省吾の煩悶
省吾は、ベンチに腰かけた。窓からは、綺麗な青空が見えている。時間を見れば、午後二時を少し過ぎたところだ。
今、彼はトレーニングルームにいた。日課のトレーニングに励む予定であったが、今日はどうしても集中できない。こんな日に無理すると、ケガに繋がる。早めに切り上げた方がいいのかもしれない。
これまでは、少々の悩み事なら汗を流せば忘れられた。しかし、今回は違う。どうにも気分が乗らない。
理由ははっきりしている。昨日、刑事の正岡に聞かされた話のせいだ。未だに心から離れない。マスクレンジャーの話は衝撃的であった。まさか、信者ふたりを殺した犯人が奴だったとは……。
あの男の目的は、何なのだろう。
(私の名はマスクレンジャー! 神を愛し、神に愛された男だ!)
今も、はっきり覚えている。このセリフだけを聞けば、コントの登場人物にしか思えないだろう。だが、マスクレンジャーは現実に存在する。目の前で、友人の後藤伸介を殺したのだ。
確かに、後藤は善人ではなかった。シンナーを吸い、街で出会った若者に因縁をつけ暴力を振るい、挙げ句にカツアゲまでしていた。少年向けのマンガでは、第一話で主人公に倒されるキャラだろう。
だが、殺されるほどのことはしていないはずだ。
ふと。幼い頃にテレビで放送していた特撮番組を思い出した。主人公は超人的な能力を持ち、正義を愛する改造人間である。世界征服を企む悪の秘密結社が送り込む改造人間と、人知れず戦う。そんな内容である。
今、省吾が置かれている境遇は、その図式に当てはまるものだ。正義の味方マスクレンジャーが、新興宗教の皮を被った悪の組織と戦う……まさに、特撮ヒーロー番組そのものの展開である。
では、自分は怪人だろうか。それとも、名もなき戦闘員だろうか。
思わず、くすりと笑ってしまった。そう、幼い頃の世界は単純なものだった。善か悪か、ふたつにひとつだ。迷う必要などない。幼い頃の自分は、常に善の側にいる。悪の側にいるのは、自分とはまるで違うモンスターのような者たちだ。
悪い奴に、情けは無用である。そう、許せない悪人は殺せばいいのだ。派手な必殺技を食らわして爆死させても構わない。怪人が爆発し、エンディングの曲が流れて終わりだ。
大人になってみると、世の中は複雑なものであることを思い知らされた。「イー!」と叫びながら主人公の前に現れ、一撃で殺される名もなき戦闘員にも人生がある。両親もいるし、友だちもいただろう。ひょっとしたら妻や子供もいるのかもしれない。あの後藤にも、省吾という友だちがいたのだから。
さらに、組織内での立場もあるだろう。まともな社会では居場所がなく、悪の組織の一員とならざるを得ない悲哀……それを、今の省吾は知っている。
無論、誰かにわかって欲しいと言うつもりはない。これまで省吾の犯してきた罪は、軽いものではないのだ。己の人生など、とうの昔に諦めている。
いずれ自分も地獄逝き……仕方ないとわかっているが、未だ割りきれない気持ちがあるのも確かだった。
物思いにふけっていた時、いきなりドアが開く。入ってきたのは咲耶だ。
「ショウちゃん、そろそろ時間だよ……って、また汗まみれじゃん! 早くシャワー浴びて汗ふいてよ!」
いつもと同じく怒鳴り付けられた省吾は、虚ろな表情で頷いた。
「ああ、わかったよ」
「えっ、どうしたの?」
咲耶はポカンとなっていた。いつもなら、何かしら言い返してくるはずだ。しかし、今日は何も返ってこない。
そんな咲耶の方を見ようともせず、省吾はシャワールームへと歩き出した。
彼女は、思わず首を傾げる。
「ショウちゃんてば、筋トレのやり過ぎで風邪でも引いたのかねえ」
そんなことを呟きながら、トレーニングルームを出た。
やがて、省吾たちは外に出た。
恭子と咲耶の手を繋ぎ、未来は嬉しそうに歩いていく。例によって、連行されるエイリアンのような格好である。だが未来は、このスタイルがお気に入りらしい。
その後ろを、省吾は無言で付いて行く。いつもと違い、どうにも足取りが重い。普段なら笑みがこぼれる三人の姿を見ても、心は沈んだままだ。
しばらくして、四人は公園に到着した。前回とは違う場所である。彼らは用心のため、常に歩くルートや行く場所を変えているのだ。
さっそく未来が走り出した。次いで、咲耶が恭子の方を向く。
「今日は、あたしが未来と遊ぶから。未来、行こ」
そう言うと、少女の手を引いて進んでいいく。一方、恭子は省吾の腕をつついた。
「ちょっと来なよ。たまには、お姉さんと話でもしようじゃないか」
省吾と恭子は、少し離れた位置のベンチに腰掛けた。珍しいパターンである。普段は、咲耶と恭子がベンチで話すことが多い。ふたりは教団の女子寮に住んでいるが、周りは敬謙な信者ばかりであり、下手な話は出来ない。したがって、こういった場で好きなことを話すのだ。話のネタには、教団の悪口や朝永ら幹部連中のゴシップなどである。
なのに、今回はなぜか咲耶が未来の担当である。おかしなものだ……と思いながらら周りを見回した省吾。と、周囲には人気がないことに気づいた。昼間の公園には珍しいことだ。近所で、何かイベントでもあるのだろうか。あるいは、この公園は近所のお母さんたちに好かれていないのかもしれない。
そんな状況など意に介さず、咲耶と未来は鉄棒で楽しそうに遊んでいる。もっとも、普通の子供とはだいぶ違った遊び方をしていた。咲耶が鉄棒に掴まり、ポールダンスのような動きをして見せているのだ。ニューハーフバーのショウタイムで培った技かもしれない。
未来といえは、驚いた様子でぱちぱちと手を叩いている。離れた位置で見ている省吾は、苦い表情を浮かべた。咲耶は何をやっているんだ、と言おうとした時だった。
「どうかしたの?」
不意に、恭子が聞いてきた。
「えっ?」
「あんた、何があったの?」
なおも尋ねる恭子から、目を逸らし答えた。
「別に、何もないよ」
「嘘だね。今日のあんた、何か変だよ。さっきから、心ここにあらずって感じだ。何があったのか、お姉さんに言ってみ?」
言ってみ、などと軽く言われても、答えられなかった。昨日、正岡とした話を聞かせるわけにはいかないのだ。
「いや、大丈夫だよ」
そう言って、再び少女らに視線を戻す。ふたりは、楽しそうに笑い合っていた。
「なあ、あいつはいつまでこんな仕事するんだろうな」
気がつくと、そんな言葉が口から出ていた。
「えっ?」
困惑している恭子に向かい、省吾は一方的に語り続ける。
「あんな小さい子供が、こんな血なまぐさい仕事をしなけりゃならない。なんて素敵な宗教団体なんだろうなあ。素敵すぎて泣けてくるぜ」
「確かにね。でも、どうしようもないだろ」
吐き捨てるような口調で、恭子は答えた。その顔には、やりきれない表情が浮かんでいる。
そんな彼女を見て、省吾は再び目を逸らした。
「いつまで、こんな生活しなきゃいけないんだろうな」
呟くように言うと、恭子の顔つきご変わる。
「だったら、どうするって言うんだい?」
凄むような声だった。彼女の言葉に怒りを感じ、言い返そうとした省吾だったが、その時おかしなものが視界に入る。
「えっ、いや、あれは……」
思わず、うろたえるような声を発していた。省吾の目と意識は、別のものへと向けられている。
彼の視線の先には、中年女と思われる人物がいた。もっとも、女性にしては大柄な体つきだ。ボブカットで身長は百七十センチほど、体重は百キロ近くありそうだ。ダウンジャケットを着てスカートを履き、顔には眼鏡をかけマスクを付けている。公園の入口に立ち、スマホをいじっている……が、見ようによっては未来と咲耶をスマホで撮影しているようにも思える。
「今、ここから逃げたら、教団を敵に回すことになる。レッドカードが出て、あたしら皆殺しさ。それで終わりだよ、あんた、そんな死に様を晒したいのかい?」
不審人物に気づいていない恭子は、一方的にまくし立てる。彼女もまた、省吾と同じ悩みを抱えていたのだろう。
その時、未来が歩き出した。ひとりで女子トイレに入っていく。と、中年女も動き出した。さりげなく周囲を見回しながら、女子トイレへ向かっていく。
省吾は違和感を覚えた。あの歩き方は変だ。スカートを履きなれていない気がする。ひょっとしたら、男かもしれない。となると、目当ては盗撮か。あるいは性犯罪が目的か。
咲耶の方を見たが、彼女は気づいていないようだ。スマホを取りだし、いじり始める。
チッと舌打ちした省吾。と、恭子が凄まじい形相になる。
「ちょっと! 今のはなんだい!? 文句あんなら、はっきり言いなよ!」
怒鳴りつけてきたが、省吾は構わず立ち上がった。同時に、彼女の耳元で囁く。
「女子トイレに変な奴が入った。見てきてくれ」
「えっ、どういうこと?」
「今、女子トイレに未来が入った。そのすぐ後に、変な中年女が入ったんだ。けどな、あれ男かもしれないんだよ。気のせいかもしれないが、念のため見てきてくれ」
「わかった」
恭子は頷き、すぐに走り出す。同時に、省吾は咲耶の方を向いた。
咲耶は、鉄棒でのんびりともたれかかってスマホをいじっている。元自衛官でありながら、この異変に気付かなかったのか。
その瞬間、省吾は動いた。すぐさまトイレへと向かう。ほぼ同時に、声が聞こえてきた。
「お前、何やってんだ!」
恭子の声だ。やはり、予想は当たっていたのだ。こうなっては仕方ない。省吾は、女子トイレへと入っていく。
そこでは、異様な光景が繰り広げられていた。恭子と、大きな体の中年女が掴み合っていた。その傍らでは、未来が唖然とした表情で立っている。
省吾は、すぐに動いた。中年女の背後に回り、腕を取った。関節を極めると同時に、壁へ強引に押し付ける。
すると、相手は呻き声をあげた。その声は、男のものである。やはり、省吾の読みは正しかったのだ。この男は、わざわざ女装し女子トイレを盗撮に来たのである。いや、ひょっとしたら未来の誘拐が目的だったのかもしれない。
ほぼ同時に、咲耶がトイレに入ってくる。状況を見るなり、顔をしかめる。自分がとんでもないヘマをしたことを悟ったのだ。
「クソ! この変態オヤジ、警察に突き出してやる!」
恭子が怒鳴りつける。だが、省吾はその声を無視し男を立たせた。
「いいか、俺たちは忙しい。だから、今日は見逃してやる。だがな、もう一度このあたりで見かけたら、そん時は許さねえ。バラバラにして東京湾に沈める。だから、さっさと消えろ」
低い声で凄み、男を突き飛ばす。
中年男はよろけながらも、慌てて逃げていった。と、恭子が憤然とした表情で省吾に食ってかかる。
「何で逃がすんだよ! 警察に……」
そこで、不意に黙り込んだ。ようやく、自分たちの置かれた立場を思い出したらしい。
省吾たちは、警察とかかわってはいけない人種なのだ。ここで警察を呼んだら、自分たちの関係をいろいろ聞かれることになる。この三人は、血の繋がりがない……それどころか、本名すら知らない赤の他人なのだ。
そう、彼らは日の当たらない場所に住む者たちだ。下手に警察とかかわってはいけないのである。
恭子は、悔しそうな顔で下を向く。その時、咲耶がためらいながら声をかけてきた。
「ご、ごめん。あたしが、目を離したばっかりに……」
途端に、恭子は顔をあげ咲耶を睨みつけた。
「何考えてるんだい! 未来にもしものことがあったらどうすんだ!」
恭子に怒鳴りつけられ、咲耶は顔を歪めて下を向く。普段、口の達者な彼女にしては珍しいことだ。
とはいえ、ここにいてはまずい。省吾が口を開いた。
「まずは、ここを出よう。うかうかしてると、俺たちが通報されんぞ」
そこで、恭子の説教はようやく止まった。
「う、うん、そうだね。未来、行くよ」
そう言うと、未来の手を引き外に出る。肩を落とした格好の咲耶が、後に続く。彼女の表情は暗く、普段の脳天気さが嘘のようだった。
四人は、公園を出た。歩きながらも、恭子の説教は続いている。咲耶は体を縮こませ、下を向いていた。
「わかってんのかい。あんたが目を離したせいで、とんでもないことになるところだったんだよ」
言った時、恭子の服のすそを引く者がいた。
「ち、違う。咲耶は、わ、悪くない。あ、あ、あたしが、ひとりで行くって言ったの」
すまなそうな顔で、未来が口を挟んできた。さらに、省吾も加わる。
「恭子さん、人は誰でもミスする。だがらこそ、サポートがいるんだ。俺たちみんなで、お互いのミスをカバーしていけばいい。咲耶だって反省してる。もういいだろ」
言われた恭子は、その場で立ち止まった。つられて、全員が止まる。
ややあって、恭子がペこりと頭を下げる。
「そうだね。省吾の言う通りだ。咲耶、言いすぎたよ、ごめん」




