崩壊
マスクレンジャー……いや、山川優孝の襲撃から一ヶ月が過ぎた。
オルガノ救人教会は、もはや宗教団体として機能していない状態である。教団に関するニュースは、未だマスコミをにぎわせていた。
教団の施設にて、大量の遺体が発見されたのが十一月二日である。全員、何か硬いもので殴打されかのような傷跡があった。当初、何者かが侵入し全員を撲殺したではないかという見方が有力だった……が、後に宗教の儀式による集団自殺と発表された。
また、部外者である刑事がひとり、施設内で死体となって発見されたが……この集団自殺に巻き込まれてしまったものと見られている。
各テレビ局のワイドショーは連日、オルガノ救人教会関連のニュースを放送している。教祖である六波羅法聖は、事件のショックで体調が悪化し、もはや喋ることも出来ない有様である。教団への解散命令が出るのも、時間の問題といわれている。
そんな騒動とは、全く無関係の者がここにいる。
そろそろ暗くなろうかという時間帯、コートを着て首にマフラーを巻いた未来は、大きな切り株に腰掛けていた。周囲は木々が生い茂り。時おり野鳥の鳴く声が聞こえる。
やがて、茂みの中から姿を現したのは……なんと猪であった。体重は、七十キロから八十キロはあるだろうか。鼻息も荒く、のそのそ少女のそばに近づいてくる。襲われたら、ひとたまりもないだろう。
しかし、未来に恐れる様子はない。ニコニコしながら、猪をじっと見つめている。
やがて、猪は立ち止まった。両者の距離は、数十センチといったところだ。にもかかわらず、緊張感はない。お互いを、じっと見つめ合っている。親しい者同士が、普通の人間には聞こえない言語で語り合っているかのような雰囲気すら感じられた。
突然、猪がふっと顔を上げた。何かに気づいたらしい。次の瞬間、向きを変え森の中に戻っていく。去りゆく猪に、未来ほ手を振った。
猪と入れ替わるように、その場に現れたのは省吾だ。ダウンジャケット姿で、穏やかな表情を浮かべていた。教団にいた頃とは、顔つきがまるで違う。
「未来、そろそろ帰ろうか」
「う、うん」
答えると、ぱっと立ち上がる。ふたりは手を繋いで、山道を降りていく。
「そろそろクリスマスだな」
「うん。け、ケーキと、し、しち、七面鳥食べる」
その言葉を聞き、省吾は微笑んだ。考えてみれば、教団の施設ではクリスマスなど無縁のものだった。キリスト教のイベントなのだから、自分たちとは関係ない……特に規則で決まっていたわけではないが、無言の圧力があったのは間違いない。ハロウィンの仮装ですら、かなり嫌味を言われたらしいのだ。
しかし、今は関係ない。クリスマスだろうが何だろうが、好きなように楽しめる。
「そうか。いっぱい食べて大きくなれよ」
「う、うん」
未来も、にっこり微笑んだ。やがて、寝泊まりしている家にたどり着く。
ここは、咲耶の知人が所持するペンションだ。省吾たちは、管理人として住まわせてもらっている。
やがて、未来が眠りについた頃……省吾と恭子と咲耶の三人は、神妙な顔つきでリビングにいた。設置されているテレビは、ニュース番組を放送していた。アナウンサーが、神妙な顔つきで原稿を読んでいる。
その内容は……かつてオルガノ救人教会の幹部だった山川優孝が、都内アパートの一室で遺体となって発見されたというものだ。死後二週間以上が経過しており、腐敗がひどく近隣の部屋にも死臭が漂っていたらしい。やがて耐えきれなくなった人間が通報し発覚したとのことだ。
遺体は首を吊った状態で発見されており、遺書も見つかっていた。警察は自殺と見ている……という事実を、アナウンサーは淡々と語っていた。
「あいつは、何者だったのかな」
不意に、恭子が呟いた。
「わからない」
答えたのは省吾である。彼にわかるはずがなかった。
省吾は、山川と特に仲が良かったわけではない。したがって、あの男がプライベートで何をしていたかなど知らないし、興味もなかった。
ただ、ひとつだけ言えることがある。山川は、本当に真面目な男だった。教団のルールを厳格に守り、法律も遵守する男だった。外に出れば、信号無視すらしないだろう。
そんな人間が、教団と深くかかわるにつれ……血塗られた裏側を、間接的にせよ知ってしまった。それは、耐え難い苦痛だったのではないか。
山川が入信したのは、十五年ほど前からだと聞いている。省吾がマスクレンジャーと遭遇したのは、ちょうど十五年前だ。となると、マスクレンジャーとして活動していたのは入信する前だったのではないか。
この十五年間、山川は山川なりに押さえていたのかもしれない。教団の教えがまやかしであり、邪教との誹りを免れないものだったとしても、公開講演には誰かが来てくれていた。自分の言葉に、耳を傾けてくれる……その事実が、狂気と紙一重の正義感を押さえつけていたのかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
「省吾、観なよ」
恭子に言われ、省吾は顔を上げた。テレビの画面を観ると、ニュース速報の字幕が表示されている。
(新山杏奈容疑者、覚醒剤の所持使用の疑いで逮捕)
観た瞬間、省吾は思わず溜息を吐いていた。
新山杏奈……かつて、省吾らが誘拐した少女だ。俳優・新山芳樹の娘であり、悪い仲間たちと覚醒剤に溺れる生活をしていた。もっとも教団に入ってからは、真面目に生活していたと聞いている。集会所での態度も立派で、いずれは教団の広告塔として活躍してもらうはずだった。
しかし、教団の崩壊とともに、彼女のクリーンな生活も終わってしまった。
「あの子、またやっちゃったんだね」
言ったのは咲耶だ。その声は、悲しげなものだった。省吾は、呟くような声でそれに応じる。
「教団も、少しは世のため人のためになる部分があったみたいだな。新山は、教団にいる間はシャブをやめていられた」
新山杏奈は、まぎれもない薬物依存症だった。しかし、教団にいた間は覚醒剤を断っていた。これは間違いない。
ところが教団の暗部が暴かれ、崩壊がほぼ確定してしまった。と同時に、彼女を薬物から遠ざけていた信仰という結界も崩壊してしまったのだ。
今後、新山が教団に代わるものを見出だせるのだろうか。
「ああいう根が真面目な子は、すぐ極端な方に行っちゃうんだよ。そのうち、山川みたいにならないといいけどね」
咲耶がポツリと呟く。その言葉により、省吾ほ再び山川に思いをはせた。
山川には、敬虔な教団幹部の顔があった。もっとも、幹部とは名ばかりである。その実は、真面目なだけが取り柄の無能な男……そんな評価をされていたのは間違いない。
しかし、あの仮面を被れば、彼が山川優孝であることを知る者はいなくなる。マスクを被ることは、彼を全く別の人間へと変貌させるものだった。真面目で気の弱い人間が、ネットでは暴言や誹謗中傷を繰り返す無法者になるケースは少なくない。山川も、マスクレンジャーと化すことで、裡に潜む暗い欲望を満たしていったのだろう。
南米には、古代から独特の仮面文化がある。祭りや儀式などといった特別なイベントの際、仮面が用いられるのだ。神聖なものとして扱われており、強い生き物の象徴であるジャガーや鷲などをあしらった仮面を王が装着していたのは、その魂が自らに宿ると信じられていたからである。つまり、仮面は憧れや英雄を意味するアイテムだった。
メキシコでも、ルチャ・リブレという独特のプロレス興行が存在している。マスクを被ったプロレスラーたちが、リング上で飛んだり跳ねたりして闘うというスタイルのプロレスだ。これも、仮面文化の流れを強く受け継いでいるのは間違いない。
仮面を被ることで、山川は違う人間になることが出来た。幼い頃に憧れていた、正義の英雄へと……彼は、その英雄にマスクレンジャーと名付けた。幼い頃と同じく、単純な正義を執行するヒーローだ。
そういえば、教団内で最初に殺されたふたりは、ある意味では罪人だった。最初の犠牲者である岩崎は、若い男性信者と不倫関係にあったし、悪質な訪問販売業者と似た手口で多くの人間を入信させてきた。山川は常日頃から、彼女の存在を苦々しく思っていたのだろう。
また、二番目に殺された関谷は、アダルト動画で稼いでいた女である。純潔という概念を未だ強く信じている山川にしてみれば、彼女もまた許せない存在だったのだ。
三番目に殺されたチンピラ、四番目に殺された若林にいたっては、どちらも裏社会に生きる悪党である。偶然にも、山川がいる時に集会所に現れ脅しをかけて来たため、マスクレンジャーのターゲットにされてしまったのだ。あのふたりを殺すことには、何のためらいもなかったはずだ。
十五年間、山川は教団に尽くしてきた。が、だんだんと己の狂気を押さえきれなくなっていったのだろう。そして、あの日……再び仮面を被り岩崎を殺してしまった。それからは、正義の名を借りた暴力で己の欲求を満たしていったのだ。
しかし、省吾たちとの戦いでマスクを剥がされ素顔を晒され、挙げ句に自らの手で命を断ってしまった。
(誰も、お前みたいな人殺しのクズ野郎なんか愛してねえんだよ!)
マスクを失った山川に向かい、咲耶の放った言葉だ。あれは、省吾の暴力よりも効果的だったのでほないか。
誰からも愛されていない……その事実をまともに突きつけられ、山川の全てが崩壊してしまったのかもしれない。
本音を言うなら、省吾は今も山川を嫌いにはなれない。マスクレンジャーのしたことを許すことは出来ないが、かと言って山川を心底から憎むことも出来なかった。ただただ、憐れとしか思えなかった。
わからないことは、まだ残っている。マスクレンジャーの、あの異常とも言える身体能力は何だったのか。
山川は、スポーツとは無縁の人間だった。腕力もない。省吾は、彼が集会所内で備品を運んでいる姿を何度か見かけていたが……力仕事に関しても、本当に頼りない男だった。パイプ椅子の設置すら、しんどそうに行っていたのだ。電球の付け替えも、見ていて危なっかしいと感じたものだ。あれが、全て演技だったとは思えない。
もうひとつ、どうしても解けない謎がある。
山川が被っていた白いマスクは、完全に消えてしまったのだ。室内で投げ捨てたのは覚えている。山川が走り去って行った後、部屋の中をくまなく探してみたが、どこにもなかった。念のため外も見回ったが、結局は見つからなかった。見つからないまま、このペンションに来てしまったのだ。
あのマスクは、今どこにあるのだろう──




