教団の日常
それから、十五年後──
真幌市の閑静な住宅地。その片隅に、宗教法人オルガノ救人教会が所有する建物があった。
白い壁に囲まれた四角い外観は、病院を連想させる。ドアはガラス製だ。もっとも、そのガラス越しに中の様子を見ることは出来ない仕組みになっていた。
ドアを開け中に入ると、二十ほどのパイプ椅子が整然と並べられており、ほとんどの席に人が座っている。椅子の向いている先には、一段高い演説用の教壇があった。
座っている者たちの年齢や服装はまちまちだが、性別は女性の方が多い。中には、車椅子の女性もいる。男性は、係員らしき者を含めても五人ほどしかいない。
その数少ない男性のひとりが、松原省吾であった。身長は百七十センチ強だが、がっちりした体格のため大きく見える。その体をスーツに包み、両手を腰のあたりで組んだ姿勢で立っている。髪は短く、いかつい風貌をさらに際立たせていた。
かつての、スタイルを重視するスマートな不良少年という面影は完全に消えていた。今では、冷めた表情の用心棒という雰囲気を漂わせている。もっとも、彼の肩書は宗教法人オルガノ救人教会の職員であった。
やがて、ひとりの男が教壇に上がった。
「皆さん、よくいらしてくれました」
皆の視線を浴びつつも、臆することなく壇上で挨拶をしているのは、朝永博義である。地味な灰色のスーツに身を包み、にこやかな表情で聴衆を見回している。年齢は三十代後半から四十代、眼鏡をかけており顔つきは柔和そうだ。身長は百六十センチ強で体重は六十キロ前後といったところか。見た目は、どこかの中小企業の班長という雰囲気である。
しかし、彼が語り出すと印象が一変した。
「この世に存在するものは、全て神が決めました。我々の三次元的な思考しか出来ぬ卑小な頭脳では、神の深く大きな考えなど、理解できるはずがありません」
そこで、朝永は聴衆を一通り見回す。その様は、自己啓発系セミナー講師のようだった。
「皆さん、我々のなすべきことは決まっています。つまらない欲望を捨て去り、飛び交う雑音をシャットアウトし、心をひとつの目標にのみ向け、たゆまず努力していくことです。そのためには、何が必要でしょうか……それは、物質ではありません。霊的なものこそ、我々が求めるべきものなのです」
そこから、朝永の演説はさらに熱を帯びていく。聴衆は、真剣な面持ちで話を聞いていた。
だが、省吾の表情は冷めきっていた。彼の目は、座っている信者たちに向けられていた。時おり、外の様子にも気を配っている。
やがて、拍手と共に演説が終わる。朝永は、奥にある個室へと入っていった。そこは、係員たちの休憩室である。折りたたみ式のテーブルとパイプ椅子が設置されていた。
朝永は椅子に座り、テーブルの上に置かれていたペットボトルの水を飲む。と、そこにひとりの女が入って来た。まだ若く、二十代半ばだろうか。地味なスーツ姿で、化粧も薄い。眼鏡をかけており、髪も短めである。
「関谷さん、どうかしましたか?」
朝永が、優しく語りかける。これは、彼の予定に入っていたことなのだ。関谷と呼ばれた女は、ためらいながら口を開いた。
「私……もう、無理です。これ以上、続けられません」
「よいですか、天は、乗り越えられない試練は与えません。これは、天があなたに与えた試練なのです。私は、あなたを信じています。あなたなら、必ずこの試練を乗り越えられると。ご自分の力を信じてください」
朝永の口調は優しい。だが、関谷は首を横に振った。
「無理です……私には耐えられません」
その時、朝永の表情が変わる。
「では、あなたにひとつ質問があります。あなたは、私を信じてくれますか?」
「も、もちろんです! 私は、朝永さんを信じています!」
「そうですか。あなたは、私を信じてくださるのですね。ありがとうございます。ですが、あなたの言葉には嘘がありますね」
「何をおっしゃるのです!? 私は、あなたを心の底より信じております!」
関谷の声は、先ほどとは違い怒鳴りつけるようなものになっていた。もっとも、この部屋は防音仕様になっている。中でどんな音を出そうが、外からは聞こえない。
「それはおかしいですね。私は今、あなたなら出来ると信じている……そう言いました。ところがあなたは、自分には出来ませんと言いました。これはつまり、私の言葉を疑っているということです。ひいては、私を信じていないということではありませんか」
対する朝永の声は静かなものだった。穏やかな顔で問いかける。
「そ、そんな……違います! 私は、朝永さんを信じています!」
「私を信じているのなら、私の言うことも信じられるはずですよ。違いますか?」
淡々とした口調だが、その言葉は関谷を追い詰めていく。彼女はうなだれ、下を向いた。
すると、朝永は立ち上がる。彼女の両肩に手を置いた。
「まずは、深呼吸しましょう。邪念を捨て去り、澄んだ気持ちで私の言うことを聞いてください。いいですね?」
その言葉に従い、関谷は目を閉じ深呼吸を始めた。
「私は、関谷さんなら出来ると信じています。あなたがご自分を信じられないとおっしゃるのなら、まずは私を信じてください。あなたなら出来る、そう信じている私を信じるのです」
催眠術でもかけているかのようである。彼女も、ようやく落ち着きを取り戻したらしい。
「わかりました。お手数おかけして、申し訳ありません」
しおらしい態度で頭を下げた関谷だが、実は知る人ぞ知る有名人である。自身で制作したアダルト動画で、月百万近く稼いでいるのだ。近頃は有名になってきたせいか、おかしなファンも増えてきており、そのため相談に来ていたのだ。
彼女は稼いだ金の半分近くを、毎月オルガノ救人教会に寄付していた。その事実を知る者は、教団でもごく一部である。
ふたりが個室で話している間、省吾はにこやかな表情を浮かべつつ、油断なく会場を見回していた。
今のところ、怪しげな者はいない。信者たちが、思い思いの位置で談笑している。だが、信者同士でも見えない壁があることを省吾は知っている。
そう、同じ信仰の下に集まった彼らも一枚岩ではない。信者同士でも、いくつかの派閥がある。一番大きな派閥は、岩崎成美という信者のグループである。
岩崎は、もともと地主の家に生まれた女だ。既に結婚しており、現在は四十歳である。教団に入ったのは三年前だが、地元に古くからいる住民ならではのネットワークを活かし、精力的に活動していた。
特に彼女が力を入れていたのが、引っ越してきたばかりの学生や若い主婦たちへの勧誘だ。岩崎はよく回る口と図々しさを用いて、あっという間に距離をつめていく。
一方、押しかけられた相手にしてみれば、越してきたばかりで不安な時である。しかも、地元では名のある人物らしい。逆らわない方がいいと判断し、とりあえずは言うことを聞いてしまう。
茶飲み話をしつつ、岩崎は相手がどのような性格かを分析する。やがて、押しに弱いタイプに教会への参加を持ちかけるのだ。
「怪しげなカルト教団ではないから、サークル的なものだと思って気楽に参加しなさいよ」
などと、にこにこしながら言ってくるのだ。
断わると「何で? ねえ、何で? 理由を教えて?」と、しつこく迫ってくる。結局、根負けし参加することとなってしまう。
そうやって、何度も教団の集まりに参加させ、気がつくと教団の一員になっている……こうして、岩崎は信者を増やしてきたのだ。その勧誘してきた人数を鼻にかけ、教団内では大きな顔をしている。
そんな岩崎だが、実のところ教団の若きイケメン信者と不倫関係にある。もっとも、その事実を知っているのは、省吾ら数名の教団幹部だけだ。
省吾は、この岩崎が嫌いだった。救いようのない俗物であり、人格の醜悪さが体から滲み出ている気さえする。しかし、彼女の実績もまた蔑ろには出来ないものだ。したがって、表面的には岩崎を立てている。
その時だった。突然、外から大声が聞こえてきた。どうやら出番のようだ。省吾は、すぐに反応する。ドアを開け外に出ていった。
「おい! 友美を出せよ! ここは人の女をさらうのか!」
敷地内で喚いているのは、髪を金色に染めた若い男だ。目付きが鋭く、首にタトゥーが入っている。明らかに、品行方正な社会人とは思えない人物だ。若い女性信者が対応しているが、暴力的な雰囲気に圧倒されていた。
省吾は、にこやかな表情を作った。女性信者に目で合図しつつ、彼女の前に出て男に頭を下げる。
「すみません、どういう事情かは知りませんが、ここでは何ですから部屋で話しましょう」
両手を後ろで組み、穏やかな口調で言った。しかし、男に聞く耳はないらしい。
「だからぁ、石田友美を出せって言ってんだよ!」
言いながら、顔を近づけてくる。チンピラの威嚇だ。有りがちなものである。省吾は怯まず、手を後ろに組んだまま前進していく。
「ですから、中でお話ししましょう。話すための部屋がありますから」
言いながら、さらに前進していく。手は後ろに組んだまま、体で押していった。手で押してしまうと、後々厄介なことになる。
押された男は、あっさりとよろけ後ろに倒れた。体格も体力も、省吾とは差があり過ぎたのだ。
男は尻餅を着いた体勢で、顔を歪める。倒れたことにより、プライドを傷つけられたのだ。思った通りの単細胞である。
「この野郎!」
すぐに立ち上がり、喚きながら拳を振り上げた。省吾は、とっさに両腕をあげ顔をガードする。
男の放つパンチが、ガードしている腕に当たった。痛くはなかったが、大げさな声をあげ、その場に倒れる。
「痛い! 殺される! 警察呼んで!」
そう叫ぶと、相手はいきり立った。
「調子こいてんじゃねえぞ! このインチキ教が! ぶっ殺すぞ!」
男は怒鳴り、倒れた省吾をなおも蹴飛ばす。だが省吾は、体を丸め急所をきっちり守っている。たいしたダメージはない。
と、そこに数人の警官が現れた。問答無用で男を取り押さえパトカーへと乗せる。先ほどの女性信者が電話で呼んでいたのだ。
省吾は立ち上がり、痛そうな表情を浮かべ警官に話をした。
「いやあ、ここで怒鳴りちらしていたので、話を聞こうとしたら、いきなり殴られました。あとはバチバチ蹴られまして、殺すと言われて……あ、もちろん訴えさせていただきます。いずれ、教団の顧問弁護士を通じて連絡させていただきますので、よろしくお願いします」
事情聴取を終え、警官たちは帰っていく。入れ替わるように、省吾の前に現れたのは朝永だ。
「松原くん、大丈夫かい?」
「はい、いつものことですから。ところで、友美ってのは何者です?」
「先月から、寮に入った二十八の女だよ。今までは、風俗で働いていたんだ。で、さっき来てた男は丸山といって、石田のヒモだった」
そうだろうと思っていた。省吾は、苦笑しつつ頷く。
「なるほど」
「そう、有りがちなパターンだ。丸山の暴力がひどくなってきたから、うちの寮に避難させたんだよ」
頷く省吾だったが、ふと疑問が浮かんだ。
「そうですか。それにしても、何でウチの寮にいることがわかったんですかね?」
そう、あの丸山は探偵など雇うタイプではない。では、どうやって石田の居場所がここだと知ったのだろう。
すると、朝永がニヤリと笑った。先ほど演説していた姿とは、完全に真逆の悪人顔になっている。
「ここだけの話だがな、俺が教えたんだよ」
「えっ? マジですか?」
「丸山はバカだから、すぐに乗り込んで来るだろうと思ってたんだよ。結果はこの通りだ。奴はお前をぶん殴り、警察に連れていかれた」
いかにも楽しそうに、朝永は答える。口調も、がらりと変わっていた。
彼の言うことは正しい。今の時代は、暴力をふるえば負けなのだ。朝永は、そのあたりをちゃんと理解している。相手の暴力を誘い、金を得る……そんなのは、この男にしてみれば当たり前のことなのだ。
「さすが朝永さんだ。で、丸山からは幾ら取れそうですか?」
「いや、奴からは取れないよ。あいつは文無しだ」
「本当ですか。じゃあ、殴られ損ですね」
「そうでもないよ。石田には、これで大きな貸しを作れたからな。あの女には、これから桃源郷でたんまり稼いでもらう」
なるほど、と省吾は思った。
教団の人間が、自分を探しに来た丸山に殴られた……石田にしてみれば、申し訳ない気持ちでいっぱいだろう。しかも、丸山は教団により警察に逮捕された。お陰で、彼女は元彼の暴力から逃れられたのだ。その辺りを計算した上で、あえて丸山に情報を流したのだ。
今の石田は、教団に借りを作った形となっている。朝永は、その事実を盾に彼女を教団管理の風俗店『桃源郷』で働かせ、寄付と称して金を取り立てるつもりなのだ。この男、今までにも似たような手口で七人の女性信者を風俗嬢に変えている。
「ところで……申し訳ないんだが、ちょっとやってもらいたいことがあるんだ」
不意に、朝永が真顔で言ってきた。その顔つきで、省吾は全てを察する。
「ひょっとして、カードですか?」
「そう、イエローカードの案件だ。今回も頼んだぞ」




