった時代。咳一つで病気が移ると信じられていた時代に建てられたもので、療養するための屋敷として作られた。
つまり隔離部屋だ。
病気になった者は本邸から別邸に移されて、咳をしなくなるまで隔離される。最終的に呼吸が止まるか、病症が安定するかは本人の気力と運次第。医療ではなく祈祷や信仰で病が治ると信じられていた、信じられない時代の遺物だ。
もう医療も発達して、病気になったからと言って早々に隔離されることはない。それでも解明できぬ病はあるから、万が一のために小さな建物は取り壊さず残してあるのだと聞いていた。
実際、他のお屋敷にも別邸が存在する。
そういうものなのね、と頷いたわたくしは、特に別邸を気にしていなかった。
本邸ですら隅々まで把握しているわけではなかったから。わたくしの興味はまず、本邸にあったのだ。
見事な銀髪を結い上げて社交に勤しむお母様は、お忙しいので家のことは家政婦長に任せっきり。家政婦長は教育に厳しくて、わたくしが遊び回るのをよしとしない。
だからわたくしはいつもお部屋でお勉強。
いつも厳しい顔で緑の目をつり上げているお父様は軍人で、三年前から戦地に赴いている。
わたくしが四歳の頃からずっとで、そろそろお声を忘れてしまいそうだわ。
家庭教師の先生はそろそろ決着が着く頃だと教えてくださったけれど、本当かしら。お父様、わたくしの顔を忘れていないかしら。
お話ししてもわたくしの方を見ないお父様だから、もしかしたら忘れられているかもしれないわ。
大きなお屋敷で過ごしていたわたくしは、小さな別邸など気にも留めていなかった。
それなのにわたくしがそこに忍び込んだのは…使用人が複数、その別邸に向かうのを目撃したからだ。
使用されていないと言っても、建物は手入れをしないと傷むもの。だから使用人達に手入れをさせて、屋敷の清潔感を保っているのだと教わった。
だから別邸もそうなのだろう。
つまり、見た目はボロ小屋でもちゃんと利用出来る状態なのだと思った。
なら、近付いても危険は無い。
そう判断したわたくしはその日、好奇心…冒険心から、別邸へと足を踏み入れた。
そこで、わたくしはわたくしの妹と出会う。
食事と呼べない残飯を使用人にひっくり返された、棒きれのような妹と。
彼女はアイリーン。アイリーン・アヴァス。五歳。
ゴワゴワした紺色の髪。頬がこけて飛びでそうなほど大きな緑の目。その緑は、毎日鏡越しに見る自分の目とよく似ていた。
突如現れたわたくしを見た使用人は、大変焦って余計なことまで教えてくれた。
この子がお父様と愛人の間に生まれた子供で、侯爵家の恥だから別邸で育てられているとか。それを決めたのはお母様で、家政婦長からは死なない程度に世話をしろと命じられているとか。
七歳の子供に言い訳するにしては闇の深い内容ばかりまくし立てた。
お父様の浮気相手の愛人は、お父様が戦地に赴いてからの扱いに耐えかねて、娘を置いて逃げたらしい。
だからここにいるのは、母親に捨てられた娘が一人だけ。
…憐れで脆くて、今にも壊れそうな子供だけ。
「この子がわたくしの妹? 何の冗談ですの」
わたくしが思わずそう零せば、使用人は何故かほっとしたように肩の力を抜いた。
逆に小さな子供が怯えた目を向ける。わたくしはきゅっと眉をつり上げた。
使用人はそうですよね、と頷いてる。
ええ、そうよ。小汚いこんな小娘…侯爵家に全然相応しくない。
わたくしは丸くなる仔猫みたいな子の襟首を掴んで引っ張り上げる。ぷらん、と持ち上がる肉のない身体に、また眉間に力が入った。
子供のわたくしがそうできるほど、この子は軽い。
「わたくしが、わたくしの妹らしくして差し上げますわ」
わたくしは引っ張り上げたその子を抱っこして、くるりと使用人に背を向けた。
「お前、ひっくり返した残飯は自分で掃除なさい」
「えっ」
「それと、この娘が侯爵令嬢であると知りながら虐げた自白は、わたくしが執事長にしっかり伝えておくわ」
「お、お待ちください!」
執事長は家政婦長と同等の立場。家政婦長は屋敷内を取り仕切り、執事長は家人の予定を仕切る。
お母様のご予定も、お父様のご予定も執事長が管理している。領地経営の代行官とのやりとりも彼がメインに行っていた。
言ってしまえば家政婦長はお母様側。執事長はお父様側だ。
はたしてお父様がこの子をどうするつもりなのか知らないが、伝えるなら家政婦長より執事長の方がまだマシだ。そう判断した私は追い縋る使用人を無視して、てこてこ本邸へと戻った。
そして、目を丸くする使用人達に、高々と告げた。
「誰か、お風呂の用意をしなさい!」
それからわたくしの、わたくしが考えた最強可愛い妹育成が始まった。
まずはお風呂。
これは譲れない。薄汚れた衣類を剥ぎ取って全身をくまなく洗う。一度洗っただけではこびりついた汚れは取れない。半身浴で水分補給しながら浮き出る垢を拭った。
次に食事。
これは焦ってはいけない。随分食事を与えられていなかったようで、胃が小さくなっているから消化によい物でも急に食べたら死んでしまうと料理長が教えてくれた。
だから少しずつ、少しずつゆっくりと栄養をとっていく必要がある。
そして睡眠。
これもまた、難儀した。急激な環境の変化に怯えたアイリーンは柔らかい布団に慣れず、眠ればまた別邸の冷たい床なのではないか、と恐れて目を瞑ることができなくなっていた。
困った子だと、わたくしは仕方がないので添い寝をしてあげることにする。
夜中に目が覚めても、隣に人肌があれば怖くないはずだ。
最後に教育。
これは、侯爵家の娘として当然の権利であり、義務だ。
貴族として生きるからこそ、領地を持つ侯爵家だからこそ、多くの命を守らねばならない立場だからこそ、教育を受けることは必須だ。侯爵家の娘であるのなら、何も知らないなどと言ってはいけない。
最初はずっと怯えていたアイリーンは、わたくしが庇護者だと気付いたようで、すっかり大人しくなっていた。わたくしの言うことを素直に聞いて、よく食べよく寝てよく学んだ。
学が無いのは仕方がない。筋力がなくてマナーも覚束無い。まず健康になることを第一に、文字の勉強をしながらゆっくりとわたくしの妹らしくなっていった。
「おねえさま」
「よくできました。流石はわたくしの妹」
簡単な文字の練習を終えて、本日の結果を確認する。読める文章になっていることを褒めれば、アイリーンは頬を染めて恥ずかしがった。褒められることに慣れていない、けれど嬉しいと隠しきれない子供。
妹は、素直で可愛い方がいい。
わたくしはにっこり笑って、照れる妹の頭をかいぐりかいぐり撫で回した。
社交に忙しかったお母様が乗り込んできたのは、すっかりアイリーンがわたくしに懐いた一ヶ月後。
「エリン! 何故それを本邸に入れたの!」
鬼の形相で現れたお母様。丁度子供部屋でアイリーンに読み聞かせをしていたわたくしは、立ち上がって幼い胸を反らした。
「まあお母様! おかしなことを仰いますね。この子はわたくしの妹だと世話をしていた使用人が言いました。わたくしの妹ならば本邸で過ごし、教育を受けるのは当然のことでしょう」
「いいえ、違うわ。あなたは騙されているの。その子はあなたの妹ではないわ。あの人を騙して誘惑した女の子です。侯爵家として認められていません」
「やっぱりお父様の子で間違いありませんのね。ではわたくしの妹に違いありません。だってわたくし、お父様とお母様の子ですもの」
「妹ではないわ、母親が違うでしょう!」
「ですがお父様の子でしょう?」
「証拠がないわ! あの女がそう嘯いているだけなのよ!」
お母様は認めたくないのね。アイリーンはとてもお父様に似ているのに。
お母様とお父様が笑顔でお話しになっているところを見たことはない。冷え切った貴族らしい夫婦だと思っていたけれど、他の女性に子を産ませたことに憤慨するだけの情はあったということか。情はなくても、浮気相手を恨むのか。
よくわからないけれど、矜持が許さないのかしら。夫の浮気はよくあることだと家庭教師に習ったのだけれど。今度よく聞いてみましょう。
「お父様の子だという証拠はありませんが、お父様の子ではないという証拠もありませんね」
「…!」
わたくしの言葉に、悔しそうに唇を噛むお母様。
ここで黙るということは、アイリーンがお父様に似ていることは、一応認識していたらしい。
「お母様、冷静になってください。庶子であろうと、この子はお父様の子です。侯爵の血を引く娘です。それなのに満足な教育を施さず、冷遇するのは侯爵家として相応しい対応ではありません」
「何を言っているの。侯爵家に泥を塗るような娘を放置はできません!」
「ええ、放置できません。ですから身に余った行動をしないためにも、この子には知識が必要です」
「表に出すつもりはありません。今すぐ別邸に戻しなさい!」
目に入れるのもいやなのだろう。
だけど、それは侯爵家として間違った対応だ。お母様は、冷静になれていない。
「お母様…言いたくありませんが、あのような対応は犯罪です。幼児虐待に値します」
「犯罪だなんて大袈裟な」
「いいえ、犯罪行為です。我が子だろうと、憎い子だろうと、子供を守り育てないのは虐待行為に値します」
お母様が黙り込みました。
犯罪と断言されて、反論したいけれどできないのでしょう。
「お父様の妻としてではなく、侯爵夫人として、正しい教育をお願いします」
「…あなた、いつの間にそんなに物言いをするようになったのかしら」
「お母様が采配した、教育の賜物ですわ。何よりわたくし、お母様の子ですから賢いのです。立派に侯爵家を継いでみせますわ」
にっこり笑顔を見せれば、お母様は手にしていた扇子を開いてわたくしを見下ろしました。そこには、すっかりいつもの冷静なお母様が戻ってきています。
「…その子の滞在を許します。ですが領地経営に関する教育は省きます。その娘は将来、侯爵家の外に必ず出します。淑女としてどこに出しても恥ずかしくない教育だけ施しましょう」
「賢明で寛大な判断、ありがとうございます」
「…お前が侯爵家を継ぐなら、母は安心です。これからも励みなさい」
「はい」
お母様はツンと鼻を反らして、もう二度とアイリーンを視界に入れることはありませんでした。
ずっとわたくしの後ろで話を聞いていた幼いアイリーンは、母が最後に告げた言葉だけを理解した。
「…私、ずっとお姉様と一緒にいたいです」
ぎゅっとわたくしのスカートを握って訴えるアイリーン。わたくしは彼女の前に座って、小さな身体を抱きしめた。
だけど告げるのは慰めの言葉じゃない。
「それは無理ね」
「やです…っ」
「侯爵家の娘として、あなたは良き縁を繋ぐ使命があります」
「やだぁ…っ」
べそべそ泣いてどこにもやらないでと訴える妹を撫でた。
親に見捨てられ、孤独を抱えているところに手を差し伸べたわたくしに依存して、捨てないでと嘆くのは当然の流れだわ。でも貴族令嬢として育つからには、それだけではいけない。
「わたくしの妹としてこの家で教育を受ける限り責任が生まれるの。贅沢をするからには、見合った行動をとらなくては」
「わかんにゃい…おねえさまとずっといっしょにいるぅ…!」
「無理です」
「いやーっ」
「今は一緒ですが、アイリーンはよそにお嫁に行くのです」
「えぁあぁあ~っ」
アイリーンは泣いていやがるが決定事項だ。
わたくしの妹ならば。侯爵家の娘として、立派に務めを果たさなければ。
そう、アイリーンは依存しているわたくしと離れるのを嫌がった。
だから、家を出る自分と対照的に、今後ずっとわたくしと一緒にいる婚約者のジャスパー様に、大層妬いている。
「というわけで、あの子はあなたをとっても嫌っているの」
「理由が重たい…!」
わたくしは紅茶を嗜みながら、妹との経緯を婚約者のジャスパー様に語っていた。
最後まで話を聞いたジャスパー様は、額に組んだ両手をくっつけて項垂れている。男性にしては小柄な肩が、更に丸まって小さく見えますわ。
「あの子も十五歳。そろそろ婚約者を決めて嫁入り先を決めなくてはいけませんから、わたくしがいない生活をしっかり意識していかねばなりません。今は埋め合わせができても、いずれそれも叶わないとわからせなくては」
「君が決めるんだね…?」
「ええ、次期侯爵としてわたくしが決めます。お父様に人を見る目はないし、お母様だと厳しすぎるので」
ちなみに全ての元凶であるお父様は、三年前にやっと帰ってきた。
軍人として生きて帰ってきてくれたことは喜ばしいが、最初にしたのが居なくなった愛人捜しだったためお母様と戦争状態。戦場から帰ってきたのに自ら戦場に赴くなんて、何をしているのでしょうお父様は。幼い頃大好きだった父の面影が完全に消失しました。
そんな対応だったからこそ、愛人との娘であるアイリーンにまで毛嫌いされています。
離婚はしていませんが、夫婦仲は冷戦状態。恐らく平和的な終戦は見込めないでしょう。
なので、未だ決定権を持つのは親ですがそこに至るまではわたくしが整えます。文句は言わせません。文句を言うほど興味も薄く、お母様は将来的にわたくしが侯爵家を継ぐならそれでいいとお考えです。
「…だけどそうか。あの子にとって君は神様なんだね。だから、神様の傍に僕みたいな凡人がいて許せないんだ」
「凡人だなんて。侯爵家の三男ともあろう人がなんてこと」
「俺は凡人だよ。ただ、身分の高い場所に生まれただけ」
その凡人が侯爵家の伴侶として選ばれたのは、実家の後ろ盾が強く自己主張が少ないからだ。
侯爵家を継ぐのはエリン。配偶者ではなくエリンと決まっている。
配偶者がそれを疎んじてしゃしゃり出るようではたまらない。だから自己主張のない、けれど後ろ盾の強い彼が選ばれた。
と、彼は思っている。
「一つだけ訂正を」
「え」
「貴族として生まれたわたくしたちの誰もが『身分の高い場所に生まれただけ』の人間ですわ」
それに見合った生き方ができるかできないかではない。
するか、しないかだ。
努力してだめだったのと、努力せずだめだったのは結果は同じでも過程がまったく違う。
「そしてわたくしたちは計算式ではありませんから、結果を出す過程をよく見られています」
努力したのか、していないのか。
本人が我武者羅になっていただけなのか。
周囲と手を組んで上手く結果を残したのか。
誰かを利用して結果だけをかすめ取ったのか。
「誰かの下につくものと、上に立つものでは結果の出し方にも違いがあります」
下の者は自ら動くしかない。助けは必要だが、手足となる器用さと根気が必要だ。
上と下を繋ぐものは、采配や管理力を求められる。周囲をよく見て、ときには自分も動かなければならない。
上に立つ者は、手駒をしっかり把握して手の届く範囲を知らねばならない。命じたならば、責任をとる覚悟を決めなければならない。
「他の方とジャスパー様で、結果の出し方が違うのは当然のこと。わたくしとジャスパー様も当然違います。あなたはあなたのやり方で、努力して結果を残してきましたわ」
彼は目立った結果を残したわけではない。
兄の邪魔にならぬよう、学びを疎かにしなかった。近しい人の力になれるよう、専門知識を学ぶことも億劫ではなかった。
「自己主張せず、下につくことを厭わず、献身的にサポートするあなたの手腕は見事なものです。女領主として、女侯爵として表に立つわたくしを、陰になり日向になり支えてくれるのはあなたしかいないと思っております」
「…あ、ありがとう」
照れて頬を染めるジャスパー様を見て、わたくしは思わず笑ってしまう。
「その所為でこんなに多忙な毎日だと言うのに…自覚がないのも考え物ですわね」
「いや、俺、パシられているだけだよ?」
「頼りになるから仕事を任されるのです」
「そうかなぁ…」
「少なくとも副会長はジャスパー様の有用性を見抜いていますわね」
つまりわたくしの敵ですが、取り込まれる前に婚約したのでわたくしの勝ちですわ。
それに。
「…わたくしにとっては、ジャスパー様は凡夫などではありません…」
扇子で口元を隠しながらそっぽを向く。
そんなわたくしの反応を見て余計に頬を染めながら、ジャスパー様は優しく微笑んだ。
…その背後で、微かに開いた扉の隙間から、わたくしの可愛い妹が睨んでいるのは、やっぱり秘密にしておこうかしら。
「憎い…私からお姉様を盗る男が憎い…」
「わたくしの可愛い妹。怨念が滲み出ていましてよ」
「にぎぎぎぎ…!」
結局気付くことなくポヤポヤしたまま帰って行ったジャスパー様。
ジャスパー様の帰宅後、アイリーンが隙間から入り込む猫のような動きで入室した。彼が座っていたソファを憎々しげに睨み付けた後、わたくしの逆隣に滑り込んだ。ぺったりくっつきながら、歯ぎしりをしている。
まったく、普段は教育通り淑女らしい振る舞いができるのに、わたくしの婚約者のこととなるとこのような態度…。
可愛いわね。
宥めるように撫でてあげましょう。
「お姉様、本気であの男と結婚するんですか。あんなに頼りないやつ、お姉様の邪魔になりませんか」
「邪魔どころか、献身的に支えてくれるわ」
「三つ下の私にも強く出られないような男、ちょっと迫られたら浮気しませんか」
「そうしないように育てるのもわたくしのお仕事よ」
「――――お姉様に育てられるなんて! 生意気な!」
それってどういう感情かしら。
「腹を痛めて産んだ子ならいざ知らず! 夫となる栄誉だけに留まらず、お姉様好みに育てられるなんて! ずるい! ジャスパー様の癖にずるいわ!」
その感性、ちょっとわからないわね。
「だってお姉様、『わたくしが考えた最愛の婚約者』に育て上げる気でしょう! 愛でて愛でて育てる気でしょう! 私にしたみたいに! 私にしたみたいにー!」
「その言い回し、気に入っているの?」
わたくしに抱きついたまま泣きつくアイリーンは、どうやらわたくしがジャスパー様の調教…教育…お世話をすることが気に入らないらしい。
それをするのは『わたくしの考えた最愛の妹』だけでいいのだと主張したいようだ。
そんな彼女に思わず笑みが漏れる。
「わたくしの可愛い妹。妹と婚約者の育て方は違うわ」
「同じかもしれないじゃないですか! あんなことやこんなこと、するかもしれない!」
鼻息荒く主張するあんなことやこんなことってどんなことかしら。
「同じではないわ。だってアイリーン。たとえばジャスパー様がわたくしと離縁したとして」
こら、たとえ話だから嬉しそうな顔をしない。
「わたくしとジャスパー様はそれっきり他人になるわけだけれど」
言いながら、可愛い妹の頭を撫でた。
「あなたは将来嫁いで侯爵家を出ても、どこにいてもわたくしの妹のままだわ」
「お姉様…」
「そうでしょう?」
「もちろんです!」
アイリーンは力強く頷いた。
「目指す先が違うから、育て方は違うわ。わたくしが可愛い妹として育てたのはあなただけよアイリーン」
「はい…! どこに出しても恥ずかしくない、お姉様の妹としてがんばります!」
「いい子ねアイリーン」
戯れで顎の下を擽れば、ご機嫌な猫のように満足げな顔をする。
そんな可愛い妹と戯れながら、わたくしはゆったり微笑んだ。
そう、育て方は違う。
いずれ手放さなくてはならない妹と、逃がす気のない婚約者では接し方が変わるのは当然だ。
それでも将来的に手が離れたとしても、わたくしはこの子を可愛い妹として慈しむことはやめない。何故なら姉だから。姉という大義名分があれば将来的に、関わっても大抵のことは許される。
だが婚約者は、そうではない。終わらせようと思えば一瞬で、全ての繋がりを失うことになる。
だから真摯に、誠実に、堅実に…深く深く。彼にとってなくてはならない一部になるため、わたくしはせっせと調きょ…教育…お世話を続けるのだ。
大好きな彼が、絶対わたくしの元に帰ってくるように。
だというのに数年後、第一王子を蹴落として王太子に選ばれた第二王子殿下が、わたくしの最愛の妹と最愛の婚約者を妻と側近として抱え上げようとして、盛大なバトルを繰り広げることとなる。
どちらもわたくしが育てたわたくしの最愛ですが!?
あげませんが!?
わたくしだけの妹で、補佐役でしてよ!
わたくしが育てた最強に可愛い妹と婚約者ですがなにか――――!?