プロローグ
むし暑い夏の日の夜。
真幌駅近くの繁華街を、ふたりの少年が歩いていた。どちらも、目には凶暴な光がある。顔つきにも凄みがあり、誰かとすれ違う際には向こうが道を空けていた。
時刻は午後八時である。十五歳の少年にとっては、まだまだ遊び足りない時間帯だ。しかも、今は夏休みに入ったばかりの時期である。
「省吾、ゲーセン行かね?」
歩いている最中、不意に片方の少年が口を開く。
彼は、名を後藤伸介という。百八十センチを超える長身で、体格もがっちりしている。着ているタンクトップから覗く太い二の腕には、タトゥーが彫られていた。金色に染めた髪を左右に振りながら、時おり道行く人に鋭い視線を向けている。
「お前、金あんのか?」
聞き返したのは、松原省吾だ。こちらは百七十センチ強、体格はさほど大きくないが運動神経はいい。小学生の時は野球少年であり、エースで四番を務めていた。だが、中学に入ってからは辞めてしまった。現在は高校一年生だが、既に学校でも有名人である。腕力だけの伸介と違い、頭もキレるし状況判断に優れ逃げ足も早い。伸介が唯一、同級生の中で一目置いている男なのだ。
「ねえよ。だから、ゲーセンにいる親切な人からお借りするんだよ」
不機嫌そうに、伸介は答えた。その「借りる」という言葉が、暴力を伴うものであるのは明白だ。省吾は首を横に振った。
「やめとけって。お前、こないだも四人ヤッちまったろうが。そろそろヤバいぞ」
そう、先日ふたりはゲームセンターに行き、態度の大きな中学生と揉めた挙げ句、外に連れ出し全員をブン殴った。さらに道路で土下座させ、有り金を徴収したのである。
この行動からもわかる通り、ふたりは地元でも有名なコンビである。喧嘩では負け知らずだ。一度などは、地方から遠征に来た暴走族十五人をふたりで襲撃し、全員を敗走させたこともあった。
もっとも、最近の伸介はやることが無茶苦茶になってきていた。入った高校も、一ヶ月ももたず退学となっている。担任の教師を殴ったためだ。今では、昼間からぶらぶらしている。
しかも、最近ではシンナーの量が増えていた。伸介がシンナーを始めたのは中学生の頃からだが、当時はまだ学校という歯止めになる要素があった。ところが今は、学校にも行かず仕事もしていない。したがって、暇と金があればシンナーを吸う毎日である。
省吾はというと、シンナーに興味はなかった。この男は、カッコよさやスタイルを重視する。学校が終わると、すぐに私服に着替え町に繰り出すタイプだ。一世代前のヤンキーたちのように、リーゼントやパンチパーマの頭で、改造した学生服を着て繁華街をうろついたりはしない。それは彼にとって、全裸で出歩くのと同レベルの恥ずかしい行為であった。
スタイルを重んじる省吾にしてみれば、シンナーは昭和の遺物でしかない。今時あんなものをやるなんてダサすぎんだろ……という思いがある。にもかかわらず、シンナーにハマり込み日に日に不健康な顔になっていく伸介を、苦々しい思いで見ていた。
そんな伸介を見捨てることも出来ない己の人の良さにも、腹立たしい気持ちを抱いていた。
やがて歩き疲れたふたりは、袋小路でしゃがみ込んだ。彼らにとって、この袋小路はたまり場である。近所の住民にとっては、不良少年がたむろしている場所として有名だ。したがって、足を踏み入れる者はそうそういない。
逆に、省吾と伸介のふたりに会いたい人間は、この袋小路を訪れることになっている。地元の有名人である彼らは、時おり喧嘩の助っ人や合コンのゲスト参加などを頼まれることがあった。
「おい省吾、あれ見ろよ」
伸介に言われ、スマホをチェックしていた省吾は顔を上げた。
誰かが、こちらに歩いて来ている。身長はさほど高くない。百七十センチ強、といったところか。体格的には、ごく普通と言っていいだろう。
だが、その顔には白いマスクを被っていた。目と鼻と口の部分にのみ穴のあいた、白いフェイスマスクである。しかも、首から下は白いツナギ型ジャージだ。手には、白い手袋をはめている。こちらを気にする様子もなく、すたすた歩いていた。
ふたりは顔を見合わせる。この道は袋小路であり、人通りがない。だからこそ、省吾たちのような連中の溜まり場となっているのだ。わざわざ入って来るのは、地理にうとく道に迷った他所者だけである。
もっとも、彼の格好はそれ以前に問題がありすぎた。覆面レスラーのコスプレ……の出来損ないという見た目だ。
「なんだあいつ、変態マスクマンか?」
省吾が呟くと、伸介はヘヘッと笑った。
「どうやら、キメ過ぎておかしくなったみてえだな。ちょっとからかってやろうぜ」
言うと同時に、伸介はすっと立ち上がる。ヘラヘラ笑いながら近づいていき、わざと肩をぶつけていく。
マスクマンは、少しよろけた。だが、伸介はお構いなしだ。上から睨みつけていく。
「ずいぶん濃いのキメたらしいなあ。けどよう、人にぶつかっといて謝罪も無しってのは良くないよなぁ? だろ?」
伸介の言っている「濃いの」とは、薬物のことである。
この辺りの地理はわからずとも、この状況がどのようなものであるかは、誰でも理解できるはずだ。しかし、マスクマンは微動だにせず、伸介を見つめている。その目から敵意は感じられないが、かといって怯えているわけでもない。
その態度が、伸介を苛立たせた。
「何、日本語わかんねえのか? ひょっとして外人? アナタ、ニホンゴワカリマスカァ?」
わざとらしい片言の日本語を吐きながら、顔をを近づけていく。鼻と鼻が触れ合わんばかりの位置だ。
その時、省吾はぞくりとなった──
マスクマンの醸し出す空気が、一瞬にして変化したのだ。先ほどまでは、ごく普通の労務者に見えた。だが、今はまるで違う。草に擬態していた肉食昆虫が、獲物を見つけ本当の姿を現した……なぜか、そんな気がしたのだ。
体が震え出した省吾とは対照的に、伸介は何も気づいていなかった。この男は今、シンナーが切れている。買う金もない。したがって、いつもよりイライラしていた。
そのイライラを発散させるための手段を求めていたら、このおかしな扮装をした男がやって来た。まさに、飛んで火に入る夏の虫である。
「ヘーイ! ワタシ、サムライファイター! ワタシトファイト! オッケー!?」
言った直後、いきなり殴りかかっていったのだ。省吾が止める暇もなかった。伸介の大振りのパンチが、マスクマンにヒットする。
次の瞬間、省吾は愕然となった。殴った方の伸介が、右手を擦っているのだ──
「いってえ! 超いてえぞコラ!」
苦痛に顔をしかめながら、喚き散らしている。だが、それも仕方なかった。人間の額の骨は、硬く分厚い。拳を鍛えてない者が殴ると、手の骨を痛めることもあるのだ。
今の伸介にも、その現象が起きてしまった。マスクマンの額に拳が当たったため、手を痛めてしまったのだ。
マスクマンの方は、平然とした表情で立っている。直後、口を開いた。
「君は、ずいぶん理不尽なことを言うのだな」
その声は、異様なものだった。妙に滑舌が良く、しかも爽やかな声である。たとえるなら、アニメで正義のヒーローを演じる声優………そんな感じだ。この状況には、全く似合わない。危機感を覚えた省吾は、思わず後ずさる。
だが、伸介は違う印象を持ったらしい。マスクマンを睨みつけた。
「クソが! プッ殺してやる!」
直後、伸介は左手を伸ばした。憤怒の形相で、マスクマンの襟首を掴む。そこから、相手の顔面にヘッドバットを叩き込む……はずだった。
しかし、その動きが止まった。伸介は、驚愕の表情を浮かべてマスクマンを見下ろしている。
何が起きたのか、見ている省吾にはわからなかった。だが、伸介にははっきりわかっている。自分の喉を、マスクマンの手が掴んでいるのだ。首から感じられる力は恐ろしく強いが、動けない理由は他にもある。
マスクマンの手からは、異様なものが感じられたのだ。本能の部分に訴えてくる何か。かつて動物だった時代の直感が、肌を通して教えてくれる。獰猛な肉食獣を目にしたような感覚だ。
こいつは、自分より遥かに強い──
不意に、マスクマンが口を開いた。
「私の名はマスクレンジャー。神を愛し、神に愛された男だ。どうやら、君は悪人のようだな。ならば、今より正義を執行する」
爽やかな声音は、先ほどと変わっていない。しかし、言っていることは支離滅裂だ。
不意に、マスクレンジャーと名乗る怪人が手を伸ばした。伸介の左腕を掴む。
直後、何をしたのか省吾にはわからなかった。ただ、マスクレンジャーの手が動いた……それしか見えなかった。
一瞬遅れて、伸介の口から悲鳴があがる──
彼の左腕は、逆方向に曲げられていたのだ。手のひらと上腕三頭筋がくっつきそうな状態である。
そんな左腕を振りながら、伸介はその場に両膝を着く。神に祈りを捧げるような姿勢で、マスクレンジャーに向かい叫んだ。
「ごめんなざい! もうやめでえ! 許じで! 許じでえ!」
涙と鼻水とよだれを垂れ流しながら、許しを乞うていた。恐怖と激痛が、彼のプライドを打ち壊してしまったのだ。恥も外聞もなく叫んでいた。
その時、マスクレンジャーの手が動く。喉に、軽く触れた……ようにしか見えなかった。
一秒後、伸介は喉を押さえ倒れる。その口からは、ヒュウヒュウという音しか聞こえてこない。
「君は喋り過ぎだな。静かにしていたまえ」
マスクレンジャーは、高らかな声で言い放つ。直後、その右手が動いた。曲がっている伸介の腕めがけ、手刀を打ち下ろす──
声にならない悲鳴が上がる。伸介の左腕は、さらにおかしな形になっていた。肘の部分から、尖った骨が突き出ている。手刀の衝撃で骨が折れ、皮膚と肉を突き破ってしまったのだ。
「や、やめてください」
省吾の口から、思わずそんな言葉が漏れ出ていた。
すると、マスクレンジャーの動きが止まった。その顔は、省吾へと向けられる。
「申し訳ないが、それは出来ない。なぜなら、この男は悪人だからだ! 悪人は、全て抹殺する! それこそが神を愛し神に愛されたマスクレンジャーの使命!」
途端に、省吾は口を閉じた。この男は、完全に狂っている。これ以上、何を言っても通じない。
マスクレンジャーは、満足げに頷いた。
「そうだ。君はものわかりがいい。その聡明さに免じ、君は無傷で帰してあげよう。だが、彼はそうはいかん。彼の脳は、シンナーにより壊されているようだ。もはや救えない」
言いながら、伸介を指差した。
なぜ、伸介がシンナーをやっているとわかったのだろうか……その疑問に気づいたのは、全てが終わってからのことである。当時の省吾は何も言えず、憑かれたように目の前の光景を見ていた。
突然、マスクレンジャーが口を開く。
「神! 心! 悪! 即! 壊! 神の心もて悪を即座に壊す!」
よく通る声で、宙に向かい叫んだ。直後、惨劇が始まる──
恐ろしい光景だった。
マスクレンジャーは、人間離れした腕力と正確な技で伸介の五体を解体していったのだ。幼児が虫をちぎるかのように、何のためらいもなく作業を進めていた。腕や足を伸ばし、手刀や蹴りで骨をへし折り、折れて刃物のように鋭くなった骨で皮膚や肉を突き破らせ、強い腕力で引きちぎる……この行程を繰り返し、手足を切り離していったのだ。
伸介はといえば、途中までは反応していた。必死でもがき、逃れようと動いていたのだ。しかし、マスクレンジャーは逃がさなかった。動いたとみるや、強靭な手で彼の体をしっかり掴み作業を続ける。
その上、伸介のズボンには大きな染みが付いている。体から流れ出た血液、そして途中で漏らした糞尿によるものだ。血の匂いと混ざり、辺りにはひどい悪臭が漂っている。にもかかわらず、マスクレンジャーは淡々と作業を続けていた。
やがて伸介は、途中から何をされようがピクリともしなくなった。出血多量か、あるいはショックの為か……死亡したのは明らかだったが、不思議と心に響くものはなかった。死んだのだな……と思っただけだった。
友人のリアルな死を間近で目撃している。なのに、悲しみも哀れみも感じていなかった。ただ、マスクレンジャーなる怪人が怖くて仕方なかった。
やがて、マスクレンジャーの動きが止まる。
伸介は、見るも無惨な状態だった。前腕、上腕、胴、下腿……全部で七つに分解され、地面に並べられている。体から流れ出た血液が、アスファルトを染めていた。
普通の人間なら、見るだけで気絶していたかもしれない……そんな凄惨な光景を、省吾は最初から最後まで見つめていた。目を逸らすことなど、出来るはずがない。憑かれたような表情で、マスクレンジャーの動きを眺めていた。
「さて、これで終了だ。悪は、必ず滅びる。覚えておくといい。では、さらばだ」
大量の返り血を浴びたマスクレンジャーは、偉そうな態度で一礼した。直後、足音も立てず去って行った。
去り行く後ろ姿を、省吾は呆然と眺めていることしか出来なかった。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
気がつくと、夜が明けていた。空は白みかけ、車の音も聞こえる。
いつの間にか、眠っていたらしい。なぜ、こんなところに……省吾は目をこすり、周りを見回す。
その途端、おぞましいものが目に飛び込んできた。同時に、記憶が蘇る。
手足をもぎ取られた死体……言うまでもなく、伸介のものだ。その顔は、恐怖と苦痛により歪んでいる。死んだ後も、彼の地獄は続いているようだった。
伸介の体の横には、切り離された手足が放り出されている。アスファルトの地面には、大量のドス黒い血が固まっていた。まるで、ペンキを塗ったかのようである。
しかも、その手足に群がっているものがいた。鴉だ。数匹の鴉が、大きな嘴で伸介の手足をつついている。
この鴉は、伸介を食べる気なのだ──
その瞬間、省吾は立ち上がった。
「クソが! 消えろ! 消えろ!」
喚きながら、鴉を蹴飛ばした。だが、鴉はあっさりと攻撃を見切り、後ろに飛び退く。
その瞬間、鴉たちがついばんでいたものを、はっきりと見てしまった。剥がれた皮膚、剥き出しの骨、撒き散らされた細かい肉片──
耐えきれなくなり、省吾はしゃがみこんだ。激しく嘔吐する。途中、パトカーのサイレンが聞こえたような気がした。だが、そんなものを気にしてはいられない。省吾は、また嘔吐する。胃の中のものを全て吐き出した。
その時、声が聞こえてきた。
「ちょっと君、大丈夫?」
省吾が顔を上げると、五メートルほど離れた位置に警官が立っている。それも三人だ。うちふたりはこちらを向き、何かあったらすぐにでも飛びかかってきそうな構えをしている。ひとりは、無線らしきものに向かい状況を説明している。
どうやら、この惨劇の犯人が省吾である……警官たちは、そう思っているらしい。
もっとも、今の省吾にとっては、どうでもいいことだった。半ば強引に立たされ、パトカーに乗せられたが……何も考えず、何も答えない。ただただ、泥のように眠っていた。
事件は、細部を伏せて発表された。ひとりの少年が、路上で遺体となって発見された。警察は殺人事件と見て捜査中、とだけ報道される。
実のところ、このあまりにも異様な事件は捜査のしようがなかったのだ。十五歳で無職無就学、その上に数度の補導歴がある不良少年が、路上で手足をバラバラにされ殺された。唯一の目撃者である松原省吾は、完全に精神を病んでしまっている。事件について尋ねても、何も答えようとしない。
現場を調べても、手がかりは何ひとつ残されていなかった。怨恨という線から後藤伸介の身辺調査もしてみたが、ここまでのことをしでかすような人間は浮かび上がって来なかったのである。
結局、この猟奇的な事件は迷宮入りという形で幕を閉じた。マスコミには、詳細をいっさい知らされることはなく、完全に闇に葬られたのである。
しかし、省吾にとって事件は終わっていなかった。
目の前で、友人がバラバラにされていく。なのに、自分は何も出来ない。声の出せない伸介は、ずっとこちらを見ていた。その目は、助けてくれと訴えていた。
にもかかわらず、省吾は何もしなかった。あの時、目の前で肉体を破壊されていく伸介に対し、何も感じてはいなかった。
ただただ、自分自身が無事で済むことだけを祈っていた。
その事実は、彼にとって癒えることのない心の傷と化した。今も、省吾の中につきまとっている。




