1.ここはどこ? わたしはだれ?
「ここはどこ? わたしはだれ?」
思わずそんなお約束な言葉が零れてしまう。
辺りを見回してもはるか先まで草原ばかりが広がってる。瑞々しく輝くような、けれど背の低い草の様子からきっと春先だ。
その広大な草原を貫く一本道に一人で立っている。
前方も後方もまっすぐに道が通っていて両方共に先には何も見えない。
前に写真で見た北海道の道路を彷彿とさせるような景色だわ。もっともあの写真と異なり道幅も狭く舗装もされていないみたいだけど。
道は濃い茶色をした土が露わになっているようね。道幅は三メートル越えたくらいかな? 軽自動車ならなんとかすれ違いが出来るくらい?
どの方向のはるか先を見渡しても何も見当たらないみたい。何十キロか下手をすると百キロを越える範囲に山すら無いのかもしれない。
空は青く澄み渡り雲も薄くたなびく程度。日もまだ高くなくて気持ちの良い早朝って感じかな?
思わずその光景に感嘆してぼうっとしてしまう。
確かにこんな景色に憧れていた。
生命力に満ち溢れた青々とした広大な草原の中に一人きりだ。それでいて空気も湿っておらず、だからと言って乾燥しているわけでもない。清々しい空気と言っても良いだろう。
暑くもなく寒くもなく本当に気持ちがいい。何時間でもこの光景を眺めていたいくらいだ。
だけど頭を振ってその考えを追い出す。
そんな場合じゃないでしょ! なんでこんな所にいるの? おかしいわよ!
会社から帰る途中だった筈よ。満員のすし詰め状態だった電車を降りて、アパートに戻るところだったじゃない。周りには他の人達だっていたでしょ。
なんで早朝の草原みたいな所に一人で立っているのよ。
もしかして貧血か何かで倒れたの? ここってもしかしてあの世との境目? あそこって草も生えていない荒地に三途の川が見えるんじゃないの?
えええ! 私って両親に孫の顔も見せる事も出来ずに終わったの?
それに心残りなんて……一杯あるわよ。
彼は泣いてくれるかな? たぶんこのまま結婚すると思ってたんだけどな。
ちょっと変わり者だったけど不思議と気が合ったのよね。とあるサークルで知り合った、そのサークルの主宰をしていた人なんだけど。
彼にお別れを告げることも出来なかったのはとても残念だわ。
……うーん、違うわよね。えーと、これはあれかな? 異世界転移とか転生とか言われるものかな?
いやいやいや、そっちの方がありえないでしょ。
神様や世界の管理者なんかにも会ってもいないわよ。
どういうこと? 二十四歳の何の取り得も無い女に事情説明もなしに異世界で生きていけと?
そしてその考えでふと気付いて自分を眺める。
仕事帰りの普通のOLだ。通勤時のいつものバッグも持ったままだ。
バッグの中を確認する。特に無くなっている物もないし増えている物もない。会社からの帰り際と変わりはしない。
バッグからスマートフォンを取り出す。もちろん電源は入っている。だけどアンテナは全く立っていない。
もっとも見渡す限り何もない草原だ。中継局や基地局となりそうな電信柱なんかも見当たらない。繋がりそうにないのも仕方がない。
そのまま鏡のアプリを起動する。そこに表示されたのは見慣れた姿だ。
たいして美人でもない、それでも彼は綺麗だとか可愛いとか言ってくれる変わり映えのしない自分の顔が写っている。
何度か変顔を作ってみる。それに合わせるかのようにスマートフォンに写る顔も変わっていく。
スマートフォンは数枚この場の風景写真を撮ってから電源をオフにする。本当に異世界に来たのなら無駄に電池を減らす訳にはいかない。
「うん。これは異世界転生じゃなくて転移の方よね。って、まだ異世界とは限らないわよ。ここが地球のどこかって可能性もあるじゃない!」
その確率は低いだろうなと思いながら呟く。そしてそのまま動かずにいる。
いきなりこの場所に現れたのだ。ならばここにいれば元の場所に戻れるのかもしれない。
辺りを眺めながらしばらくぼうっと時間を潰していった。
日は高くなってきているが気温はそんなに変わっていく様子はない。
広がる草原の草の丈も足首の高さくらいだろう。そよ風に軽く揺すられてさざ波のようだ。
薄くたなびく雲も驚くほどゆっくりと流れている。まるで時間が止まっているようにも感じられる。
小一時間くらい経っただろうか。さすがに草原を眺めているのも飽きてきた。
腕時計を見てみる。耐衝撃構造と防水機能を備えた有名な時計の女性用だ。
彼から贈られた時計だ。いかにも彼が選んだらしい実用性重視と言った腕時計だけど気に入っている。
やはり一時間ほど過ぎている。どうやらこのまま戻る事もなさそうだ。
軽く溜息を吐く。それから再度辺りを見回す。
誰もいない。動物どころか一羽の鳥すら目に入らない。生きているものは自分しかいないのではないかとすら思える。
少し覚悟したような気持ちで再び溜息を吐く。
それから恥ずかしい気持ちを抑えて小声で呟く。
「……ステータス」
もちろん何も起こらない。
がっくりと肩を落とす。
うん、知ってた。誰かにチート能力を貰ったりしてないもんね。何も出る訳ないわよね。
所属しているサークルのおかげかもしれないけれど、その手のマンガや小説なんかも読んでいるわよ。
姿が変わってないから転生じゃなくて転移? それにこの齢でこの姿のままなら乙女ゲームや悪役令嬢物の世界って事もない筈。
……え!? それって凄く不味いんじゃないの?
本当に中世ファンタジーのような異世界だったら、何の特殊な技能も持ってない女一人だとやっていけないでしょ。
すぐにモンスターの餌食よ。ううん、獣だって同じだと思う。
もし人に会えたってたぶん身ぐるみ剥がれて奴隷にされるに違いないわ。
しばらく逡巡した挙句に顔を上げる。
バッグに入れていたペットボトルを取り出す。何の味もしない天然水のペットボトルだ。別にカロリーを気にしている訳ではない。
それを一口だけ飲む。
さすがに気付いている。このペットボトルに入っている水が生命線だということを。飲み干したり出来る訳がない。
昼にコンビニに行っておいて良かった。まだ半分以上は残っている。飴なんかもバッグに入っているし。……私は大阪のおばちゃんじゃないんだけど。
節約すれば今日明日に飢える事はない筈。
まずは水場を探すべきかな。
広大な草原を貫く一本道に立っている。道があるならどこかに通じているに違いない。どちらに向かおうか考えるが分かる筈もない。
道を無視して草原に向かって進む事も考えたが、それはあまり意味が無いと思い直す。
結局気付いた時に向いていた方角に進むしかないのだろう。
一時間ほど歩き続ける。
ヒールのないパンプスで良かったとつくづく思う。碌に舗装もされていない田舎の畦道のような所をハイヒールで歩くなんて考えたくもない。
景色は全く変わる様子がない。はるか先を見通しても何も見えない。左右も延々と続く草原だ。
まるで全く移動していないのではないかと錯覚しそうだ。
更に一時間ほど歩く。
歩き始めてから合わせて二時間分の距離だ。いくらゆっくり進んでいたとしても六、七キロくらいは歩き続けている筈だ。なのに景色は全然変わらない。行く先も何も見えないし左右に広がる草原もそのままだ。
さすがに疲れてしゃがみこむ。そして再度ペットボトルの水を一口だけ飲む。
ふう。二時間も連続で歩くなんて、ここしばらくした事がないわ。
そりゃ通勤なんかで小一時間立ったままでいたりはするけれど、歩き続けるのはまた違うからね。
趣味のサークルだって屋内でやるような事だもの。学生の頃より体力が落ちてきているのかな? さすがに足が攣ったりはしないけれど。
前後左右を見回しても本当に景色が変わらないわね。
まさか同じところを延々とループしてるんじゃないでしょうね。太陽の位置から考えるとそんな事はないと思うんだけど。
腕時計を見ると三時間程進んでいるから時間が過ぎているのは間違いない筈。
もう、異世界なんだったらチート能力の一つでも寄越しなさいよ。
今ならヒールが欲しいわ。体力を回復してくれるんでしょ。
無駄と分かっていながら思わず声を上げる。
「ヒール!」
瞬間淡い光が身体を包んでいた。




