第三章 自分という存在(5)
小民家を出て少し進んだ所で〝意識の私〟が何かにぶつかって尻餅をついた。
「えっ、拒絶障壁!? なんでこんな所に」
「ここがもう境界なの?」
「いいえ、こんなに近い訳はないわ。まだまだ先にあるはずよ」
でも、やはり障壁のようなものによって進めないようだ。
私も試しに進んでみると、私は何ともなく通る事ができた。
「えーーっ、どうして?」
思いがけない出来事に困惑する二人はお互い目を合わせて何かしらの解釈を探していた。
「もうここから私一人しか行けないみたいね」
「そうみたいね……」
どちらにしろ〝シャドー領域〟には私しか行けない事だし、心細いけど仕方がない。
「とりあえず、進むのは風が吹いてくる方向で良いのね?」
「そう、くれぐれもシャドーには気をつけて」
「わかったわ。貴方も気をつけて」
目に見えない障壁越しにお互いの不安が伝わってきた。
私は深い溜息をつき、気を取り直して歩き始めた。
風の吹いてくる方向…… それは必然的に向かい風になり、私が進むのを拒んでいるかのに思えた。
何故? 行かない方が良いの?
こういう状況が続くと偏った憶測しか出てこない。すぐに雰囲気に感情が影響されネガティブに考えてしまうのは自分の悪い癖だ。生まれもっての性格なのだろうね、たぶん。
私は髪をかき上げた。
徐々に風が冷たくなってきたような気がする。風を受けて体温が下がってきたのかもしれない。
〝意識の私〟と別々になってから二十分ぐらい歩いた頃だろうか。
本当にこっちの方向で合っているのかな、と思った瞬間、いつもの障壁のフラッシュが起こった。
目を開ける前に、鳥肌が立つような寒さを全身で感じた。ちゃんちゃんこを着ていても耐えられないほどの寒さで吐く息も白い。
木製の橋の上にいたが、まともに立っていられないほど風が吹き荒れている。見渡す限り標高の高い真っ白な雪山が連なっていて、どの山脈も濃霧のように吹雪いている。凍てつくような暴風で体温が一気に奪われて身体が震え出してきた。
こんな所は早く抜けないと身体がもたない。
まるで竜巻の中にいるように風が上下左右から吹いているので、まっすぐに歩く事もできない。風で髪も乱れてしまいぐちゃぐちゃ、ワンピースが捲り上がり、前が見えなくなる。歩くのに邪魔でしょうがなかったがどうしようもない。どうしようか考えた末に橋の手すりにしがみ付きながらゆっくりと進んだ。
ようやく何とか橋を渡りきった所で予想通り再びフラッシュが起こった。
最後の精神領域〝シャドー領域〟へと足を踏み入れた。
そこは空には一面ねずみ色の重い雲しかなく、地面には枯れた草や木しか生えていない荒地がどこまでも続いている。そして、先ほどよりも確実に気温が低い。この世の果てのような目の前に広がる景色はどこかで目にした気がする。いいや、気のせいかもしれない。
一歩踏み出すと地面の表面が凍っているのかパリパリと音を立てた。
それに空気自体も凍っているみたいな感じがした。呼吸をする度に肺にピリピリと氷の破片がささるような痛みがする。吐く息が白い塊となっていつもより長く空中を漂っている。
こんな過酷な環境にシャドーはいるの……?。
身体も寒さに対して麻痺してきたのか、痛みも分からなくなっていた。でも、こんな所で長時間の人探しなんて到底できない。
左右に視界を動かすと右方向の少し離れた場所に何か塊が落ちているように見える。
何だろう……。
段々と焦点が合ってくると、それが人の形をしているのが分かった。
「まさか!」と私は急いで近づいた。
近づくにつれて、うつ伏せに倒れている人の形が鮮明に見えてきた。
こんな極寒な場所で倒れているなんて、もう死んでいる? 手遅れだったのかもしれない。
そう思うと怖くて近づくのも躊躇してしまう。よく見ると、黒系のワンピースを着ている。そして、後ろ髪が腰ぐらいまで長い。
「え! この人は違う!」
私は記憶の違和感があり反射的に口から出た。
この人は〝無意識の私〟ではない。
私が〝意識領域〟で偶然に会った〝無意識の私〟の髪形はショートカットだったはず。
目の前に倒れていた人は私の声に気づいたのか、ゆっくりとこちらを向いて立ち上がった。
「誰だ、お前は!」
その人は乱暴に言い放つとこちらを睨みつけた。
やはり顔立ちは私にそっくりだ。精神人格の一人である事は間違いない。でも、髪形がショートカットではないので〝無意識の私〟ではない。という事は、まさか〝シャドー〟? この人が無意識領域を焼き払ったの?
相手の姿が目から離せず、特に眼が合うと徐々に心拍数が上がってくるのが分かる。
「貴方は〝シャドー〟? それとも〝無意識の私〟?」
「あいつらはどこだ! どこに逃げやがった!」
「ちょっと待って、〝あいつら〟というのは誰と誰の事なの?」
「あいつらは絶対に許さない。見つけ出して消滅させてやる!」
こちらからの言葉が通じていないのか、聞こえていないのか、会話がまったく噛み合わない。
消滅させてやる、なんて…… やはり目の前にいるのはシャドーに違いない。
その人は再び私をギラリと睨みつけた。殺意を感じるほど鋭い眼に硬直していた身体を解き、いつでも逃げられるように少し後ずさりして距離をとった。でも、このまま何事もなく逃げられるだろうか。
張り詰めた緊張感の中、シャドーと私の間に一陣の凍った風が通り抜けた。
「私も探しているのよ、〝無意識の私〟を」
あくまでも敵ではない事を意識してそう言った。それに声が確実に届くようにボリュームを上げて言った。
「どこに行った。許さない! 許さない! 絶対に許さない!」
威圧感に包まれた念の塊のような衝撃波が空気を伝わってくるようだった。
「どうして? 何があったの? 何故、怒っているの?」
「あいつらのせいで、いつも苦しむのは私だ! 絶対に許さない!」
「貴方はいつも苦しんでいるのね。でも、誰に? 誰に苦しめられるの?」
「ペルソナだ! あいつは絶対に消滅させないといけない」
ようやく話が噛み合ってきた気がする。
「どういう事? 経緯を教えて。何があったの?」
シャドーが暴れた原因が分かるかもしれない。
この世界に起こった異変の発端について何かしらの情報を聞けるかもしれない。
「こんな世の中だから……」
シャドーはそうつぶやくと怒りに満ちていた表情がどことなく少し緩んできたような気がした。
「ペルソナめ、奴のせいで俺はいつも苦しめられ、いつも苛まれる!消滅させてやる!」
「ペルソナが何かしたの? 良かったら教えて」
「あんなペルソナだと精神がいずれ崩壊する。だから、消滅させなければいけない。そうしなければ、また今回と同じ事を繰り返す事になるだけだ!」
言っている事が短絡的で極端すぎて、言葉から原因や意図は全て読み取れない。
どうすれば……。
「ペルソナとは会った事はあるけど、ペルソナはとても真面目に良く頑張っていると私は思うわ」
「真面目に頑張って何になる。この世の中で……。そんなペルソナは必要ない。消滅させなければいけない!」
「でも、ペルソナは私を守ってくれているのよ。ペルソナがいるから私は現実世界で真面目に仕事して生活できているのよ」
「だから俺を苦しめている。もう限界で我慢ができない」
よく分からない。ペルソナとシャドーには何かしらの関係性があるみたいだけど、何がどう繋がっているのかが分からない。それに気になっていた事を聞いてみた。
「それにさっき貴方は〝あいつら〟って言ったよね。ペルソナの事ばかり言っているけど、ペルソナの他には誰がいるの?」
「〝意識の俺〟だ! いつもいつも俺を忌わしい檻に閉じ込めやがって。絶対許さない。あいつら二人が真面目に生きようとするのがいけない!」
「あのね、真面目に生きて何が悪いの?」
「馬鹿め! いいか、この世の中は怠ける人間が得をし、真面目な人間は常に損をして生きている。怠ける人間は誰しもが自分さえ良ければ良いと考え、真面目な人間を利用して生きている。それがこの世の中では正しい。事実、お前の周りでもそうだろうが」
「私の周りは確かにそうだけど、他には真面目な人だっているわ。損をしても今の真面目なペルソナがやっぱり〝私〟なんだと思うわ」
「まだ分からないのか! それが間違えている。この世の中では怠ける人間として生きれば良い。不真面目な人間がまかり通る世の中なのだから!」
「確かにそうかもしれない。この世の中は人を利用して自分の利しか考えない人ばかりかもしれない。だけど、そんなやり方や考えが正しいなんて言う貴方の事は嫌い。でも……」
「なんだと!」
シャドーは怒りが一気に頂点に達し、突然身体の表面から黒い靄のようなものが噴出し、みるみるうちにシャドーの身体を包み込んだ。そして、靄の中に橙色のつり上がった眼が現れ、大きな黒い靄の獣と化した。
この闇の獣、前に夢の中で遭遇した事がある。あれの正体はシャドー、貴方だったのね。
闇の獣と化したシャドーは突然音も無く襲いかかってきた。
飛び掛ってくる姿がまるでスローモーションが掛かったようにゆっくりと見える。以前と同じ状況にデジャブが起こったのかと錯覚したが今回は違った。
闇の獣の左腕は一瞬にして私の喉元を握り締めていた。さらに締め上げられて息苦しいが、私は声を振り絞って言った。
「でも……、貴方みたいな人がいても仕方が無いと思うの! こんな世の中だから!」
首を握られて、薄れていく意識の中で私は何故か心地良さを感じていた。すると、突然シャドーの左腕の力が緩み、私の身体は地面に落ちた。地面に横たわり朦朧としながら片目を開くと、もう闇の獣ではない人間の姿のシャドーが少し離れて立っていた。
シャドーの頬を一粒の水滴が伝って落ちていくのが見えたかと思うと次の瞬間、シャドーは黒い靄と共につむじ風に乗って消え去った。
私は荒野に倒れ込んだまま暫く意識を失っていた。喉元がキリキリと痛みを感じると思ったら、出血をしていたみたいで、今はもう血が固まって乾いていた。
それにしても寒さによる身体の震えが止まらない。体温が下がって全身の感覚が鈍くなっている。このままでは行き倒れになってしまう。取り敢えずここから早く移動しよう。
足が縺れてこけそうになりながらも〝シャドー領域〟の障壁に辿り着いた。
いつものように目の前にフラッシュが走り、目を開けた時には橋の上にいた。
先程とは違って台風のような激しい強風はもう吹いていない。空には太陽が輝いているが、周りは雪山のままでまだまだ寒い。寒さでこめかみに痛みが走りだし、徐々に頭の中が真っ白になっていく。
早くここを抜けないと。
意識が朦朧とする中、倒れそうになっても、橋の手すりにしがみついてとにかく前に足を進めた。体温が下がり身体全身が常に震えている。震えすぎて身体の関節がおかしくなりそうなほどだ。やっと橋の向こう端まで来た時には目が開けられず四つん這いの状態だった。
目を瞑っていたが、障壁のフラッシュが起こったのが分かった。
〝無意識領域〟に帰ってきた。
安堵と共に私はその場に倒れ込んだ。草原の草が硬いベッドのような弾力と暖かさを感じさせた。
今は〝意識の私〟がいる民家まで行けそうにない。ちょっとここで休もう。
寒さで震えていた身体から力が抜けていくと同時に意識が遠のいていった。




