山川との会話
「暗い道を、たったひとりで歩いていくのはとてもつらいものです。時として、人は自分がどこを歩いているのか、それすら把握できなくなることもあります」
集会所の壇上に立った山川は、集まった信者に向かい語っている。スーツ姿の省吾は出口付近にて立ち、場内を見守っていた。今のところ、特に問題はない。
強いて言うなら空席が目立つ点だが、これは今夜に始まったことではない。このところ、集会に参加する信者の数は目に見えて減っている。その理由は、いちいち考えるまでもなかった。
「そんな時、人は心細くなります。道に迷い、導いてくれる人はいないのだろうか……と、弱気になることもあります。それをいいことに、忍び寄ってきて優しい言葉をかけてくる者がいます」
寂しい場内で、山川は聴衆に向かい語っている。いつもと同じく、魅力に欠ける。
ただし、話すネタはいつもと違う気がする。
「それこそが、悪魔と呼ばれる者なのです。様々な創作物にて、悪魔は個性的な姿で描かれています。しかし、本物の悪魔がどんな姿をさているか……皆さんは、ご存知ないでしょう」
聞いている省吾は、思わず顔をしかめた。山川は、何を言い出すのだろう。
オルガノ救人教会は、神や悪魔や霊といった超自然的な存在については、基本的に語らないことにしている。否定しないが、肯定もしない。むしろ、複雑な現代社会においてどのように生きていくか……そこに重点を置いている。いわば、カウンセラーの発展形だ。
悪魔や霊といったオカルティックなものに対しては、直接の言及を避けるようにしているはずだった。なのに、今夜はどうしたのだろう。
そんな省吾の思いなどお構い無しに、山川は語り続ける。
「私は知っています。本当の悪魔とは、こんな顔をしています」
言ったかと思うと、山川は自身の顔を指差した──
省吾は、思わず顔をしかめる。これは、いったい何なのだろう。ウケを狙っての行動だろうか。だとしたら、あまりにお粗末だ。
信者たちの反応はというと、人によってまちまちであった。顔を引きつらせている者、ポカンとなっている者、省吾のようにしかめ面をしている者、などなど……笑っている者など、ひとりもいない。
そんな状況下でも、山川は眉ひとつ動かすことなく講演を続ける。
「私は見ての通り、お世辞にもイケメンと呼ばれるような顔ではありません。平凡そのもの、人畜無害な顔であると人から言われたことがあります」
聞いている省吾は、首を捻った。ひょっとしたら、これは自虐ネタだったのか。いずれにしろ、褒められたものではない。聞いている信者たちも、どんな反応をしたらいいのか困っている様子だ。
そんな状況にもかかわらず、山川の話は続いている。
「悪魔は、このように人畜無害な顔で迷う人に接触してきます。悪魔という存在は、暗い道を歩く者に言葉巧みに近づき堕落させようとしてきます。気がつくと、とんでもない場所を歩いていることがあります。あるいは、道ですらない場所を歩いていることもあります。人の道を踏み外した状態です」
それは間違っていない。ほとんどの悪人は、些細なことから少しずつ悪くなっていく。気づいたら、もはや足を洗うどころか胸のあたりまで泥水に浸かり、抜け出せなくなっていることが多い。
もっとも、このオルガノ救人教会もまた似たようなものなのだ。一部の信者を風俗で働かせ献金させていることなど、ここにいる者のほとんどは知らない。
省吾のそんな思いをよそに、山川は語り続ける。
「これを防ぐためにも、光あるうち光の中を歩んでいきましょう」
やがて講演が終わり、山川は控室へと入っていく。
省吾も後から入っていき、ペこりと頭を下げた。
「どうも、ありがとうございました」
「やあ、君か。ところで、今日の公開講演はどうだろう。よかったら、君の意見を聞かせてほしいのだが……」
「意見、ですか?」
予想もしていなかった問いに、省吾は完全に虚を突かれ言葉が出ない。
「うん。率直に言って欲しい。どう思った?」
山川は、にこやかな表情でなおも聞いてくる。本当に率直なことを言ってしまえば、確実に気分を害することになる。言えるはずがない。
「えっと……」
答えに窮した省吾は、どうしたものかと下を向く。すると、山川は苦笑した。
「すまなかった。君の立場では、率直な意見は言いづらいだろうね。自分でも、わかっているんだよ。私には、朝永さんのような力はない」
「い、いや、朝永さんは別格ですから」
この言葉に嘘はない。あの男は、間違いなく別格だ。山川とは比較にならない。というより、比較する対象として間違っている。
人間には向き不向きがあるが、朝永は例外だ。どんな仕事であろうと。嘘とハッタリと演技とを用い、そつなくこなす。さらに、どんな環境にも適応可能だ。
「そうだよね。確かに別格だ。私のような凡人に、朝永さんの代役は荷が重いよ。役不足……いや、この場合は力不足というのが正しい使い方だね」
微笑みながら、山川は話を続けた。だが、不意に表情が変わる。
「私は思うんだよ。この世界に存在する全ての人間が、一日一善を心がける……ただそれだけでも、世の中はだいぶマシになるんじゃないかとね」
「一日一善、ですか」
「うん。一日に、たったひとつの善行。それだけのことで、世の中は大きく変わる。私のつまらない講演などより、そちらの方がよほど世の中のためになる」
何を言い出すのだろうか。省吾は不安になり、思わず声をかけた。
「だ、大丈夫ですか?」
思わず、そんな言葉が出ていた。
「ああ、大丈夫だよ。」
山川の顔には、笑みが浮かんでいる。ただし、自嘲の笑みだ。
この男は、教団の裏側をほとんど知らないし、関与もしていない。教団が、単なる宗教法人でないことは薄々わかっているのだろう。しかし、詳しいことは知らされていないはずだ。
もちろん、省吾とて教団の裏側を全て知っているわけではない。しかし、山川よりは把握している。朝永から信頼されてもいる。
ある意味、教団内の地位は山川より省吾の方が上だとも言えるのだ。
山川が、どういった経緯でオルガノ救人教会の信者になったのかは不明だが、おそらくは純粋な気持ちからだろう。世の中をよくしたい、という若さゆえの情熱からの行動なのかもしれない。
それが今では、教団を運営する側の人間になっている。裏側から漂う血の匂いにも薄々は気づいているが、もはや引き返すことの出来ぬ立場にいるのだ。
もし引き返してしまえば、自分の半生を否定することになる。いや、そもそも生きていられるかどうかもわからないのだ──
省吾は、山川に微かな憐れみを覚えた。宗教団体とは名ばかりの、腐った集団の一員となりながらも、心の奥底では、なお正しい生き方を求めている。人々を、その正しい生き方に導こうとしている。
この男には、清らか過ぎる部分があった。しかし、水清くして魚棲まずという言葉もある。清らか過ぎる部分を捨てきれないから、教団内でも出世できずにいるのではないか。実際、この男は上の人間のスケジュールすら聞かされていないのだ。
そんな省吾の思いをよそに、山川は語り続けている。
「ところが、世の中には不埒な欲望に身を任せ、挙げ句に破滅してしまう者が少なくない。信者の中にさえ、そうした人間がいる。私が何よりつらいのは、こうした事態に何も出来ないことだ。自分の無力さを感じる瞬間、これが一番つらい」
そこまで語った時、扉をノックする音が聞こえてきた。
「どうしたのかね?」
山川が声をかける。
「すみません、松原さんのお知り合いという方がいらしてます。以前、お世話になったので、会ってお礼がしたいとのことですが……」
扉越しに聞こえてきたのは、職員のものだ。
省吾は、思わず眉間に皺を寄せる。教団関連で、信者の誰かを世話した覚えなどない。また、誰かを教団に勧誘した覚えもない。別の人間と間違えているのではないか。
にもかかわらず、省吾の口からはこんな言葉が出ていた。
「わかりました。行きますよ」
そう言って、省吾は部屋を出た。実のところ、山川との会話から解放されたかったのだ。あの男は悪人ではないが、やりにくさを感じる。
しかし、扉を出ると同時に、省吾は己の選択を後悔していた。
「よう、松原くん」
待っていたのは、くたびれたスーツを着た中年男だ。髪は短めで、白いものが目立っていた。色は黒く、目つきは鋭い。
「あ、あんた……」
省吾は顔を歪める。目の前にいるのは、十五年前に自分を取り調べた刑事の正岡だ。十日ほど前にふらりと現れ、意味ありげな言葉を残し去って行ったのをはっきりと覚えている。
「申し訳ないんだけどよ、君とどうしても話がしたいんだ。ちょっと付き合ってくれないかな」
正岡は、馴れ馴れしい態度で聞いてきた。省吾は、露骨に不機嫌そうな顔をして見せる。
「今は忙しいです。話すことなどありません」
そう、この男とは話したくない。否応なしに、あの日を思い出すことになるからだ。正岡とサシで話をするくらいなら、山川と哲学について語り合う方がマシだ。
「そう言わないで、来てくれよ。でないと、とっても嫌な思いをすることになるぜ」
「どういう意味です?」
「先日、ガキどもが潰れた工場に入り込んで悪さしていたそうだ。そこに、ホームレスが現れガキどもを襲った。ガキどもは全員、病院送りになったらしい」
正岡は、世間話でもするような口調で語った。間違いなく、省吾らが動いたグリーンカードの件だろう。
だが省吾は、素知らぬ顔で言葉を返す。
「ほう、それは災難でしたね。まあ、運が悪かったんでしょうなあ。で、その事件と俺とどういう関係があるのです?」
「ガキどもを襲ったホームレスだけどよ、やけに強いんたよな。相手がガキとはいえ、あっという間に五人を病院送りだせ。おかしいと思わねえか?」
とぼけた口調で聞いてきた。だが、その目ははっきりと言っている。お前がやったんだろう、というメッセージを、鋭い視線で伝えていた。
「さあね。そんなホームレスもいるんじゃないですか。元プロボクサーだったとか、そういう人間がいてもおかしくないでしょう。とにかく、俺には関係ないですから」
省吾は、知らぬ存ぜぬという顔つきで答える。
これは、警察がよくやる揺さぶりだ。正岡は、少年たちの事件について、教団が怪しいと睨んでいるのだろう。だが、今のところ証拠も証人もない。
もし証拠があるなら、わざわざこんなことを言ったりしないのだ。ごちゃごちゃ言ってくる前に、逮捕状を取ってくるだろう。それが出来ないから、こんな形で揺さぶりをかけてくるのだ。
今は知らぬ存ぜぬで押し通し、あとは教団の顧問弁護士に任せればいい。省吾は、冷めた表情で相手の次の言葉を待った。
「そう言ってられんのも、今のうちだぜ。俺たちが徹底的に調べりゃ、何かしら出てくる可能性もあるんだぞ」
そう言って、正岡はニヤリと笑う。
「なあ、付き合ってくれよ。ちょっと話をするだけだ。カツ丼くらいおごるぜ。だいたいな、俺の目当てはお前みたいな雑魚じゃない。もっと悪い奴だよ」




