ハロウィンの日
省吾は、トレーニングルームのベンチに腰かけ汗を拭いた。
外からは、楽しそうな声が聞こえて来る。学校帰りの子供のものだろう。時計を見れば、四時になっていた。
今までトレーニングに励んでいたのだが、どうにも集中できず中断した。ここ二週間ほど、汗をかいても心の中のモヤモヤが晴れずにいた。
理由は、はっきりしている。このところ、あまりにも多くのことを知った。知りたくもないことだったが、向こうから省吾の耳に飛び込んできたのだ。
まず、教祖である六波羅の死が近いという事実。さらに、朝永が妙な陰謀を企てていることも聞かされた。自分たちも、その一員にさせられるのだ。
その上、マスクレンジャーは今も無差別に悪人を狩っている。さすがの警察も手を焼いているらしい。
どうしたらいいのだろう。このまま、成り行きに身を任せていてよいのだろうか。
その時、不意にドアが開く。
「ショウちゃん、いつまで遊んでんの! そろそろ行くよ!」
言いながら入って来たのは、いつもと同じく咲耶だ。しかし、今日の彼女はいつもと異なる格好だった。先が尖りツバの広い帽子を被り、豊満な胸元がざっくり開いた黒いドレスを着ているのだ。スカートの丈も短い。その格好は、ファンタジーに出てくる魔女のようである。それも、大人向けのファンタジーに登場し主人公を誘惑する魔女だ。
「お、お前、何だよその格好は……」
省吾は、思わず顔をしかめる。しかし、咲耶は怯まない。むしろ、自身のプロポーションを誇るかのように胸を張ってみせた。
「何だよって、今日が何の日だかわかんないの?」
真顔でそんなことを聞いて来る咲耶を前に、省吾は戸惑い視線を外す。山川に続き、こいつまでおかしくなったのか? などと本気で考えていた時だった。
今日が何日か、ようやく思い出す。十月の三十一日なのだ。つまり……。
「ハロウィンか」
「そうだよ。五時から、近くの商店街でイベントがあるんだって。コスプレして来店したら、福袋をくれるんだってさ。だから、早く準備して」
「その格好で、外に出るのか?」
「もちろん。ショウちゃんも、今日は露出の多い格好してみれば? ゴリラみたいなショウちゃんも、マニアックなおばさんたちにモテモテになれるかもしれないよ」
勝ち誇ったような顔で、そんなことを言う咲耶。今の彼女からは、以前にミスをして落ち込んでいた殊勝な態度は完全に消え失せている。
もっとも、あのミスをいつまでも引きずっていられたら、こちらも困ってしまう。省吾は、苦笑しながら言い返した。
「ふざけるな」
やがて、四人は外に出た。
省吾と恭子は普段通りの格好だが、咲耶は先ほどの魔女スタイルだ。そして未来はというと、なんと怪獣の格好である。怪獣の開いた口から少女の顔が出ている……そんなスタイルのキグルミを着て、恭子や咲耶と手を繋ぎ嬉しそうに歩いている。
後ろに控えている省吾は、何とも言えぬ表情で歩いていた。若干の居心地悪さを感じつつも、怪獣のキグルミ姿で嬉しそうに歩く未来を見ていると、これでいいのかな……という気もする。怪獣に扮した少女は本当に可愛らしく、思わず顔がほころんでいた。
その時、いきなり咲耶が振り返った。
「ショウちゃん、後でさ……って、何にやけてんの! いやらしい!」
言ったかと思うと、未来の方を向く。
「未来、ショウちゃんてば、いやらしい目してあたしを見てたんだよ。どう思う?」
いきなり話を振られた未来は、きょとんとした顔で立ち止まった。小首をかしげ、省吾を見る。
言われた省吾は、チッと舌打ちし咲耶を睨んだ。
「子供に余計なことを言うな。だいたい、お前なんか見てねえよ。ほら、未来だって困ってるだろうが」
「そうだね。未来には、まだちょっと難しいね。じゃあ、咲耶お姉さんが教えてあげる。いい、男には気をつけなきゃ駄目よ。男はね、みーんな狼なんだから。あたしみたいな可愛い女の子を食べることしか頭にないのよ」
そんなことを言いながら歩いている咲耶と、真顔でウンウン頷きながら歩いていく未来。横にいる恭子はといえば、何をバカなことを言ってんだ……とでも言わんばかりの顔で未来の手を握り歩いていく。
「ざけんなよ。お前だって、まだ男じゃねえか」
ぶつくさ言いながらも、省吾は三人の後を付いていく。今のやり取りで、心のモヤモヤが少し晴れたような気がした。
しばらく歩き、商店街へと入っていく。と、景色が一変していた。普段よりも、明らかに人の数が多い。しかも、その半分以上が仮装している。
「ちょっとお、日本はいつからこんな国になったんだい。ブラジルじゃないんだから」
呆れた様子の恭子が見ているのは、十一月に入ろうというのに、肌もあらわな格好で歩く若い女たちだ。サンバカーニバルのような衣装である。当然ながら、男たちの視線を集めていた。
「恭子さん、そんなこと言ってると笑われるよ。今はね、あれくらい珍しくないから。あたしも、来年は挑戦してみよっかな」
そんなことを言うのは咲耶だ。未来は、いろんな扮装をした人々を夢中で眺めている。
その時、省吾の顔つきが一変した。愕然とした表情で、人混みを凝視する。そこには、妖精や魔女やアニメのキャラクター、その他さまざまな衣装を男女が、楽しそうに歩いている。皆、仮装を楽しんでいるようだ。
しかし、省吾の視線はそこにはない。彼の目は、ある一点を捉えていた。コスプレをした男女の群れに混ざり、ひとりの男が歩いている。白い覆面、白いジャージ、白い手袋、白いスニーカー……。
十五年前の悪夢が、脳内で蘇る。バラバラにされた人体。アスファルトを染めていく血液。助けを求める後藤伸介の顔。
にもかかわらず、何も出来なかった自分──
違う。
あいつのはずがない。
必死で、己に言い聞かせた。その時、覆面男の目が省吾を捉える。
途端に、彼は進行方向を変えた。こちらを見据え、ずんずんと進んでくる。にもかかわらず、省吾は動くことが出来なかった。未来たちはというと、楽しそうに前を歩いている。省吾に起きた異変には、全く気づいていない。
覆面男との距離は縮まっていった。省吾は完全に呑まれ、動くことが出来ない。いつの間にか、足がガクガク震えていた。
やがて、覆面男は立ち止まった。お互い、手を伸ばせば触れられる位置だ。
「やあ、久しぶりだね。あれから、何年経つのだろうな。十年以上か」
爽やかな口調で声をかけて来た覆面男。その時、省吾ははっきりと確信した。この男、間違いなくマスクレンジャーだ。あの声は、忘れようにも忘れられない。何度、夢に出てきたことか……。
愕然となり体が硬直している省吾に向かい、マスクレンジャーは楽しそうに語り出した。
「どうやら君は、公序良俗に反する生き方をしてはいないようだ。いやあ、感心感心。だがらといって、油断してはならないぞ。人は、油断していると悪の道へと落ちていく。悪に染まりきった人間は、二度と元には戻れないのだ!」
言いながら、マスクレンジャーは省吾の肩をポンポンと叩いた。
「覚えておくといい。一度、沢庵になってしまった大根は、もう二度と元の白さを取り戻すことは出来ないのだよ。人間も同じだ。一度、悪に染まってしまった者は、二度と元の善性を取り戻すことは出来ないのだ。肝に銘じておきたまえ。では、失礼する。君に送る言葉は、ただひとつ……正しく生きよ! だ!」
省吾を指差し、そんなことを叫んだかと思うと、マスクレンジャーは深々と一礼した。直後、背筋をピンと伸ばし颯爽と歩いていく。
後に残された省吾は、呆然となりながら後ろ姿を見ていた。
ところが、そこである考えが浮かぶ──
なぜ、そんな考えが浮かんだのかはわからない。突然のマスクレンジャーとの遭遇により放心状態となっていた省吾……その時、雷で打たれたかのように、頭の中に閃くものがあったのだ。
次の瞬間、省吾は歩き出す。マスクレンジャーの後を、そっと付いていった。




