第一章 吹き抜ける風が冷たくて(6)
これで荷物は全部だったかな。昨日、机の上に広げた持ち物をカバンに詰め込んで呟いた。忘れ物はないよね?
私は髪をかき上げた。
念のため、部屋内をもう一度、見てまわる事にした。記憶の虫食いのせいか忘れ物も多くなった気がするので、できるだけ必要なものは目の届く机の上に並べるようにしている。
うん、大丈夫そうね。
オレンジ色のダウンジャケッを着て、荷物を片手に部屋を出た。今回はちゃんと〝犬のオブジェ〟も一緒に入れた。もう置き去りにしたら捨てられちゃうだろうし、このオブジェは私を必要としていると感じたから。これからは私が持つと、私が守ると決めたの。
一階のフロントで宿泊代の支払いを済ませ、出口へと向かって歩いた。
昨夜は気が付かなかったが、太陽の光が差し込むと磨かれた床がキラキラと反射する綺麗なフロアだった。
ホテルの外に出ると一瞬、目が慣れるまで開けられないほど眩しい朝日が東から照り付けていた。晴れていても山々から吹き降ろす風は冷たく、ダウンジャケットが無かったら、震えていたにちがいない。
うん、この森林の空気はやっぱり癒される。私の身体の中を浄化するように、その癒される空気を深々と呼吸した。ここに住めば毎日この空気が吸えるのね。太陽の光を十分に浴びて、心身ともにスッキリした気分で歩き始めた。
この付近の簡単な地図が描かれた看板でもあれば分かりやすいけどなぁ。見渡してもホテル横に置いてある自販機ぐらいしか見当たらなかったので、この辺で一番の目印となる南願谷駅前まで戻る事にした。
*
いつもは毎朝、会社に着いたらパソコンを立ち上げて、今日のスケジュール確認とメールチェックをする。マイ湯飲みに給湯器でお茶を入れて、デスクで飲みながらほのぼのとする。これでやっと頭が起きてきて仕事に入れる。
本来は就業時間が八時半からだけど、その十五分前には到着して、その一連の作業をしている。その時間は二人の先輩と上司が出勤してくるまでの気が休めるひと時なのです。
「おはようございます」
出勤時間ギリギリにデスクに着く先輩達に挨拶をする。
さあ、業務開始のチャイムが鳴ったら仕事スタートだ。
私は仕事をマラソンに例えて考える事が多い。短距離走のような急ぎの仕事が入ったり、長距離走のように日数の掛かる仕事が入ったりするからだ。
本来この受付兼事務という仕事のポジションは共同作業が普通だけど、サボる先輩のおかげで個人競技に思えてしかたがない。チャイムが鳴るまで今日の仕事のスケジュールを見返しておく、まるで今日のマラソンコースを確認するように。
あっ また仕事の事を思い出してしまった。
いけない、いけない、旅行の時ぐらいは仕事の記憶は思い出さないようにしようっと。
*
本日の行き先やルートを忘れてはいけないので、健忘症対策として事前に書いてきたスケジュール表を確認しながら歩いた。
駅の前は小さく整ったロータリーがあり、それから真っ直ぐ北に延びる幅の広い道路に商店街らしき町並みと並木道が続いていた。昨夜は街灯の明かりしか見えず、気が付かなかったなぁ。
自分の描いた地図を片手に、駅前からその並木道に沿って足を進めた。
「♪春の晴れた日、冬眠から覚めた小熊のようにウキウキと~」
心がウキウキしてくると鼻歌が出てくる。
山に向かって延びる緩やかな坂になっており、ちょっとした登山をするような気分になってきた。商店街はまだ閉まっている店が多く、走っている車も歩いている人も疎らで、静かな雰囲気が占めていた。人込みが多い都会に比べ、これだけ人が疎らだと歩いているだけで自分の存在を感じる事ができて嬉しかったりする。
これは不思議な感覚だった。都会に暮らし始めて三年が過ぎ、自分の感覚が徐々に変化していたのだろうか。
緩やかな坂道を歩いていると突然、後ろから犬の吠える声が聴こえた。
「わんわんわん」
「えっ!?」
チャロの声がして心に電撃が走るほど驚いた。
振り返って見てみると、チャロとは全然違う犬とおじいさんが散歩をしていた。
何だか今回の旅は不思議とチャロの思い出が浮かんでくる。だからか、何でもチャロの事のように思えてしまう。亡くなってもう二年も過ぎたのに不思議だよね。
たぶん、私の記憶の中ではチャロは生きているから。今でもチャロに会いたいと願っている。どこかで生まれ変わっていたりするのかなぁ、と考えたりもした。
*
コンビニでもあればお菓子やお茶を買いたいけどなぁ。
商店街の端まで来ちゃったけど、買えるような店も無かった。
お茶ぐらいは買いたかったなぁ。
あっ、泊まったホテルの横に自動販売機があったのを思い出したが、そこまでお茶を買いに戻るのも面倒なので我慢する事にした。
目の前に交通量の多い二車線の道路が見えてきた。標識でそれが国道だとすぐに理解した。
ふと、振り返って歩いてきた道を眺めると、思っていたよりも坂道の斜度があり、見下ろすような視界になっていた。駅からの道路は国道とぶつかっており、そのT字付近にバス停があるのに気が付いた。
あのバス停ね。
誰も並んでおらず、閑散としたバス停は風が吹きさらしで、時刻表の張られた看板が常に揺れている。数字が少ししか載っていない時刻表を見ていると、今日の行き先である〝願谷〟がこのバスルートには載っていなかった。
あれっ? このバス停じゃないのかな。
自分の書いたメモの地図で確認してみると、やっぱりここではなく国道の向こう側にあるバス停になっていた。
「ん?」
でも、国道周辺を見てみたが、それらしきものは見当たらず、雑草がうっそうと生えている山坂が左右に続いているだけだった。
首を傾げて考えていると時刻表の横に願谷行きのバス停へのルートが小さく書かれたいた。図によると、「国道を越えて、石階段を上ってすぐ」だそうだ。
石階段なんてあるのかなぁ。
ちょっと不安になりつつも、とりあえず国道を渡ってみると雑草にまみれた石階段がすぐに見つかった。隠れていた物を発見したからか、また一段と私の心はワクワクしてきた。
「よーーし」
手に持っていたカバンをリュックサックのように背中に背負って、階段をいそいそと上り始めた。
周りは木々に囲まれて、さらにうっそうとしてきたが、やはりここを通る人がいるからだろうか人が通れるだけのスペースがぽっかりと空いた獣道のような石階段が続いていた。石階段を踏む感触から気が付いていたが、自分の靴の裏を見てみると、ギザギザではなくツルツルな靴だった。登山に疎い私でも分かるように、この靴は山登りには適していない事を実感している。勾配のキツイ石段が続いているが、徐々に体が温もってきたので体が軽い感じがする。
心の中でテンションが上がっているのか足早に石階段を上りきった。
視界が広がると、そこには二車線の道路とバスの停留所があった。バス待ちの人もいなかったので安心した。
うんうん、願谷行きだ。
さっきのよりももっと数字が少ししか載っていない時刻表でちゃんと確認した。
「ん?」
この時間帯ではあと四十分ほど待ちであった。
「ふぅ」
階段をのぼって荒れた息を整えながら、待合のベンチに腰掛けた。
ここで一回休みかぁ。
私は今の状況を何故かすごろくのように例えた。気持ちに勢いがついた途端、四十分待ちで足止めだから。
昨夜冷え込んだのもあり、路側帯や草木に薄っすらと雪が積もっている。この辺は高い木々で太陽光が遮られ、普段から日陰なのだろう。
時間つぶしのため暫くの間、この周辺を散歩する事にした。
不思議な事にさっきから車が一台も通らない。ここを下っていくと先ほどの国道に合流するのかな。長く孤を描いた下りカーブの先を頭の中で想像した。
湿って澄んだ森林の空気は私の身体の中にある黒い塊を浄化してくれるような気がした。
でもちょっと寒い。中のシャツに薄っすらとかいた汗が冷え、肌寒さに体が震えてきた。