第一章 吹き抜ける風が冷たくて(4)
エレベータに乗って最上階で降りると目の前がもう大浴場の入り口だった。女湯の入り口にはスリッパが一つも並んでおらず、誰の気配も無さそう。脱衣所を見ても誰も見当たらない、やったー。
「♪春の晴れた日、冬眠から覚めた小熊のようにウキウキと~」
春の詩の歌詞を思い浮かべながら鼻歌交じりで服を脱いで脱衣カゴに入れていった。
浴場へのガラスの引き戸を開けると、四角い大きな湯船が奥一面に広がる浴場で、ジャバジャバと打たせ湯の落ちる音だけが響いている。
うん、やっぱり誰もいない。
ジャーーーーと頭の中にまたノイズが流れ始めた。せっかくの楽しい時にこの忌々しいノイズが恨めしい。うるさいノイズに我慢しながら、洗い場で髪と顔と身体の順に洗い始めた。
湯船に入る頃にはいつの間にかノイズは消えていたので助かった。いつものノイズよりかは多少ましに思えた。
「ふぅ~~~~」
お湯に肩まで漬かると大きな息が体の奥から出てきた。今まで冷えていた身体がじわじわと温まっていくのを感じると生き返るような心地がした。のほほんとしていると、何だか犬かきで泳ぎたくなる。誰もいないし、別に良いよね。
確か小学生の時はこんな広いお風呂で泳ぐのが夢だった。あっちこっちへ泳いでいると、段々と湯気が濃くなって視界が真っ白になってしまった。
打たせ湯の音の鳴る方へ向かい、肩や首筋に落ちてくるお湯に当てて、まるで修行しているかのように目をつぶった。打たせ湯を抜けると、不思議と体が軽くなったような気がした。お風呂をあがるまで一人風呂の特権を十分に楽しめた。
*
誰も来ないうちに着替えて、髪も乾かさずに大浴場を後にした。エレベータを降りてペタペタとスリッパで歩く音をさせながら、そそくさと部屋に戻った。
ホテル内でも誰とも会わないので、泊まっているのは私だけかなぁ、と思ってしまう。他の部屋にも誰か泊まっているはずだよね。これだったらお風呂からはパジャマで帰ってくればよかったかなぁ、なんて思いつつ、部屋で水玉の入ったパジャマに袖を通した。
気が付けば部屋内は暖房で床の隅々まで暖かくなっていた。
洗面所に備え付けのパワーの弱いドライヤーで洗い髪を乾かし始めた。髪が肩にかかるぐらいのセミロングなので乾かすのに多少時間がかかってしまう。
「♪春の晴れた日、冬眠から覚めた小熊のようにウキウキと~」
乾かしている間にまた同じフレーズが頭の中で鳴っている。
私は音楽を聴くのが好き、特にストリートミュージシャン出身のアーティストは〝自分の世界を持った〟人が多くて好き。
夕風も元々はストリートでギター弾き語りのシンガーだったが、今年メジャーデビューしたばかりだ。デビュー曲は「自分のたった一つ」という歌で売れ行きはそこそこだったが、今年の四月に発売された「春の詩」がドラマの主題歌で使用された事がきっかけとなって大ヒットした。歌は飛び切り上手いという訳ではないけれど、心にまで響くような特長のある歌声がとても魅力的だ。歌詞も個性的で明るく、新しい感性が光る詞が多い。励まし系の歌が多くて、若い世代に人気のあるソロアーティストだ。
髪も乾かし終わり、暫くベッドの上でのほほんとしていた。
「あっそうだそうだ、メモしなくっちゃ」
今日はICレコーダに何か録音したと思う。ICレコーダをカーディガンのポケットの中から取り出して、再生ボタンを押した。
「錆びついた自動販売機は、白髭を生やしたお爺ちゃんみたい」
少しこもった感じの自分の声がICレコーダの小さなスピーカーから流れた。
そうだった、錆びついた自動販売機を見て私はこぢんまりとしたタバコ屋さんでのんびりと店番をする白髪のお爺さんが頭に思い浮かんだのだった。その時に感じた事をメモ帳へ書き綴った。
メモを書き終えてから、ベッドの上でボーっと壁を眺めていると、ふと机の上に置いた透明な犬のオブジェが目線の先に入ってきた。ちょうどこちらを向いている。うん、やっぱり列車の座席に戻したような気がする。なのに何故、私のカバンの中に入っていたのだろう。
もしかして、こっそりと入ってきたのかな……。
机の上から犬のオブジェを手に取ってベッドに横になり、じっくりと見てみた。列車の中で見つけた時と同じで尻尾が欠けている。
私がご飯を持っていくと飛び跳ねて喜ぶ愛犬の姿が立体フォトグラフィーのように頭の中で再生された。それは昔、飼っていた犬の「チャロ」であった。
コーギーのオスで毛色が全身茶色なので〝茶色〟からチャロという名前になった。私がちょうど五歳の時に私の家にやってきた犬。子供の頃から一緒に成長して、ずっと一緒に暮らしてきた。毎日散歩に行き、公園で遊んだり、お風呂に入れたりもした、私が就職して上京するまでは。大好きなチャロとの思い出は語り尽くせない程ある。
犬のオブジェをそっと机に戻して、ふと窓辺に近づいた。ガラス窓の曇りを手で丸く拭いて、そこから外の景色を覗いてみると、ホテルの看板の明かりと駅まで等間隔に設置している街灯の小さな明かり以外は真っ暗な世界が広がっていた。まるで景色が消えてしまったかの様に真っ黒で、都会ではあまり見られない暗闇だった。闇の中から遠くで木々のざわめく音がかすかに聞こえる。山から谷へと吹き降ろす冷ややかな突風だ、列車から駅に降りた時の強烈な身の震えが甦った。
上着も無いのに明日からどうしようかな、暖かくなってくれればいいけど、インナーの着替えを重ねて着ていけば寒さを凌げるかな。心配事を残しつつ、湯冷めする前にベッドに入り込んだ。少し硬く感じるベッドの中で目を瞑った。すると、周りの状況を察知する感覚が視覚から聴覚へと切り替わり、一段と鋭くなったような気がした。
それにしても静かなホテルね。隣の部屋からも話し声やテレビの音声さえも聴こえてこない。たまに貨物列車の通る音が遠くの方で聴こえるぐらいで、すぐに静寂が訪れる。騒音が無いのって、こんなに心が落ち着くものなのね。
何かに束縛されていた心が開放されるような浮遊感を感じた。
今の時期は宿泊している人が少ないのかも。明日になったらタヌキに化かされていた、なんて事ないよね。何となく昔話であったような場面を想像した。
寝入るまでの間、いつもと就寝の環境が違うからだろうか頭が冴えている。こんな時に何故だか一番思い出したくない事が頭の中に浮かんできた。それは会社でのいつもの嫌な腹立たしい出来事の記憶。
ちゃんと〝捨てた〟はずなのに……。
こういう場合、早く記憶を処理しないと頭の中に居座ってしまい、なかなか眠れないのがいつものパターンだ。私のストレスの元でもある仕事上での人間関係。