第6話
時刻は8時。約束の時間……というより事務所の開く時間より1時間も早いが来てしまった。
「いるかな……?」
北枕の顔を頭の中で思い浮かべる。本人には悪いが、時間にルーズそう。
「う〜ん……まぁ鳴らすだけ鳴らしてみよっか」
これで出なかったら、昨日の喫茶店に行って時間を潰せばいいか。
欠伸をしながら事務所のドアの横に付いているインターホンを押したその瞬間だった。
〈ガチャン〉
勢いよく開いた扉。それに気付かなかった私は見事におでこにクリーンヒットした。ビルの内部に響き渡る鈍い音、そして全身を走り抜けるような鈍い痛み。あまりの痛みに私はその場で蹲った。
「──っ!?」
「な、高砂!? 悪い、大丈夫か!?」
ちょうど出かけようとした北枕も慌てふためいていた。まさか自分が出るこのタイミングでいるとは思わなかったのだろう。
「い……痛くないもん……」
「……事務所……入ろうか……」
こうして私の慰霊事務所の初入室は涙目で始まったのだった。
…
……
「マジで悪かった」
事務所のド真ん中にある対面式ソファーに北枕は事務所の冷蔵庫から持ってきた熱さまシートを私のおでこに貼ると、心底申し訳なさそうに謝った。
「いいよ。わざとじゃないのは分かってるから」
むしろあれがわざとだったら人間性を疑うレベルだ。さすがにそんな事は彼だってしないだろう。
「どっか行こうとしたの?」
「あぁ。朝飯の調達をな」
「食べてから出勤してないの?」
「あ、言ってなかったな。ここ、事務所兼自宅」
「え!? じゃあここでいつも生活してるの!?」
北枕は無言で頷いた。
改めて部屋を見渡すが、どこの企業にもある普通の事務所。私が座っているソファがあり、その前にはテーブル。その後ろにはテレビとパソコン、固定電話が乗ったオフィスデスクとチェア。こんな所で仕事とプライベートを両立させているのか。
「慣れれば大した不便はないぜ? でも強いて言うなら風呂が無いって事かな。あ、でもちゃんと入ってるからな? 西口出口の銭湯で──」
〈グゥゥ〉
北枕の言葉の最中、彼の声をかき消す程の大きな腹の虫が鳴いた。北枕は恥ずかしがる様子も素振りも見せず、ただ腹を押さえていた。
「腹減ったの思い出した。ちょっと留守番頼んでいいか? 電話が来ても無視していいからよ」
「それはいいけど、どこまで行くの?」
「ワクドナルドだ」
ワクドナルドとはアメリカ発祥で日本のみならず、全国に展開されているハンバーガーチェーン店。
「えぇ……朝からジャンクって……。そんなの食べてるから血色悪いのよ。台所はその奥でしょ?」
「お、おい!」
彼の制止を無視し、オフィスデスクの左奥にある台所に入る。そこにはパンパンになった45リットルのゴミ袋が山積みとなっていた。コンロとシンクの方に目をやるが綺麗過ぎて使われていないのがハッキリと分かる。
「やっぱり」
「なんだよ。……冷蔵庫を勝手に開けるなって!」
マヨネーズやケチャップ、ソースやわさび。調味料は充実しているが、肝心の食材が全く見当たらない。
「卵2個とソーセージか。ご飯はないの?」
「白飯ぃ? ……イトウのご飯だな」
レンジで温めればできるご飯が2パック、流しの下の収納スペースから出てきた。
「作ってあげる。フライパンはある?」
「いいって! 買えばすぐ──」
「私の料理が食べられないっての? いいからあっちで待ってなさい」
私の迫力に圧倒された北枕はおずおずと後ずさりし、台所から姿を消した。
『勝った……』
初めて北枕に勝った。言い知れぬ優越感でスキップしながら歌でも一つ歌いたい気分。
「さぁて、この調子で作っちゃうか」
今日は吉日になりそうだ。
…
……
「お待たせ」
調理時間は5分強。
ソファーで座って待っていた北枕の前にお手製のオムライスを配膳する。
「マジかよ……」
「何よ。なんか文句あんの?」
「いや、感心してんだよ。お前料理できそうに思ってたから」
料理もロクにしない、できない男が何言ってんだか。
「いいから食え」
北枕は無言で手を合わせると、スプーンで一口大にして掬うと口に運んだ。
「……美味いな」
「もうちょっとマシな感想ないの?」
「いや、もう……他の事なんか言ってらんねぇ」
感想を言う時間すら惜しいらしい。大したもの作ってないのに引くぐらいがっついている。
「そんなに美味しい?」
「あぁ。毎日作ってもらいたいくらいだな」
北枕の言葉にドキッとしたと同時に昨日の一連の事を思い出す。
『からかってるか、天然で言ってるかのどっちか! 惑わされるな、私!』
たった一日でここまで毒す事ができるなんて。北枕、あんたは嫌がらせの天才だよ。
「ふぅ、ご馳走さん」
「早っ!」
綺麗にたいらげたお皿をテーブルに置いた北枕は満足げにお腹をさすっていた。
「まったく……。普段何食べてんのか、たかが知れてるわ」
「まぁ、男の一人なんてこんなもんだろ」
何開き直って、胸を張ってるのか。言っとくが、そんな事誇らしくも羨ましくもないからな?
「それで、今日から小山さんの彼氏にコンタクト取らないといけないけどどうするの?」
「心配すんなって。昨日の夜に住吉の大体の特定はできた」
そう言うと彼はソファーから立ち上がり、オフィスデスクに向かうと、クリアファイルにまとめた資料を私に渡してきた。
「住吉純平。現在18歳で高校三年生。テニス部に所属しており、放課後は塾もしくはバイトをしている」
流石に住所や誕生日、電話番号までは記載されていなかったが、恐ろしいリサーチ技術に引いた。本日二度目。
「どうやって調べたの?」
「SNSだ。今のご時世、SNSが普及してくれたおかげで簡単に情報が手に入る」
業務とはいえ、やってる事はかなりヤバい。こいついつか警察に捕まるんじゃないだろうか。
「今は学校だから、放課後以降じゃないとコンタクトは取れねぇからな。それまでの間に『姐さん』の所に行くぞ」
「あねさん? あんたのお姉さん?」
「姐さんは何ていうかなぁ……。俺の同業者というか、お得意さんというか……。まぁ行けば分かる」
説明はおざなりとなった。ほんと、適当だなぁ。
北枕は食べ終わったお皿を流しに片付けると、洗顔や歯磨き等の身だしなみを整え始めた。
「お前の格好は……大丈夫だな」
上から下を舐めるように私の服装を確認すると、また流しに頭を垂れた。相変わらず酷いクマで見るその視線は、いやらしいというより若干の恐怖を感じる。
「何一人で納得してんのよ。私も一緒に行くんだから理由を話しなさいよ」
北枕は「まぁ待て」と言わんばかりに左の手のひらをこちらに向け、私の質問を遮った。
手探りでタオルを探し、顔を拭いた北枕はようやく私の質問に答え始めた。
「姐さんは……身だしなみを整えてない奴と話すのは嫌いなんだ」
なら、その目の下のクマもどうにかした方がいいんじゃないの? 素朴に思ったけど、私と会う前からそこの部分は気にせず、その人と会ってるならいいか。
「大丈夫なら、私外に出て待ってるよ?」
「あぁ。分かった」
まだ色々と準備に手間取る彼の横にいても何もできないし、時間を取らせてしまうと、この後の予定に響くかもしれない。邪魔にならないよう外で待つ事にした。
「服、汚すなよ? お前、見ててハラハラするからな」
「うっさい! 子供じゃあるまいし、心配されんでも平気だわ!」
ホント、余計な一言が多い。スニーカーを履くと、忌々しいドアを乱暴に開け、ポカポカ陽気の外の光に当たりに行くのだった。