第一章 吹き抜ける風が冷たくて(5)
会社では二年上の先輩女二人と私の三人で受付兼事務の仕事をしている。入社して間もない頃は色々と教えてくれる良い先輩で、仲も良くしてもらっていたのを覚えている。しかし、時が経つにつれて徐々に私だけ疎外されるようになっていった、これといって特に理由も無く。三人グループだと意外と話しにくかったりする、これがその理由の一つと推測している。
そんな距離感のある人間関係になってから、この二人の先輩は仕事中に雑談ばかりをしてサボる事が多くなった。それでいて、いかにも自分が仕事をしたかのような事にしている、仕事は全部私にさせて。上司に言ってもこの歯痒い状況が改善される事はなく今でもそれは続いている。
サボりの先輩、怠けの上司それがストレスの元凶である。私の一つ上の先輩が居たらしいが半年で辞めてしまったと聞いたことがある。たぶん、理由は同じだと思う。
嫌だ、嫌だ、思い出せば出すほど腹が立ってくる。こんな邪魔な記憶は早く〝記憶のゴミ箱〟に捨てないと。私はストレス対策として〝記憶の整頓〟というのを習慣にしている。雑誌か何かで紹介されていた心理学的な本からそれを学んだ。
心の中に一つの大きな箱と棚とゴミ箱が置いてあるのを思い浮かべる。
今日あった全ての出来事の記憶は、その箱の中に入っている。
箱の中にある嫌な記憶や忘れたい記憶は切り分けて箱から出して、ゴミ箱に捨てる。
残しておきたい記憶や気に入った記憶は切り分けて箱から出して、棚に収納する。
そして、現在進行中の記憶やこれからする予定の記憶は箱の中に一段落するまで、そのまま置いておく。
このように記憶を整理・整頓するイメージをしておく事で嫌な記憶からのストレスを減らし、心を安定させる、というもの。あくまでも頭の中での想像のだけど、捨てたい記憶をゴミ箱に分けておくと消えてくれる事があるので気分的に楽になる。
私はその記憶の切り分けがまだ上手くできていない為か、たまにゴミ箱に捨てたはずの記憶が出てきたりする。さきほどのように捨てたはずの記憶が浮かんできて、その度に私の心に悪さをする。
ペチャクチャ、ペチャクチャとよく喋る先輩二人の記憶を再び〝記憶のゴミ箱〟に放り込んだ。
「喋るなら休憩時間に喋りなよ!」
先輩達を叱責するイメージを加えて、今回はゴミ箱の上に錘を乗せる想像をした。これで治まってくれるといいけどね。
記憶の整頓の効果で、気分が何だか楽になってきた。
「ふぅ」
一息つくとスーーーーっと全身の力が抜け、眠りの世界に落ちていった。
暗い闇の中に犬のオブジェが眩しいほど輝いていた。それは電車の中で見つけ、私のカバンの中に入っていたチャロに似た尻尾が欠けた透明なオブジェだ。そのオブジェが放つ光は、まるで私の心の闇を浄化させるような神聖な光だった。私には強すぎるぐらいに。
*
私は夢を見た。
それが夢であるかは実感が無いけど、懐かしい記憶を映し出す映写機を観ている感じがした。何故だろうか私は急ぎながら実家の玄関で運動靴を履いていた。学生服を着た自分はカバンを抱えて、バス停に向かって早足で歩きだしている。
暫くして上着を台所の椅子に掛けたまま忘れていて肌寒いことに気が付いて踵を返した。毎日通学で着ているオレンジ色のダウンジャケットを忘れていた。
実家の玄関を開けると、私のダウンジャケットの裾をくわえて引っ張ってくる犬の姿が見えた。
「チャロ、チャロ、ありがとう~」
私はチャロの頭を撫でて喜んでいた。
それは高校時代の私とチャロとの昔の記憶だった。何故だろうかセピア色の思い出が夢となって現れた。
最近、毎日が寝不足気味で夢を見るのが久しぶりだった私は「チャロ、チャロ」と呟きながら涙を流していた。
*
ピッピピ、ピッピピ、ピッピピ♪
朝の六時半にイスに掛けたカーディガンのポケットから音が小さく鳴りだした。
あっそうだ、忘れていた。
私は毎朝起きるために目覚し時計として、ICレコーダを使用している。起床時刻を設定して、鳴らしたい音を録音しておけば、目覚し時計のようにICレコーダの側面の小さなスピーカーから再生される。これが結構便利で仕事の日は毎朝これに起こしてもらっている。昨夜、寝る前に目覚まし機能のスイッチをOFFにするのをすっかり忘れていた。
部屋中に目覚し時計の音が鳴り響いている。
五分後、夢うつつの状態でもそもそしていると、チャイムが再び鳴り出した。次は二分後に鳴る。これは寝坊防止の為にそういう機能が付いている。いつもこのタイミングで止めている。
眠い目を擦りながらカーディガンからICレコーダを探した。すると、ガサッと何かが足に引っかかった。目を凝らしてよく見てみると、それはオレンジ色のダウンジャケットだった。
「あれっ 私のジャケットがある」
私、寝ぼけているのかな。ジャケットを持ってくるのを忘れたはずなのに……。
手に取って見てみると、やはり自分のものだった。本当はちゃんと持ってきていたのかな。また記憶が曖昧になっている自分が嫌になった。
でも、持って来るとしたら最近買った方を持ってくるよね、普通。ダウンジャケットから何となくチャロのにおいがするような気がした。まさかチャロが持ってきたの?
ううん、あれは夢の中の事。
あまりに不思議な出来事に私は暫く首を傾げて佇んでいた。
先程よりも大きな音量で部屋中に目覚し時計の音が鳴り響いた。ここからは十秒毎に鳴るので、急いでカーディガンのポケットのICレコーダを止めた。
暖房をかけたまま寝たので、部屋がムンムンと温くなっており、パジャマの下は少し汗ばんでいた。暖房のスイッチをすぐにオフにして、温度を下げる為に部屋の窓を少し開けた。
昨日、駅弁当と一緒に買っておいた菓子パンを食べながら、部屋に備え付けのテレビをつけた。毎朝、寝ぼけながら見ている「早起きテレビ」のニュースが流れていた。
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昨夜、十一時半頃、○○県△△市に住む会社員の****さんが刃物で刺され死んでいるのを訪ねてきた母親が見つけ、警察に通報しました。
****さんは刃物で胸を数箇所刺されており、病院に運ばれましたが、先ほど死亡が確認されました。現場に残された指紋から被害者の知人の男を殺人の容疑で逮捕。事情聴取で別れ話のもつれから刺したと供述し、容疑を認めています。
さて、次のニュースをお伝えいたします。
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ニュースでこういう事件を見るたびに私は憤りを感じる。被害者はいつも女性の方が多い、力が弱い女性の方が犠牲になるのがとても嫌。無責任だし暴力的で野蛮な男性って苦手、というか怖い。
私は小学生の頃、一時的にイジメを受けてからちょっとした男性恐怖症になっている。優しい性格の男性に巡り会えたら良いけど、巡り会える事がなければ結婚も無いかな。
憤りをぶつけるように菓子パンの端を強く噛みしめた。