イレギュラー・ゲーム
これだけ自然に恵まれた場所にあいつを連れて帰って来ながら――構いもしてやらない、人並みの気遣いすらしてやれない、自分の体たらくに気が滅入る。
(……明日は、全作業を中止して……千影の機嫌を……取ろう。……そう言えば、ここのところ練習もしてない。先生たちにも怒られる)
一体全体……どう、あいつの機嫌を取れば良いのかもまるで考えつきもしないくせに――千影のことなんて片手間に片付けてしまえるみたいな……そんな身の丈にも合わないことを考えながら。
低い藪が傍に生い茂る、川沿いの道を歩き続けている内に、千影たちが遊びに来ている「ハズの」
絶好の川遊びポイントの近くまでやってきた。
道を逸れる藪の切れ目を川に向かって下りていけば――夏が来るたび、あいつが水遊びに興じてくれた思い出の場所。
日が落ちた田舎の夜道は、灯りなしには足元がおぼつかないほど暗くなる。
(……早いとこ帰ろ)
ひとつ息を吐いて、河原へと下りる藪の切れ目に分け入ろうとすると――側に見慣れた隣家の軽トラ。
停められた車の荷台には、チップ・ソーが取り付けられたままの刈り払い機が――辺りで一仕事終えたばかりという風情で草の葉をこびりつかせて
青臭い匂いが漂うバナジウム鋼の刃に、鈍い光の粒を煌かせていた。
* * *
不意に鳴った、乾いた猟銃の音。
続いて辺りに響いたのは聞き間違えようの無い――千影たちの悲鳴と……獣の唸り声。
顔を叩く藪の小枝に目を細めて、河原へと駆け出せば――肩から血を流す、オレンジ色のベストを着た隣の家のお爺ちゃんと……少し間を空けて、川の中に浸かったツキノワグマが2頭。
この辺りで熊が出るたびに警戒にあたる、お隣さんの愛銃は、どこかへ弾き飛ばされたのか見当たらなかった。
仮にそれが手元にあったとしても、この国の不合理な銃刀法を誤魔化す以外の御利益しかない――銃身の半分までしかライフリングの切られていない猟銃で……しかも2発しかない装弾数の内1発を発射した銃で、2頭を同時にどうこうできる道理も無い。
「嬢ちゃんら……ゆっくりぞ。後ろに下がって……逃げぇ」
自分の身も危ないと言うのに、2頭から目を離さずにお隣さんは、千影たちに逃げるように言ってくれてはいたけれど――
足の力が抜けたのか、河原でへたり込むイオナを囲んで――千影と澪もままならない様子。
皆と2頭との間には、まだ少しの距離。
気取られないように、刺激しないように後ずさると俺は。踵を返して――もと来た道を駆け上がっていた。
* * *
体長120センチ程度の獣とはいえ、人間には勝てない存在であることを――本能が警鐘する獣が、立ち上がって前足を振り上げる。
アルミのシャフトをへし折られないように後ろに飛び退いて――隙を見ては刈り払い機を突き出すと、獣の胸にヒットしたチップ・ソーが――小径木の灌木をも断つ2ストローク・エンジンの力でめり込んでいく。
体毛が舞い上がると同時に――日が落ちる清流に、獣特有の酸っぱい臭いと鉄の香りが立ち込めた。
刈り払い機なんて手にしたのも初めてのことだったけれど、この手のモーター・ツールの扱いはディスク・サンダの類で慣れている。
チップ・ソーの回転方向に対してキック・バックが発生しない様に注意しながら、もう1頭の方に注意を向けると、機会を窺うように――そいつは視界の外に回り込もうとしていた。
話には聞いたこともあったけれど、随分知恵も回るらしい。
深手を負わせた1頭は、あと少しで肋骨を断ち切ってしまえるところではあったけれど――回転するヘッドを引いて、勢い良くもう1頭への牽制に向ければ――
血しぶきを巻き散らす刃の唸る音に、片割れは首を竦めて動きを止めた。
* * *
「……あんた、橘さん家のお孫さん……か」
肩口を抑えるお隣さんの声。
倒れた2頭に注意を払ったまま――全身真っ赤に濡れた俺が短く返事を返すと、俺みたいな奴であってさえ……容易に読み取ることができる空気。
「……すみません。一言、断わりもせずに……これ、勝手させて貰いました」
エンジンを切った刈り払い機についてを詫びると、今度はなんだかポカンと呆けた様な間。
足元でコト切れた2頭が兄弟だったのかどうかは……分からないし、それがどのような類の行動だったのかは判断もつかないけれど――結局、2頭は息絶えるまでの間。執拗に向かってくる事を止めなかった。
……理由なんてものは特に無くて。
獣の足回りに翻弄されては敵わない事を早々に察した俺が――チップ・ソーを小刻みに向こう脛に突き出すようにして、2頭の足へ手傷を加え続けた事で……
ただ単に逃げ出したくても、逃げ出せなかった――という程度の理由しか、無かったのかも知れないけれど。
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