第三章 自分という存在(2)
街中はさっきと変わらず曇り気味でどんよりと薄暗い。太陽が沈んだ後の宵のような雰囲気が広がり、真冬のような気温と高層ビルを伝って発生する強風に膝掛けを羽織っていても私は何度も身を振るわせた。
会社に行く時は気が付かなかったが、歩道はガムの捨てカスやタバコの吸殻などのゴミでとても汚れている。それに車の排気ガスで呼吸が苦しくなるほど酷い空気だ。
私とペルソナは最初にペルソナに会った場所にまで戻って来た。
ここに来るまでに驚いた事がある。それは車やタクシーが走っているが、よく見てみると誰も乗っていないし運転席にもいない。歩道を歩いている人はいないし、コンビニの中も誰もいない。
「ここには誰もいないの?」
「そうです。貴方の精神世界ですから貴方の精神人格しかいないです」
そうだった、現実味があるので自分の精神世界という事を忘れてしまっていた。
「ここではいつも天気が悪いの?」
「晴れる日もありますが、普段はずっと曇りです」
他愛もない話をしながら歩いていると、道路沿いの汚れたコンクリートのビル群の前に着いた。
「ここが精神領域の境界です。隣の〝意識領域〟へは領域間の橋を渡って行く事ができます」
「橋は領域と領域を繋ぐ橋だったのね」
「そうです。さあ行きましょう」
橋の袂を跨いだ瞬間、目の前にフラッシュが起こって視界が変わった。
木々の緑が溢れるほどの山々が遠くに広がっている。木製のしっかりとした造りの橋からは遠くの眺めがとても良い。
ここは初めに歩いてきた橋だわ。
雲一つない青空でぽかぽかとした日差しが降り注いでいる。太陽の光線は暖かく優しい光で冷えきって強張っていた身体が段々と緩んでいく。
やっぱりさっきの場所とは気温が違う。そして空気も違う。深呼吸をすると気分がスッキリして歩く足が軽くなったような気がする。
橋の向こう側に次の〝意識領域〟があるのね。
ゆっくりと一緒に歩いているとペルソナが話しかけてきた。
「あの、先にお話しておきますが、基本的に精神人格は〝隣の精神領域〟までにしか入る事ができないです」
「え、そうなの?」
「精神領域を繋いでいる橋は一つしか超えられないのです。つまり、私ペルソナは〝意識領域〟までしか行けないのです」
ちょっと分からなくなってきた。
「さっきの場所から他の三ヶ所の精神領域には繋がってないの?」
「はい、そうです。ちょっと説明不足でしたね。精神世界は〝ペルソナ領域〟、〝意識領域〟、〝無意識領域〟、〝シャドー領域〟の順に上から一列に連なる構造になっていまして、上から下に行くほど深層領域になっていきます。最上領域であるペルソナ領域〟からは〝意識領域〟にしか繋がっていないのです」
「そうなのね。なんとなくイメージ的には分かったけど…… 不思議ね」
ここでは初めて聞く事が多くて驚く事ばかり。他の人も普通にみんな知っている事なのかな。
青空を眺めながら考え事をする私にペルソナは話を続けた。
「違う精神領域に違う精神人格が居続けると精神のバランスが崩れてしまう事があります。それは現実世界でも何かしら症状があるはずです。例えば、頭痛がしたり物忘れが多くなったりとかですが」
私は思い当たることが次々とあった。
「そういえば最近、物忘れがかなり酷いわ。それにノイズのような幻聴が聴こえる事もあった」
「それでは他の精神人格が自分の精神領域に居ない可能性が高いですね」
「それが誰かって事は分からないのよね?」
「精神世界で一番影響力の大きい精神人格である〝意識の私〟か〝無意識の私〟だと思います。二人ともかもしれないですし……」
そうこう話をしているうちに橋の端まで進んでいた。
ここで次の場所に変わるはずね。
一歩踏み出すと予想通りに一瞬のフラッシュが起こり、目の前の景色はがらりと変わった。
目の前には区画の整った街並が広がっている。
ここが〝意識領域〟ね。
立ち止まっている私に進めと言わんばかりに後ろから追い風が吹きぬけた。
ここのどこかにもう一人の私がいるかもしれないのね。
ペルソナがいたような都会の汚いビル街ではなく、閑静な住宅地が並んでいる。
真夏のような晴天で日差しが強く、さっきの橋の上よりも気温が高い。ここでは膝掛けが逆に暑いので、折りたたんで片手で持つ事にした。ペルソナもさすがにトレンチコートを脱いでいる。
時折、吹く微風と薄めのワンピースのおかげで多少の暑さは緩和されているが、日焼けしてしまいそうなほどの陽光に露出している部分の肌がヒリヒリとした痛みを感じた。
さっそく〝意識の私〟を探す訳だけど、いったいどこにいるのだろう。
「ねえ、こんな街中で〝もう一人の私〟を見つけるのなんてかなり時間掛かるよね」
「いえ、精神人格同士はある程度の距離内であればお互いの存在を感じとれますので割りと簡単に探すことができます」
「えっ そんな事ができるの?」
「はい、この近くにはいらっしゃらないみたいですね。暫く歩いてみましょうか」
「そうね、もし〝意識の私〟さんが見つかったら教えてね」
「了解致しました」
ペルソナが一緒で良かった。私一人だと見つける事ができずに彷徨っていたに違いない。すぐに〝意識の私〟が見つかれば良いけどね。
ペルソナは汗をハンカチで拭きながらこう話しかけてきた。
「もしかしたら家の方にいらっしゃるかもしれないです」
「家? その家の場所は知っているの?」
「はい、私もこちらへは数回ほどしかお邪魔したことはないですが」
「それじゃ、その家を確認しに行こう。可能性高いかもしれないし」
「はい、こちらの方向になります」
ペルソナの指差す方向へ足を進めた。
*
歩きながら探し始めて十分程経った頃だろうか、懐かしい家が見えてきた。
「あれっ さっき言っていた〝家〟ってあの家? あれは私の実家だわ」
外観は二階建ての一軒家で私の実家そのものだった。
「はい、ここが〝意識の私〟の家になります。でも、ここからは存在が見当たらないですので、いらっしゃらないと思われます」
私は久しぶりの実家だったので懐かしさで思わず入っていった。念のため、〝意識の私〟がいるかどうかの確認もしたかった。
一階の台所とダイニング、和室、トイレ、洗面所とお風呂場、縁側と小さな庭。二階の荷物だらけの洋室、そして私の部屋。
ん~、やっぱりいない……。
自分の部屋でふと立ち止まると、勉強机や本棚やクッションなどが昔のまま残っているのが目に入った。部屋内の匂いも懐かしい。これは間違いなく私の匂いだ。
勉強机に飾ってある写真立ての写真は私が小学生の頃に撮影したものだ。はにかんで写っている小さい頃の自分に笑みが出た。父親の記憶が薄いのは私が中学生の頃に交通事故で亡くなったから。この家は私が上京するまではずっと母親と私とチャロで暮らしてきた。
本棚には学校でよく使ったノートが捨てられずに残っていた。並んでいるノートの中から一冊手に取ってみた。
英語用のノートだった。英語はどちらかというと得意な方で中学高校の頃は英和辞典を片手によく勉強した科目だ。始めのページは丁寧に書いているが段々と雑な書き方になっているのがよく分かる。自分のクセのある字は今でも変わらない。ペラペラ捲ると最後のページにチャロの絵が描かれているのを見つけた。とても懐かしい思いが深い記憶の底から上がってきた。
チャロ……。
あの頃はとても元気で毎日が楽しかった……。
他の部屋を見まわっていたペルソナも部屋に入ってきた。
「やはりこの家にはいないみたいですね」
「そうね……」
ペルソナは私の見ていたノートに目が入ったようだ。
「チャロですね。私はあまり接する機会が無かったのですが、〝意識の私〟からは話を良くお聞きしています」
「可愛くて優しい犬だったの……」
私は涙を浮かべながらチャロの事を思い出した。溢れてきた熱い涙が止まらずに頬を伝って流れ落ちた。
暫くの間、気分が落ち着くまで部屋の勉強机に座って涙を拭いていた。ペルソナは余計な事や文句も言わずにずっと待っていたが、空気を読んで口を開いた。
「もう少し他の地区も探してみましょうか。まだ調べていない場所もありますので」
「そうね、探してみよう」
家を出て街の中を一通り歩けるように道路沿いに探しながら進む事にした。
昔の記憶ではこの先は川があったような気がしたが、進むうちに不思議な光景が見えてきた。住宅地がまるで線を引いたように途中で途切れていた。そして、その先には草原が広がっていた。まるで全然柄の違うパズルのピース同士が隣に並んでいるような感じだった。草原の真ん中には舗装されていない砂利道がずっと先まで続いている。




