最終章 愛の証明(1)
雪山の新雪は冷たくて美しい。
薄っすらと肩に降り積もった雪の感触を確かめるように手に取り、じっと見つめてそう思った。
辺り一面の白い雪は細かくて柔らかく見えるが、実際には氷のようにカチカチに凍りついていてアスファルトぐらいの硬さがあった。
叶峠の緩やかな尾根まで登りきり、一息ついて見渡した。
ここが頂上?
標高が高い場所は極寒の世界だと予想はしていたが、人間慣れるもので寒い環境に長くいると自然と寒さが気にならなくなってくる。山裾は恐怖を感じるほど吹雪いていたが、山頂に近づくにつれて不思議な事に風も弱まり、晴れ間こそないものの徐々に穏やかな天候に変化していった。
ここを越えれば私の願いは叶うのかな……。
私は必ずここを越えて願いを叶えたい。それだけが私の足を進める原動力として限りない力を生み出していた。
あとはここから下山すればいいだけ。折り返しなので残り半分だから頑張ろう。気合を入れて尾根を越えると急な勾配と緩やかな勾配が交互に連なった坂道が目下に続いていた。転げ落ちないようにしないと。もしも転げ落ちたりしたら止まらずに転落死する事も考えられる。
こんな時にへまをしてしまわないように、いつになく慎重に一歩一歩確かめながら足を進めていった。
ここさえ降りればチャロに会える……。チャロに会える……。やっと会える……。
それは私の願い、望み、意思。
突然、雲の隙間から太陽の光が差し込み、私の周りが眩しいスポットライトを当てたかのように明るくなった。わずか数秒の出来事だったがダイヤモンドダストと呼ばれる細氷がキラキラと神秘的に輝いて舞っていた。その幻想的な光景に鳥肌が立つほど私の心は魅了された。
願いは叶う……。
*
夢から覚めた私は暗闇の中にいた。
暗闇というよりも瞼を開くことができない。そして全身が鉄のように重くて全く動かない。
何故、身体が動かないのだろうか。かなしばりが起こっているのかもしれない。身体の感覚が何も無い。
何も見えない。何も聴こえない。何も感じない。
ただ動けずに仰向けのまま寝ているのは分かる。それになんだか身体の中に違和感がある。何か異質なものが幾つも身体の中に入り込んでいるような気がする。
今までこんな感覚が無かったのに、突然思い出したかのように身体が拒否反応を起こした。
嫌悪……。懐疑……。悔恨……。虚無……。そして狂気。
湧き上がる思念に私の心は壊されそうになった。すると、周りの雰囲気が変わった。
身体の傍に何かうごめく物があるような感じがする。それはミミズぐらいの大きさのウジ虫が無数に発生し始めていた。見る見るうちに何百、何千、何万へと数が増えていく。
動けない身体にウジャウジャとウジ虫が覆い尽す光景に私はゾワゾワと背筋が凍りついた。 次の瞬間、ウジ虫は小さな歯を見せたかと思うと私の体の中へと一斉に潜り込んで暴れ出した。 太股、でん部、大腸、小腸、子宮、肝臓、乳房、肺、あらゆる部位へ静かにおぞましい音を立てて、えぐりながら喰っている。私は死への恐怖を感じた。
叫ぼうとしても喉の中にまで無数のウジ虫が入り込んで声すら出ない。私はウジ虫が口から溢れ出てくるのを吐き出した。肺の内部にまでウジ虫が占めてきて呼吸が苦しくなってきた。血管の中に入り込み、静脈と共に流れ、動脈を逆流して心臓へと目指してもぞもぞと進行していく。心臓が心臓として機能しないほど心臓の中にウジ虫が埋め尽くされ、拍動も徐々に弱まっていった。
軽く浮き上がるように全てが真っ白の世界へと移り変わり、鉄のように重たかった身体の感覚も消えていった。
私は再び暗闇の中にいた。
また身体が鉄のように重くて動かなくなっていた。
何も見えない。何も聴こえない。何も感じない。
でも、誰かが喋っている感じがどこかで微かにする。耳で聴こえている訳ではない。誰かが喋っている声が微小な周波数として頭蓋骨に響いている。何を言っているのか言葉までは分からない。ただよく聴いたことのある声の響きだった。どこかしら懐かしい声のような気がする。単なる気のせいなのかな。
暫くして、今度はまた違う喋り声を感じた。
さっきのとは響く声の周波数が違う。比較的低い周波数だから男性の声かな。
その声は五分ほど続き、そして何も響かなくなった。まるで子供がいなくなった公園のような静寂という音に包まれた。静寂の音と私の頭蓋骨が突如共鳴を起こした。
嫌悪……。懐疑……。悔恨……。虚無……。そして狂気。
湧き上がる思念に私の心は壊されそうになった。すると、周りの雰囲気が変わった。
また嫌な予感がする……。
どこからか衝撃音と大きな地響きがする。何か重いものが地面に落ちたみたいな感じだった。 私の身体の十メートルほど真上に巨大なギロチンのようなものが現れた。
あれが落ちてきたらヤバイ。早く逃げないと。
身体は今もまだ感覚が無く、動かす事ができない。
次の瞬間、巨大なギロチンは勢いよく私の太股の上に落ちた。筋肉の繊維と神経がブチブチと切れる音がした後、衝撃音と大きな地響きが鳴り響いた。太股の断面は赤ピンク色の筋肉で見る見るうちに真っ赤な鮮血が染み出してきた。巨大なギロチンは再び持ち上がり、次に私の腹の上に落ちた。血まみれの何かよく分からない赤紫色の内蔵が外にゆっくりと零れ落ちた。重要な血管が切断されたからか、先ほどよりも一段と出血が激しい。まるでホースから水を撒くように血液が飛び出している。
次に巨大なギロチンは私の首の上に落ちた。首の脊髄が切断された時、とてつもない衝撃が走った。息をしようにも空気を吸う事ができず、口がパクパクとなっているだけで、首から下は何かに操られているかのように笛みたいな音を立てて勝手に呼吸をしていた。呼吸の間隔が徐々に長く、弱くなっていく。血生臭さが広がり、身体の周りは血だまりが広がっていた。
私は何故か死への喜びを感じた。
軽く浮き上がるように全てが真っ白の世界へと移り変わり、鉄のように重かった身体の感覚も消えていった。
私はいつもの暗闇の中にいた。
何故、私はここにいるのだろう……。
私は何かをしようとしていたのではないだろうか。何かを目指していたのではないだろうか。 その部分の記憶がまるで隕石の落ちた大地のように跡形も無く抜け落ちている。
特に思い出さないという事は何も無いって事だよね。
急に目から涙が零れ落ちた。どうしてだろう。何故悲しいの。訳もわからずに泣いている自分には何かしら根拠があるのだろう。何が何だか分からない。頭の中が真っ白だ。
こういう時は白いワンピースを着て出掛けたい。すがすがしい気持ちで。
目的も決めずに思うがままに進むの。自分の直感を信じて。
私の心は熟れたトマトよりも赤色で、私の心は南を向いて咲くヒマワリよりも黄色で、私の心は初夏の新緑よりも緑色で、私の心は北欧の澄んだ空よりも水色で、私の心は南国の美しい海よりも青色で、私の心は桜の花びらよりも桃色だった。
全ての物が幾何学で構成された〝カビラ-ヤウ多様体〟に見えて、全ての物が歪んだ子供の落書きに見える。二重螺旋の楔が複雑に重なり合いながらどこまでも続いている。
やっぱり何が何だか分からない。
頭の中が万華鏡のようにバラバラに散らばった映像が次々と移り変わっていく。
心という形の無い物の構造を形作る微細な断片を私は垣間見た。
空気のような存在のまま暗闇の中にいる。
何も見えない。何も聴こえない。何も感じない。
どこにもアクセスができない。いったいどうなっているの?
まるで電池を抜かれたロボットのように全身が動かない。心を繋ぎとめる留め金にあたる部分が壊れているのかもしれない。
急に目から涙が零れ落ちた。涙腺が熱い。次第に身体も連鎖反応のように熱を帯びてくる。
嫌悪……。懐疑……。悔恨……。虚無……。そして狂気。
湧き上がる思念に私の心は壊されそうになった。すると、周りの雰囲気が変わった。
私の身体の周りを囲むように突然、火柱が上がった。
ジタバタする事もできず、炎は激しさを増して迫ってくる。
このままでは身体が燃えてしまう。
生きているかのようにうねり動く赤と黄が混じった火炎の波が、私の身を飲み込みながら焦がし始めた。
突然、私の頭の中に白いフラッシュが走った。
途端に私の身体は溶け出し、水のような液体へと変化した。どうして水に?と思ったのも束の間、ちょうど背中と接していた床に十センチほどの穴が開いて、液体となった私の身体は吸い込まれて落ちていった。炎に焼かれずに済んだが、このまま落ちて死ぬのかもしれない。
筒状の穴の中を通り抜けた後、空気中を自由落下している。大きな水の粒となったまま、何処までも落ちていく。
落ちていく感覚がとっても気持ち良い。雨ってこんな気持ちなのかな。天から降り注ぐ大粒の雨を想像した。
周りは薄暗い空間へと移り変わり、私は一粒の涙のように零れ落ちていく。眼下には広い水面が広がっているのが見える。
水面にぶつかって弾けると思ったが、不思議な事に水面に当たらずに通り抜けてさらに下に落ちていった。
また辺りの雰囲気が変わった。湿気を多く含んだ空気、雨が降った大地の匂い。風が強く水の玉になった私でも肌寒いほどの気温だ。
今度は眼下に草原が見えてきた。今度もすり抜けるか、それとも……。
地面にぶつかった瞬間、勢いよく水の玉が弾けた。そして私は軽く尻持ちをついていた。
痛たたた……。
お尻を摩りながら立ち上がった。何故か寝すぎた時のような身体のダルさを感じた。目の焦点が合わず、目の前にすりガラスがあるみたいに濁ってぼやけている。
向こうの方から誰かが駆け寄ってきた。
「大丈夫? 怪我は無い?」
その声で近づいてきた人が誰だかすぐに分かった。
「あれっ 貴方は〝無意識の私〟」
「そうよ、久しぶりね」
〝無意識の私〟は怪我を心配して私の身体の周りをぐるりと回って調べた。
ようやく目の焦点が合ってきて〝無意識の私〟の顔が見えた。
「でも〝無意識の私〟がいるという事は、ここは精神世界なの?」
「ええ、そうよ。緊急事態なのよ。とにかく民家に来て」
「えっ えっ 緊急事態? 何があったの?」
「来て頂ければ分かると思うわ。すぐそこだから。そこで説明もするから」
〝無意識の私〟のいつになく落ち着きが無い雰囲気が伺えた。私は手を引かれて、民家に向かって連れて行かれた。




