第二章 暖かい宿の中で(2)
ちょうど食べ終わり、落ち着いた頃に食堂に人がぞろぞろと入ってきた。
何だろう、何かイベントが始まるのかな。
ざわつきとともに手前の長いテーブル一列がその人達で埋まった。私はその様子を暫くじっと見ていた。
あっ! ちづ婆ファッションをしている女の人を見つけた。
ドラマの主人公「千鶴婆さん」がいつも紫色のちゃんちゃんこを着ている事から、ドラマの影響で若者の女性を中心に紫色のちゃんちゃんこを着るちづ婆ファッションとして流行になっている。ピークの時はちゃんちゃんこの売り切れ状態が続いてニュースにもなった事もある。私も欲しかったが、結局は買えずに旬が過ぎてしまった。
あの人はかなりのファンに違いない。
何かのイベントが始まったので、私もそのまま一緒に参加した。
最初に宿場のオーナーからドラマ撮影時の状況説明と裏話があり、その後は大きな液晶テレビに出演者が映し出された。今回のイベント用に撮影された出演者からのメッセージだ。
千鶴婆さん役の陽田 澪という女優が映った瞬間、拍手と黄色い声援が湧き上がった。男性女性ともに好かれて絶大な人気がある。
無名な女優の卵だったのに主演に抜擢されて驚いた事やまだ二十代前半なのにお婆さん役で戸惑った事、雪山での撮影中に何度もトイレに行きたくなり困った事など笑いを交えたユニークなエピソードに絶え間なく笑ってしまった。久しぶりに心の底から笑ったような気がする。
この女優さんはドラマの中でも面白いが、普段の時はドラマ以上に面白い。そして、その場の空気を自分の空気に変えて、聞く人をほんわかな楽しい雰囲気にさせる不思議な力がある。特に飾ったような事は言わず、自分の思った素直な気持ちを言う。この初々しい素振りと人間性の良さが人を惹きつける魅力となり、爆発的な人気に繋がっているのだと思う。このような人は不思議と輝いて見える、そう思うのは私だけかもしれないけど。
主演のメッセージが終った後、他の出演者や脚本家の話がおまけ程度で編集されていた。そしてイベントは拍手とともに終了した。
あっ あの人、私が尻餅をついた時に声を掛けてくれた男性が大きな液晶テレビを移動させていた。
やっぱり宿場のスタッフの人だったのね。あの時「ありがとうございました」ってちゃんと言えば良かったと今頃ごろになって後悔した。目線で気付かれない様にチラチラと目で追っていた。端正な顔立ちをしていたので、何となく気になってきた。
食堂を出てすぐの受付にイベントの事をさっそく聞いてみた。
「チェックインの際にお配りしていなかったでしょうか?」
私は部屋のキーしか受け取っていなかった気がしたので顔を横に振ると、受付の人はこう言った。
「渡し忘れていたようで、ごめんなさいね」
親切にイベントの一覧が載ったパンフレットを手渡された。私は軽く会釈をして受付を後にした。昼に到着した時に混雑していたので渡し忘れていたのかな。
二一五号室に戻り、満腹になったお腹を優しく触りながらベッドに腰を下ろした。パンフレットを開いてみたら、樹氷ツアーや峠ツアーなど一日に各種のイベントを行っていて、屋内のイベントは事前予約無しで無料、屋外のイベントは事前予約が必要で有料、値段は五百円~千円程度と載っていた。夜に実施している屋外のかまくらツアーというのに目が止まった。かまくらという物が見たい。あとドラマ内でかまくらのシーンがあったのでこのイベントに行くのを即決した。
部屋がぬくぬくしているので、ベッドに横になりながらパンフレットを眺めていると徐々に眠りに落ちていった。
*
目を開くと私は暗闇の中にいた。周りを見渡しても真っ暗で自分の手足さえも見えない。
「えっ 何処?」
突然の状況に肩をすくませた。ここが現実か夢の中かわからない。
暗闇で目をあけているのも閉じているのも同じなので平衡感覚がおかしくなりそうになる。痛いほどの肌寒さで身体の熱が奪われて全身の震えが止まらない。
時折、遠くで稲妻が雲の間に走り抜け、辺りを明るく照らし出している。一瞬だが枯れた樹木や草花と荒れた地面が見え、生き物の存在する場所ではない空気が漂っていた。辺りは暗闇に戻り、再び視界が失われた。
ここは夢の中に違いない。いつも感覚の鈍い私でもそれが感じ取れる。しかし、自分が存在する感覚は現実のように鋭いのは何故だろう。暗闇の圧迫感で息が詰まる気持ちを抑え、慎重に大きく呼吸をした。
その直後、近くで雷が落ちた。耳の鼓膜が破裂しそうなほどの轟音と地響きが伝わってきた。雷が苦手な私は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
驚きで息が止まっていたのか動悸で胸が苦しくなり、口を大きく開けて激しく呼吸した。さらに左の耳がキーンと鳴ったままで聴こえなくなっている。身体が震えて額に嫌な汗も流れて出している。
早くどこかへ避難をしないと。
しかし、どの方向へ行けば良いかもわからず、雷が落ちたであろう方向を背に足元を確かめながらゆっくりと足を踏み出した。少しずつだが目が慣れてきたのか、うっすらと辺りの様子が見えてきた。
……?
どこからか何か聞こえる。片耳で微かな動く気配を感じた。
左耳はまだ耳鳴りしている為、片耳だけでは指向性がつかめず気配のする方向がわからない。
周囲を見渡すと、すぐに何かがいるのが分かった。
遠くで雷がまた光った瞬間、その方向には闇の塊の中に橙色でつり上がった大きな目が獣のように光っているのが見えた。今までに無い恐怖が全身を駆け巡った。動物本能としての危険信号を感じて、身体の中に熱い血液が流れ始めた。
「……い」
声が出ない。蛇に睨まれた蛙のように動けず、足が棒のように硬直している。動悸は治まることなく、心臓の鼓動が頭にまで響いている。
……怒り?
何かしらの感情が橙色の鋭い目から伝わってきた。襲ってくるのか襲ってこないのかもまだ判断できない。
わずか五メートルほどの距離。その気配から目を離さずに痺れた足を我慢して後ずさりをした。次の瞬間、闇の獣が音も無くこちらに襲いかかってきた。私は腰を抜かし、足がもつれてその場で尻餅をついた。
「ぅーーー」
叫び声も出せずにうなり声が口からもれた。
闇の獣が私に向かって飛び掛ってくるのがスローモーションのように動きがゆっくりと見えた。
突然、何かが私のズボンのポケットから光を放ちながら飛び出してきた。それは私と闇の獣の真ん中でさらに眩しい閃光へと変化した。目が開けられない。
*
一瞬で飛び起きた。今はさっきまでのベッドの上にいる。
無呼吸状態だったのだろうか、息苦しくて何度も短い呼吸を繰り返した。
部屋が暖房の付けっぱなしで暑くなっていた事もあって全身に汗をかいている。
「何だったのだろう…… あの夢」
夢で良かったと安堵すると、ベッドにうつ伏せになりで力が抜けた。リアルに怖い夢だったのでこれ以上は寝付けなかった。
時計の針は十四時半を指している、一時間も寝ていた事になる。
机に出していたミニタオルで顔の汗を拭きながら暖房のスイッチをオフにした。乾燥して喉がもうカラカラ。確か一階の受付の横に自動販売機があったのを見かけた気がする。ジュースとかじゃなくて普通のお茶があれば良いけどなぁ、と思いつつも部屋を後にした。