彼らの休日
真幌市の片隅に、オルガノ救人教会の所有するマンションがあった。もともとのオーナーは信者であり、教団に破格の安値で譲り渡したのだ。もっとも四階建ての部屋数は十二であり、決して大きなものではない。
並ぶ部屋のひとつは、前を通ると異様な音が聞こえてくることで知られていた。
その室内には、天井から大きなサンドバッグが吊るされた一角がある。さらに、バーベルやダンベルなどが置かれたスペースもあった。
室内にいるのは省吾である。備え付けのサンドバッグに、凄まじい勢いでパンチとキックを叩き込んでいるのだ。筋肉の塊のような体から繰り出される打撃は、百キロを超す重さのサンドバッグを容赦なく揺らしていく。
彼の周囲の床には、水溜まりが出来ていた。とはいっても、水を被ったわけでも失禁したわけでもない。省吾の体から滴り落ちる汗により、水溜まりが出来てしまったのだ。
今は十月であり、昼とはいえ決して低くはない気温だ。室内の暖房は切られており、しかも窓は開いている。にもかかわらず、床には汗の水溜まりが出来ているのだ。
しかし、省吾は意に介さない。何かに憑かれたかのように、ひたすらサンドバッグを叩き続ける──
後藤伸介が殺された事件の後、省吾の心は完全に壊れていた。警察に事情聴取をされたが、何も答えることは出来ない。刑事たちも匙を投げ、精神科の病院に入院することとなった。
退院した後、実家に戻ったが進学も就職もしなかった。昼間から繁華街をうろつき、喧嘩を繰り返す日々。やがて両親からも愛想をつかされ、縁を切られた上に家を追い出された。
完全に天涯孤独となった省吾は、あてもなく町をさ迷う。
そんな省吾を拾ってくれたのが朝永である。この男は温厚そうな見た目に似合わず、かつて半グレの組織に所属していた。頭がキレる上に裏社会の事情にも精通しており、人を見る目にも確かなものがある。一目で、省吾の能力や性格を見抜き接近してきたのだ。言葉巧みに誘い、信頼を得る。
やがて省吾は、教団の一員となった。
オルガノには、三種類の人間がいる。純粋な信仰心を持ち教団に入った人間と、純粋な金儲けの手段として教団に所属している人間、そして教団の裏を知りつつも仕方なく従っている人間だ。
省吾は、三番目のタイプである。信仰心などは持ち合わせていないが、かといって金にこだわりがあるわけでもない。ただ、居場所が教団しかなかったのだ。
教団に入ってから、省吾は狂ったような勢いで体を鍛える。目的は、あの日の悪夢を追い払うためだった。もう一度、あいつと会ったら、必ず殺す……そう決意し、しゃむにバーベルを挙げ、サンドバッグを叩く。また、銃器の扱いも練習した。今では、そこらの警察官に負けないくらいの腕前にはなっている。
皮肉なことに、いくら体を痛めつけても悪夢は消えてくれなかった。代わりに、強靭な肉体と高い格闘技術を得ることとなった。
そうやって作られた強靭な肉体は、もっぱら教団の敵を駆除するためにのみ用いられている。
トレーニングを終え、省吾は汗だくになったシャツを脱ぎ捨てた。モップで床を拭き、タオルで体の汗を拭う。床に座り込み、壁に貼られているものに視線を移す。
そこには、奇妙なものがある。白黒写真を引き伸ばしたポスターだ。写っているのは、日本人の兵士である。軍服に身を包み、椅子に座っている。ポスター自体も全体的に黄ばんでおり、かなり古いものであるのが窺えた。
実のところ、ここに写っている人物は船本弘一という名の日本兵なのだ。柔道、剣道、銃剣道の全てで有段者であったが、技の類いはほとんど知らなかったらしい。人間離れした腕力と、いかなる逆境にも屈しない強靭な精神力とを評価され、段の取得を許されたという話た。
第二次大戦にも従軍しており、数々の伝説を打ち立てていた。中でも、機銃の掃射を浴びたが生き延び、弾丸のなくなった小銃で米兵三十人以上を打ち倒したエピソードはあまりにも有名である。最終的には捕虜になったが、現場にいたアメリカ兵の間では「このフナモトという日本兵は不死身なのか?」「リアルモンスター」などと語りぐさになっていた。
なぜ、このポスターが貼られているのかは不明である。ただ、この船本は最強の日本兵といわれているらしい。省吾はこの部屋に来るたび、否応なしにポスターが目に入ることになる。最強の日本兵に見守られながらトレーニングをするというのも、何とも奇妙な気分ではある。
その時、いきなりドアが開いた。顔を覗かせたのは咲耶だ。
「ショウちゃん、許可でたよ。そろそろ散歩の時間だから……ってさ、女の子の前なんだから汗拭いてよ! 服も着て!」
顔をしかめ怒鳴りつけてくる。省吾は、面倒くさそうに舌打ちした。
「うるせえなあ。誰が女の子だよ。お前はまだ男じゃねえか。サオとタマ取ってから言え」
言った途端、咲耶の表情が変わる。鬼のような形相で怒鳴りつけてきた。
「ちょっと何それ! セクハラじゃん! 謝ってよ!」
「あー、はいはい。悪かったよ。ごめんなさい」
「まったくもう、だからショウちゃんはモテないのよ。だいたいね、ショウちゃんは顔怖い上にゴリマッチョなんだからさ、もうちょっと愛想よくしなよ!」
「余計なお世話だ」
一時間ほどしてから、四人は施設の外に出た。
昼過ぎの心地よい陽気の中、省吾らはのんびりと歩いていく。オーバーオール姿の未来は、咲耶と恭子の間にいた。大人のふたりと両手を繋いで歩く姿は、何かの本に載っていた捕まったエイリアンの写真を思い出させる。遅れて付いていく省吾は、思わずクスリと笑った。
やがて四人は、近所の公園に到着した。
咲耶と恭子はベンチに座り、何やら喋っている。女(?)同士で、いろいろ話したいこともあるのだろう。もっとも、目は未来から離していない。
その未来はというと、巨大な滑り台の上にいた。なぜか勝ち誇った顔で、下に立っている省吾を見下ろしている。あれは、何かを企んでいる時の顔なのだ。
何をする気だ……と思った瞬間、少女は動いた。お腹を下に、顔をこちらに向け、両手を真っ直ぐに構えた状態で滑ってきたのだ。スーパーマンが飛ぶような姿勢である。
同時に、省吾も動く。下に着地する寸前、パッと抱き止めた。下手すると、顔面を打ち付けていたかもしれない。
「おいおい、もうちょっと慎重に遊べ」
言いながら、すっと少女の体を抱き上げ立たせる。
その時だった。何者かが近づいてくる気配を感じ、そちらに顔を向ける。
スマホを手にした女が、省吾を睨んでいる。トレーナーにデニムパンツの、飾り気ないスタイルだ。体をつきはすらりとしていて、何かスポーツをやっていそうな雰囲気だ。目付きから見るに、気は強そうである。省吾を睨みながら、つかつかと近づいてきた。
未来は異変を感じたのか、パッと省吾の後ろに隠れた。しかし、女は構わず聞いてくる
「失礼ですが、あなたはこの子のお父さんですか?」
口調そのものは丁寧だが、省吾に向ける表情は険しい。かつて夜の町を徘徊していた時、嫌というほど見てきたものだ。
甦った記憶が、省吾を不快にさせた。
「そうですが、何か? あなたに何か関係がありますか?」
低い声で凄み、顔を近づけていく。と、ふたりの間に割って入った者がいた。恭子である。
「すみませーん、この人、本当に無愛想で……」
他人向けの優しい声を出しつつ、ペコペコ頭を下げる。恭子は、美女と呼べる顔立ちの持ち主ではないが愛嬌があり愛想もいい。人に安心感を与えなるタイプだ。この女を見て、悪感情を抱く者はそういないだろう。
「あ、あなたは……お、お母さんですか?」
相手の女は、意外そうな表情で、省吾と恭子の顔を交互に見る。正直、この三人が家族という設定には少し無理があるかもしれないのだが、恭子はそれで押し通す気らしい。
「ええ、そうですの。この娘は人見知りで……このバカは無愛想で、本当にすみません」
ニコニコしながら、省吾の後頭部を掴む。ペコリと頭を下げつつ、同時に省吾にも頭を下げさせた。
すると、女の表情も変わった。
「えっ? あっ、そうでしたか……こちらこそ、すみません。最近、この辺りで子供が誘拐されそうになる事件がありまして、てっきり、その、あの……」
言葉を濁す女に、恭子は微笑みながら言い添える。
「誘拐犯かと思いました? この人、本当に人相が悪くて無愛想ですから……困った人ですよ。こないだなんか、一日に三回もお巡りさんに職務質問されちゃって」
そんなことを言いながらも、省吾の肩にパンチを入れてくる。かなり強めだ。どうやら、無言のメッセージを送ってきているらしい。省吾は、仕方なく体を縮こまらせ下を向いていた。
すると、今度は未来が動く。省吾のトレーナーの裾を、くいっくいっと引いてきた。
省吾は、この少女が何を言わんとしているか即座に察する。優しく頭を撫でつつ口を開いた。
「未来、もう帰るのか?」
その言葉に、未来はうんうん頷く。省吾はニッコリ笑い、恭子の手を握った。
「母さん、未来が帰りたがっているぞ。そろそろ行こうか」
言いながら、半ば強引に恭子を引っ張り歩き出す。恭子はニコニコしながら、女に頭を下げつつ離れて行った。
四人は公園を出た。心地よい陽射しの中、のんびりと歩いていく。
「あのさ省吾、もうちょっと紳士のタッチで対応できないかな。下手すりゃ、警察呼ばれてたかもしれないんだよ」
ブツブツ文句を言っているのは恭子だ。さっきの他人向けの声とは真逆の低い声である。
それを無視し、省吾はすたすた歩いていく。と、その足が止まった。視線の先には、コンビニエンスストアがある。
彼は未来に視線を向けた。
「未来、ここでお菓子買うか?」
「う、うん。か、か、買う」
答えた未来の手を引き、省吾はコンビニへと入っていく。咲耶と恭子も、後に続いた。
未来は、店内をゆっくりと歩いている。物珍しそうに、あちこち見回していた。この少女は、あまり外に出たことがない。そもそも、外出を許可されるようになったのも、三ヶ月ほど前からだ。それ以前は、イエローカードの案件があった時だけ外に出る。終わったら、真っすぐ帰る……それが、未来の生活なのである。
と、ある棚の前でピタリと止まる。上の方にあるものを見上げていた。
後ろから近づいていった省吾は、そっと少女を抱き上げる。
「何が欲しいんだ?」
聞くと、未来は並べられているものを指差す。おにぎりだ。
「えっ、おにぎりか? おにぎりが欲しいのか?」
尋ねると、うんうんと頷く。省吾は少女を下に降ろすと、指差していたおにぎりを次々とカゴに放り込んでいった。
そんなふたりを、目を細めて見ているのが恭子と咲耶だ。がっちりした体格と強面の顔でありながら、妙に甲斐甲斐しく少女の世話を焼く省吾。そんな省吾になついている未来。ふたりは、本物の父娘のように見える。実際には、一年前まで顔も知らない間柄だったのだが……。
ふたりは、あちこち回ってお菓子やジュースなどをカゴに入れた。レジで支払いを済ませ、外に出る。
「パパ、いっぱい買ってくれたじゃん。よかったね」
そんなことを言いながら、未来の頭を撫でる咲耶。その隣には、ビニール袋を下げた恭子がいる。少し遅れて、省吾が続いた。
そのまま、しばらく歩いていた未来だった。しかし、ベンチを発見するや走り出す。ちょこんと座ると、ビニール袋を指差し口を開いた。
「お、お、おにぎり」
「えっ、今食べるの?」
恭子の問いに、ウンウンと頷く。彼女は苦笑し、未来の前でビニール袋を広げて見せる。
すると、未来は両手を突っ込んだ。おにぎりをふたつ取り出す。
ひとつを省吾に、もうひとつを咲耶に差し出した。
「えっ、あたしたちにくれるの?」
咲耶が聞くと、ウンウンと頷く。ふたりは困惑しながらも、それを受けとった。
次いで未来は、恭子にもおにぎりを差し出す。最後に、自分の分を取り出した。ビニールを剥くと、皆の顔を見回す。
「み、みみ、みんなで、た、食べたい」
そう言うと、少女はおにぎりにかぶりつく。省吾らも、その場でおにぎりを食べ始めた。
すると、恭子の目から一筋の涙がこぼれる。何か思うところがあったのか、何かを思い出したのか。しかし、彼女は無言で涙を拭う。
省吾は見なかったことにして、おにぎりを食べ終えた。
・・・
オルガノ救人教会の信者である岩崎成美は、親から受け継いだ家に住んでいる。庭付きの木造二階建てあり、昭和アニメに登場しそうな古びた外観である。彼女は、この家に信者候補を招き教義の勉強をしていたのだ。そのため、来客は多い。
夫の幹久は信者ではなく、入信する気もない。もっとも彼は婿養子であり、彼女には逆らうことが出来ないのだ。したがって、成美は反対されることなく宗教活動に専念できていた。
そんな彼女の家に、今夜は招かれざる客が訪れていた。
白いフェイスマスク、白い手袋、白いツナギ……一般市民には無縁なものを身につけた不気味な人間が、岩崎夫婦の目の前に立っていた。
身長は百七十センチ強、体つきはそれほど逞しいものではない。にもかかわらず、その腕力は人間離れしていた。何せ、幹久の両手両足を、一瞬でへし折ってしまったのだから──
幹久は、白目を剥き倒れている。開いた口からは、だらりと舌が出ていた。腕はへし折られ、肘のあたりから尖った骨が突き出ている。足もまた同様だ。彼の体から流れる出る血が、リビングの床を真っ赤に染めていた。
「お、お願いだから助けて。お金なら、あるだけ渡すから……」
涙を流し許しを乞う成美に、怪人は胸を張って答えた。
「私の名はマスクレンジャー。神を愛し、神に愛された男だ。本日は、正義を執行しに来た」
異様なまでに爽やかで、芝居がかった声だ。
その瞬間、成美の心を絶望と恐怖が覆っていく。目の前にいる男の言っていることは無茶苦茶だ。こちらの言葉が通じた気配がない。
つまり、この男は完全に狂っている。となると、言葉による説得が通じない。損得もまた、意に介さないということだ──
マスクレンジャーと名乗った男は、絶望にうちひしがれる成美に向かい、高らかな声で語り出す。
「貴様は邪教の手先となり、純粋な心を持つ多くの人を惑わせてきた。その罪は、万死に値する。よって、今から正義を執行する」
言った直後、マスクレンジャーは成美の左腕を掴む。
直後、一瞬でへし折った。成美の口から、獣の咆哮のごとき声があがる。彼女の腕は、肘から先が逆方向に曲がっていた。
しかし、マスクレンジャーはお構い無しだ。顔を上に向ける。
「神! 心! 悪! 即! 壊! 神の心もて悪を即座に壊す!」
宙に向かい、爽やかな声で叫ぶ。
やがて、ゆっくりとした動作で向きを変え、成美を見下ろす。彼女は、ヒッという声をあげ後ずさるが、無駄な努力であった。マスクレンジャーは手を伸ばし、成美の頭を鷲掴みにする。
そして、惨劇が始まった──




