第一章 吹き抜ける風が冷たくて(7)
待合のベンチで身を縮めて座っていると、時刻表より五分早くバスが到着した。都会でよく見掛ける四角いバスよりも少し小さめの丸いバスでかなり年季が入っている。バスの正面には「希望バス」と小さく書かれているのが見えた。
早速乗り込んで後方の窓際の座席に座った。バスの中はとても暖かく、手と顔が何かもわっと暖かいものに包まれているような感覚になっている。運転席の上に設置してあるスピーカーから小さな音で民謡のような歌がかかっており、それがバス内に独特な空間を作り出していた。
バスが停車して二、三分後に地元らしき人がぞろぞろと乗り込んできたのが見えた。知り合い同士なのかワイワイと話し声がして、一気に賑やかになった。
曇った窓ガラスに犬の絵を描いて遊んでいると、バスは時刻表の時間どおりに発進した。
学生時代にバスで通学していたけど、こんな山道は無かったなぁ。右へ左へと大きく山道のカーブが連続で続いていて、その度に体が左右に引き寄せられる。願谷まで山を越えるのに山間を通っているのだろう。
今ではもう慣れたが小学生の頃は乗り物酔いが酷く、バスで行く林間学校や修学旅行が嫌でしょうがなかった。嫌な記憶を思い出して気分が悪くなりそうなので、この記憶も忘れるように処理した。
先ほどから暖かいバス内で冷えていた身体が温もってきていたので眠たくなってきた。寝ている間に着いちゃうかな、とウトウトしながら思っていた。そして眠気とともにお腹も空いてきた。
「あっそういえば」
確かいつも使っている常備品用ポーチの中にお菓子が入っている事を思い出した。一週間ほど前に会社で配られたクッキーを入れたまま忘れていたのだった。
賞味期限は大丈夫かなぁ、たぶん大丈夫。
さっそく口にすると、ちょっと湿り気味だったけど胡麻風味で美味しい。口の中に残った小さな胡麻を噛み砕きながら、先ほどからの睡魔に徐々に落ちていった。
チャロにクッキーをあげると喜んで食べている映像が頭の中で再生されていた。
*
目を開けると薄暗い空間に私はいた。
さっきまでバスの中にいたはずなのに……。
濃く深い霧が周りに立ち込めていて、一メートル先も見えないぐらい視界が遮られている。
突然の状況に何か底知れない不安と緊張感で身を強張らせた。どこかの草原だろうか、靴が隠れるほど群生する雑草を見て、そのように連想した。視覚よりも聴覚を頼りに周辺の状況を少しでも把握しようと試みた。草むらが揺れて風の流れる音、それが遠くからも聞こえるという事は、この草原はかなりと遠くまで続いていると推測する。それ以外は何も聴こえてこない。
私が大きく息をついて歩き出そうとした時、前の方から微かな雑草を歩く足音が聴こえてきた。
何かが近づいてくる。しかし、霧のせいでその姿が見えない。
どうにか見つからないようにその場でしゃがみ込んで息を殺していた。
徐々に足音が大きくなるにつれて、私の心臓の心拍数も高まっていく。
ドクッドクッと体中に鼓動が響き、まるで身体の外にまで鳴っているように思えて、必死に抑えようとしていた。
ぼやっとした黒い人影が目の前に現れた。
自分の心臓の音で周囲の音が聴こえないほど緊迫感が一気に高まっている。
やがて霧が浅い範囲まで近づき、その〝人〟がこちらに気が付いた。
そして、目が合った。
私はその瞬間に倒れると思っていたが、何故か安堵感が沸いていた。
その〝人〟は私の顔を見るなり、とても驚いた表情を見せて突然走り去っていった。
私は立ち上がり、霧に消えていくその〝人〟の姿を見つめて、追い掛けようか迷っていた。なぜなら、その〝人〟の顔は私に瓜二つのようにソックリだったから。
でも、顔はソックリだが髪形が違っていた。私が今までにした事の無いショートカットに近い髪形だった。
脚が震えて追い掛ける事もできず、その深い霧の方向を見つめるだけで、ただ呆然と立ち尽くしていた。吹き抜ける風がやけに重たく感じられた。
*
まるで深い海底から浮き上がってくるかのように眠りから覚めた。バスの振動が心地よくて、膝の上に置いた荷物に被さる状態で寝ていたようだ。首筋にかいたじっとりとした汗がとても気持ち悪く感じた。乗った時は暖かかったバス内が今ではとても暑い。
さっきのは夢だったのかなぁ。
あの人は誰だったのだろう……。はっきりと覚えているショートカットの自分。
まさか未来の私の姿だったりして、という勝手な想像をしていた。今までショートカットは似合わないと思い、今より短くする事は無かったけど、見た感じは意外とすっきりした感じで良かった。でも、印象がちょっとキツイ感じだった。
自分の髪形について、あれこれと考えていると、突然どこからか冷たい風が吹き込んできて、温かさで緩んでいた身が引き締まった。誰かが窓を開けたのだろうか。
寒さで身を縮めた瞬間、私は何かを感じた。
何だろう、この感じ……。
昨日も感じたこの感覚。言葉では言い表せない直感的な感覚。何かが起こる前触れだろうか。そう思うと少し不安な気持ちになってきた。
バスはまだ曲がりくねった山道を進んでいた。その度に曲がる遠心力で身体が右や左に傾いて、乗り物酔いになりそうな気分になってきた。
気持ちが悪くなってきたなぁ。
曇った窓からは外の景色がどうなっているのか分からなかった。
バスの騒音だろうか、先ほどからノイズが酷い。イヤホンをつけて鳴っているかのようで、頭の中がすごくうるさい。他の人はどうなのだろう、私だけなのだろうか。
バス内の雰囲気は相変わらず、ほっこりとした空間が広がっていた。急にバスの速度がゆっくりとなって停車した。やっと到着かな。
「願谷~ 願谷~ 次は北願谷で停車します」
声の低いアナウンスが流れ、私も含めて乗っている半数以上の人がここで降りるようだ。
いよいよ楽しみにしていた願谷だ。私は心を躍らせてバスを降りた。
目の前には一面の雪化粧の世界が広がっていた。森林も地面も空も山も全てが真っ白。数秒間、私はその白い景色に見とれていた。
一緒にバスを降りた殆どの人は、この道路から木々の合間へ続く細い雪道を進んで行くのが見えた。たぶん、ここで降りる人は宿場へ向かうに違いない。私もその集団の最後尾から少し距離をおいて付いて行く事にした。
雪道が森林の日陰で少し薄暗くなり、日が沈んだ後の夕闇を思わせるほどだった。このまま進むと視界が真っ暗な夜になりそうと思うと少し足が引けてきた。
見上げても先が見えないくらい背の高い木々がどこまでも並び、時折、風が吹くごとに上から粉雪がゆらゆらと舞い降りている。自然が作りだすその神秘的な光景は不思議なほど心が洗われる感動が突き抜けた。
「きれい…… だけど寒い」
いつまででも見ていたい気分だったが、集団にはぐれないように気をつけて歩いた。
暖かいバスの中に比べると、ここは冷凍庫の中のように寒い。私はどちらかというと寒さには強い方だが、ダウンジャケットを着ていても身体が震えるほど寒い。もしこのオレンジ色のダウンジャケットが無かったら、どうなっていただろう。フードを深く被りながらそう思った。
暫く歩くとやっと雪の細い道を抜け、視界が開けて明るくなった。山と山の合間を切り開いてできた集落で宿場が点々と疎らに建っているのが遠く見えた。
今年の春に放送されたTVドラマ「願えば叶ふ」の舞台になったのが、願谷のこの集落の宿場だった。そのドラマは視聴率が良く、人気があったので放送後にこの場所を訪れるファンが続出した。もちろん私もそのファンの一人で、一度は訪れたい願望が心の中で続いていた。
訪れる人の一時期のピークも過ぎて、最近は少なくなってきているはず。もしかしたら前を歩いている集団の中にもファンがいるかもしれない。
集落までは緩やかな下り坂が続いており、谷を風が常に吹き込んでいるからか一段と気温が低くなっているように思えた。
「ひやっ」
坂道を歩き出した瞬間、ふいに足元がつるりと滑り、大きく尻餅をついた。
「痛たたた」
この寒さなので坂道がカチカチに凍っていたようだ。それに靴裏がツルツルなのを履いてきてしまった事が、こんな所で大失敗だ。
「君、大丈夫?」
後ろからグリーンとコバルトブルーのストライプ柄のスキーウェアを着た男性に声を掛けられた。集団の一番後ろを私は歩いていたと思っていたので、かなり驚いて固まった。
「この辺はアイスバーンができて滑りやすいから気をつけて」
男性はそう言って、私の手を取って立ち上がらせてくれた。
「ど、どうも」
突然の事で面食らった私はそう答えるのがやっとだった。
再び坂道を慎重に下り始めた私の心臓は鼓動を打ち続けていた。