恭子の怒り
「ショウちゃん、許可が降りたよ。後で未来を……てかさ、ちゃんと汗拭いてよ!」
ドアを開けると同時に叫び出した咲耶に、省吾はチッと舌打ちする。
「うるせえなあ。ここはトレーニングルームなんだよ。汗が嫌なら来るな」
そう、ここはトレーニングルームである。省吾は、いつもの通りトレーニングをしていた。そこに、咲耶か入ってきたのだ。
トレーニングルームに汗だくの男がいるのは当然……のはずなのだが、咲耶は汗まみれの男が我慢ならないらしい。
「とにかく、もうちょいしたら出るから! その汗ちゃんと拭いて! シャワーも浴びといてよ!」
咲耶は、好き勝手なことを言ってドアを閉めた。残された省吾は、溜息を吐いて立ち上がる。今日もまた、未来を連れてのお出かけタイムだ。
一時間後、四人は連れ立って外を歩いていた。やがて、目指す場所に到着する。
そこは、大きな公園だ。前回に行った場所とは違い、中央には大きな池がある。少し離れたところには大型の遊具が設置されており、そこでは数人の少年たちが遊んでいた。全員、未来と同じくらいの年齢である。揉め事になっても面倒だし、あちらには近づかせない方がいい。
しかし、その心配は必要なかった。未来は、池に近づいていく。省吾は、ピッタリ背後に付いていた。恭子と咲耶は、立ち話に夢中である。
「あ、あひる、さん」
不意に、未来が言った。確かに、池の中心付近ではアヒルがいた。のんびりと水面を漂う姿はユーモラスである。省吾は、くすりと笑った。
「そうだな、アヒルさんだな」
「か、かわいい」
「ああ、かわいいな」
答えた時、別の声が聞こえてきた。
「あ、あ、あ、あひる、さ、さん」
声のした方を省吾が見ると、さっきまで遊具で遊んでいた男の子たちがいた。いつのまにか、こちらに接近している。しかも、ひとりがクスクス笑いながら未来を見ていた。明らかに、彼女の喋り方をバカにしているのだ。この年頃の子供というのは、本当に残酷である。弱者と見れば、容赦ない。
省吾は、彼らをじろりと睨んだ。男の子たちとの間の距離は、ほんの二メートルほど。やろうと思えば、一瞬で間合いを詰められる。そこから、一発蹴りを入れれば終わりだ。腹を蹴れば、内臓を破裂させられるかもしれない。
だが、今それを実行に移すわけにはいかなかった。代わりに、少年たちに人差し指を向ける。
「一度だけは見逃してやる。だから、もうやめろ」
低い声で言った後、ちらりと未来の方を見る。少女の顔から、楽しそうな表情が消えていた。省吾は手を伸ばし、未来の頭を撫でる。
「いいか、あんなバカ相手にすんな──」
「か、かか、かわいい」
省吾の言葉の途中で聞こえてきたのは、嘲るような声だった。言うまでもなく、先ほどの少年たちだ。
まずいと思った。未来の顔を見ると、唇を固く結び少年たちを睨んでいる。このままだと、能力を使いかねない。
それだけは、絶対に避けなくてはならない。省吾は顔を近づけた。
「お前は何もするな。俺がきっちりシメてやるから」
未来に囁くと、省吾は顔を上げ子供たちを睨む。この男は、体つきもがっちりしており顔も強面だ。したがって、先ほどの警告でたいがいの子供はおとなしくなるだろうと思っていた。
しかし、彼の警告は何の意味もなかったようだ。今どきの少年少女を怖がらせるには、もっと別の何か必要らしい。
もっとも、その別の何かを探す気はなかった。こういう時、省吾が取る手段はひとつしかない。彼は、すっと間合いを詰めた。
直後、手を伸ばしひとりの少年の襟首を掴む。いとも簡単に、片手で体を持ち上げた。さらに、鼻と鼻が触れ合わんばかりの距離まで顔を近づける。
「俺はさっき、やめろって言ったよな。聞こえなかったのか? なら、耳の穴から指突っ込んで風通し良くしてやろうか?」
低い声で凄む。だが、少年は何もいえなかった、大人から、このような目に遭わされたことがないのだろう。一瞬で顔は青ざめ、口は半開きの状態で省吾を見つめるだけだ。周りの少年たちも、怯えた表情で後ずさる。目の前にいるのが、世間一般の大人たちと違う怖い人間であることを、ようやく理解したのだ。
とりあえずは、このくらいでいいだろう。省吾は冷たい表情のまま、ゆっくりと少年を下ろす。
その時だった。
「ちょっとあんた! 何やってんの!」
怒鳴り声と共に、つかつかと近づいて来る者がいた。若い女だ。気の強そうな顔つきで、髪は茶色に染まっており化粧も濃い。おそらく、かつてはヤンキーと呼ばれる人種だったのだろう。この手の女は、十代で妊娠し出産するケースも珍しくない。今、省吾が説教(?)した少年の母親であるらしい。
その母親は、スマホ片手にずんずん近づいて来る。少年は、慌てて母親の側に駆け寄った。
「うちの子に何すんの! 警察呼ぶよ!」
勇ましい声で、母親は怒鳴りつける。いかつい風貌の省吾に対し、怯む様子がない。警察を呼べる、という安心感が彼女に度胸を与えているのか。
もっとも、省吾はこうしたやり取りに慣れている。
「警察? 呼びたきゃ呼べ。言っとくが、お巡りがここに来るまで三分はかかるぞ。三分あれば、お前ら親子を病院送りにして逃げることくらい簡単なんだよ。試してみるか?」
低い声で凄みながら、ずんずん近づいていく。と、母親の表情が変わった。間近で見る省吾の体格は、自身を遥かに凌駕しているのだ。その体格差は、原始的な恐怖を呼び覚ます。
しかも、省吾から漂う匂いは、そこらのチンピラとは異なるものだ。危険な香り、などという女性誌に出てきそうなものではない。はっきり言うなら、血の匂いである。彼女が今まで見てきた男たちとは、違う世界の住人なのだ。
母親の顔つきが変わった。スマホを持つ手が震え出す。怯えているのは明らかだ。
その時、省吾の後頭部を何者かが掴む。直後、思い切り頭を下げさせられた。
「申し訳ありません」
言いながら、深々と頭を下げているのは恭子だ。その恭子の手により、省吾もまた強制的に頭を下げさせられている。
仕方ない、このくらいで引いておこう。省吾もまた、神妙な顔で頭を下げ引き下がる……はずだった。
ところが、直後に事態は一変する。恭子は、すぐに顔を上げた。
「こちらの非礼は、お詫びしました。次は、そちらの番です」
低い声で、こんなことを言ったのだ。省吾は、思わず横を見る。
恭子は、相手の母親を睨みつけていた。
「は、はあ? 何を言ってるの?」
怯えながらも言い返す母親に、恭子はなおも言い続ける。
「こちらの非礼は謝罪しました。次は、そちらの番です。うちの子に対する非礼を詫びてください」
「な、何で謝らなきゃなんないの! 悪いのはそっちでしょ!」
怒鳴りつけてきたが、恭子は怯まなかった。
「あなたは、見ていなかったようですね。お宅の坊ちゃんが、先にうちの娘の喋り方をバカにしたんですよ。娘の心を傷つけました。謝罪するのは当然じゃないですか?」
冷静な口調で言葉を返し、相手に詰め寄る。と、声を発した者がいた。
「ご、ごめんなさい!」
男の子だった。軽い気持ちでやったことが、こんな大事になってしまい、いたたまれなくなったのだろう。泣きながら謝ってきた。
続いて、恭子と母親の間に割って入ったのは咲耶だ。
「はい、もうこれでおしまい。さ、帰りましょ」
言いながら、ふたりの腕を掴み強引に引っ張っていく。四人は、すぐにその場を離れた。
公園を離れた四人は、駅前の道をのんびりと歩いていく。そろそろ夕暮れ時だ。行き来する人の数も多くなっていた。
そんな中、咲耶は渋い顔をしており、その後ろには神妙な顔をした恭子が続いていた。省吾と未来は、少し遅れて歩いている。
「ちょっとお、ふたりして何してんのさあ。ショウちゃんはいつものことだけど、恭子さんまでキレちゃ駄目でしょうが」
ブツブツ文句を言い続けている咲耶に、恭子は面目なさそうな顔で頭を下げた。
「ごめんよう。何か腹立ってきちゃってさ」
すると、咲耶は後ろを振り返る。
「ねえ未来、困ったパパとママだねえ」
「うるせえな、誰がパパだよ」
省吾が言い返した時だった。彼の視界に、妙なものが入る。店のガラスに貼られたポスターだが、ハロウィンのイベントについて描かれているようだ。
「そろそろハロウィンだな。未来も仮装するか?」
何気なく聞いてみた。すると、未来は目を輝かせる。
「う、うん。し、しし、したい」
未来が答えた途端、咲耶がパッと近づいてきた。
「えっ、コスプレすんの? じゃあ、どんなのがいい? お姫さま? それとも妖精さん?」
「か、かいじゅう」
「えっ? 怪獣?」
きょとんとなる咲耶に、未来は首を縦に振った。
「う、うん。かいじゅうの仮装、し、したい」
「わかった! じゃあ、ハロウィンは怪獣のコスプレしようね!」




